日本財団 図書館


Salamatと無私の精神
石岡 薫(鹿児島大学医学部3年)
 最近ずっと私の脳裏をさまよい、離れない言葉がある。それは“Salamat(サラーマッ)”である。タガログ語で「ありがとう」という意味で、フィリピン訪問した時に、何度も言った言葉なのだ。
 フィリピンに行けたのは本当に偶然であった。将来自分のバックグラウンドを国際保健分野で活用したいとの思いで今回の研修に応募し、幸運にも選考を通り、全国から集まった13名の仲間と一緒に激動な11日間を過ごした。研修中、私たちは国内、海外の併せて23の医療関係施設を見学し、8カ国合計52名の先生方から講義を受け、マニラの小学校や集会場で数百もの子供たちに会った。それに、同行してくれた方々、フィリピン大学医学部で仲良くなった学生たち、各施設で説明をしてくれたそこのスタッフの方々、エバスリーチャイルズ療養所で出会ったハンセン病の患者さんたち・・・僅か半月もない間、驚くほど多くの貴重な出会いに恵まれた。
 私たちがマニラに着いたのは土曜日の午後だった。バルア先生がホテルで待っていた。この研修の指導専門家を務めたこともある先生は、中国への出張を控えており、いつものようにフェローシップの学生と一緒に過ごせる時間が少ないと予感されたのか、休日にもかかわらず、講義をしてくださった。翌日の夕食会にも同席下さり、夜遅くまで私たちの進路相談にのってくださった。仕事の都合で結局一緒にセブ島には行けなかったが、それでも先生はできる限り、私たちと会う時間を作ってくださった。
 フィリピン大学で知り合った医学生もとても親切であった。私たちが訪問したその週の金曜日に大事な期末試験が控えていたが、私たちの主催した懇親会にも参加し、翌日は解剖室、講義堂など大学のキャンパスをはじめ、付属病院を見学する際、一人ずつ付いてくれて解説委員を務めてくれた。短い訪問だったが、別れの時はお互いに辛かった。
 私たちはいたる所で暖かく包まれていた。レオナルド・ウッド研究所のMrs. Limは視線の温かい女性で、私たちがセブ島を訪ねた時、ずっと同行して下さった。帰国する前日は一緒に遅い食事に付き合って下さったLim先生は、翌日の出発時間に、既にロビーで待っていた。早朝の3時半だった。いくら熱帯の国の朝は早いとはいえ、まだ外が真っ暗だった。私たちが全員無事飛行機に乗り込むまで、暖かい微笑みを背に見送って下さった。
 訪問中の色々な思い出も、あの朝のことも、とても忘れられない。今回訪ねた先々に出会った親切に対して、数え切れないほどの“Salamat”という純粋な気持ちが必要だった。
 国際保健協力の目的は何か、或いは国際協力の場合を考える時でも、国内の低空飛行中の経済状況を反映してか、もっと国益を重視すべきだと考える風潮が最近になって著しく台頭してきているように思う。しかし今回の旅で見聞して感じたことから言うと、このような風潮には賛成できない。
 私たちがフィリピンで受けられた親切は偶然ではない。旅先の小さな診療所に、結核撲滅運動のポスターが貼られていた。そこにJICAの名前が大きく書かれていた。また、ハンセン病の薬を無料で寄付してきた笹川記念保健協力財団への感謝の話をよく耳にした。あまり因縁のない私たちも間接的にその恩恵を受けていると感じずには居られなかった。日野原先生が「よきサマリア人」について話した事がある。旅するサマリア人が気の毒だと言う純粋な思いでユダヤ人を救い、民族間の平和をもたらした。国際保健協力も、国際協力も、困った隣人、兄弟を見て素通りできないような、もっと人間本能的で人道に基づく純粋な目的で行ったほうがいいのではないかと思うようになった。国益を追求する国際協力はどこかで利益衝突の憂き目に会うかもしれないが、人道的な援助は真の理解を生み出し、友達を増やし、長い目で平和的共存の道につながるのではないかと考えた。
 マニラ滞在期間中に、国際保健分野に携わりたい学生にとってのメッカであるWHOの西太平洋地域事務局(WPRO)を訪問し、事務局長の尾身先生をはじめ、多くの担当官から、一個人として国際保健にどのように関わったらよいか、またどのように関われるかについてお話を伺うことができた。色々なお話しの中、外交官であり、行政官である尾身先生が「無私の精神」について言及され、深い感銘を受けた。「無私の精神」と聞くと、どこか古臭くて、宗教的な響きがして少し変な感じだが、正義の道を信じて自らの生命を惜しまない古来の武士道から、近代日本の礎を築き、発展させてきた先人たちの行動に、この精神が脈々と引き継がれてきていると思う。例えば死後に莫大な借金を残した大久保利通氏の座右銘「為政清廉」にも見出せる。このような精神の持ち主であるがこそ、人々を幸せにし、リーダーとして民衆に歩むべき道を示す事ができたのではないかと考えた。はなはだ失礼な話しではあるが、国際機関のような各国の秀才が集まる華麗な舞台で、スマートに舵取りをされる尾身先生のカリスマ性は、その深層に「無私の精神」が流れているからこそ築き上げられたのではないかと思った。
 よく考えてみれば、私たちの今回の貴重な経験は、フェローシップの唱導者である大谷先生、紀伊國先生、矢崎先生などをはじめ、忙しい仕事を中断して来て下さった吉川先生、菅野先生、多くの準備作業に労を厭わなかった笹川記念保健協力財団の方々、そして多くの方々のご好意によってはじめて成り立ったものである。社会的な役割はそれぞれ違いますが、今回の活動を成功に導いたのは数多くの「無私の精神」があってのことだと思った。
 願わくば、将来国際保健分野に携われた場合の、いや、もっと根本的に、これからの人生、一医療従事者としての生き方の基本を一つ、今回の旅で見つけることができたように思う。
 メトロ・マニラはいくつもの顔を持っている。マカティのような先進国顔負けのビジネス街もあれば、ごみ山の延長にある貧困地区もある。穴田さんのお蔭で、私たちはトロッコに乗り、普通の観光客の目に触れない沿線にぎっしりと建つ長屋とそこに棲む人々の生活ぶりを垣間見、火災後1年を経っていないマラボン地区を訪ねることもできた。そこで会った人々は貧困な生活を強いられながらも表情は明るかった。特に子供たちの透き通った笑顔に感動し、自分も晴れ晴れとした気持ちになれた。
 フィリピン訪問はあっという間に終わったが、旅はこれから始まるような気がした。国際協力などを気安く考えていた自分だが、建野先生が話したあの「悔しさ」の重みが、今やっと少し分かってきた。「国際協力を志すものはまず、国際機関の人たちと渡り合えるほどの語学力や知識をつけること」の大切さを痛感した。
 今年の夏にもそろそろ別れを告げなければならないが、去りし日々の感動が時々蘇ってくる。言葉に表し尽くせないほどの多くの思い出を、今回の活動で知り合い、寝食を共にし、助け合い、また、真剣な討論を深夜までした楽しい仲間と一緒に、ずっと大切にしていきたい。またいつかは一緒に大きな仕事をする日を夢見て。
 
第10回国際保健協力フィールドワークフェローシップ・海外研修に参加して
吉川 理子(指導専門家)
 あれは確か、2003年5月ごろ。私は、いつものように、病院で患者さんの採血やX線読影に追われていた。
 「今年のフェローの引率に行きませんか?」
 突然、国際医療協力局計画課:中野慈文課長から、PHSに電話が入った。
 「行かせていただきます!」
 チャンスは逃がさず!と、威勢良く返事をしたものの、いろいろな心配事が頭をよぎった。1つは、日程。私は正職員ではなく日雇いなので、当然、自分の夏休みを使っての参加となる。財団から院長や医長に要請を出していただくものの、公式に休暇がとれる訳ではない。また、他の医師となるべく重ならないように休まないと、スタッフにも患者さんにも迷惑がかかる。皆が休みをとりたいお盆の時期にフェローが開催されるというから、私のわがままに対する周囲の医師の理解と協力が必要であった。さらに、職場の同意を得たとしても1週間の休みしかとれないので、国内研修は参加できそうになかった。このフェローの<売り>は、概して国外研修にある、と思われがちであるが、たった2日間である国内研修も実はそれに負けず劣らずの価値があると思う。情報量、訪問場所、そして、何よりこの道の国内の大先輩方や同じことに興味を持ちながら医学を学んでいる医学生、看護学生、数にして数十人とが知り合いになり、話をし、その後も交流するきっかけを得る。国際保健に興味ある縦軸・横軸の人間がこれだけ一度に集まる機会は、そんなにない。さらに、この2日間、夜の時間を含めて語り合うことで、国外参加者たちはお互いの考え方、characterをぼんやりとつかんだ上でフィリピンへ向かう。海外での時間は少しでも現地でしか出来ないことに費やされることになるだろう。そうなると、初めの2日間を共に過ごせないことは、参加者それぞれの基本的なスタンスを知らないまま現地へ突入することになってしまう。そんな介入の仕方は、参加の皆さんにとってマイナスではなかろうか?
 2つ目に<指導専門家>の立場。私は、公衆衛生分野の専門家でも厚生労働省所属でもない。第2回のフェローに大学3年最後の春休みに参加させていただき、7年の月日が過ぎ、今は国際医療センターの5年目臨床医(レジデント3年目)にすぎない。こんな若輩者が、何を指導できるのだろう。結核の臨床を含めた感染症ほか多少の呼吸器科の知識や自分の経験している日本の医療の現状を話すこと?国際医療センター内部の人材育成研修を2ヶ月間も受講したのだから、それを実践し、facilitatorとして介入すること?国際保健医療を目標に掲げる当センターでさえも、臨床医学(高度医療としての専門知識・技術が求められる)と国際保健医療学(公衆衛生学をベースとした専門性が求められる)はどちらも年々専門分化しており、<2足のワラジは履けない>というのがお互いの現場からの素直な意見である(もちろん、一部にそういう理想的な生活をする先生もいらっしゃるのは、心強いし、モデル・ケースであるが、小児科と産婦人科の先生を除くとまれなケースだと思う)。そうなると、<医者を辞め><国際保健をやるのは何時なの?>という会話がなされる現状を伝えるために行くのであろうか・・・?
 第2回の時は、当時の厚生省から小野先生、東大の国際保健医療学の大学院生であったスマナ・バルア先生が引率してくださった。第2回のメンバーは、よく言うと非常にアクティブであり、本屋に寄りたい、スモーキー・マウンテンが見たい、NGOを見学したい・・・とプログラムの随時変更を迫るようなわがままな要求が多かったにも関わらず、自主性を重んじて見守ってくださった。夜のミーティングにも引っ張りこんで、小野先生からは行政の実際やタイでのJICAプロジェクトリーダーを経験された時の話、バルア先生からは先生自身の生い立ちから始まり、なぜフィリピン・レイテ島で医師免許を取得し地域医療を目指したかを伺い、国際保健医療を考える前にまず自己を知ること、常にそうすることでどのように国際保健に関わっていくかが見えてくることを教わった。二人とも臨床も公衆衛生も長く経験され、私たちのいろいろな質問に答えてくださった。
 そんな懐の深さを見せる自信は無かったから、ありのままの自分で行くしかないと思った。
 「フェローの先輩として、その後の進路の身近な一例として、facilitateできればいいのでしょうか?」と訊ねてみると、
 「OB・OGとしての参加、でいいんです。」
 と言われ、少しホッとした。よし、こちらが勉強させてもらう気持ちで参加させてもらうことにしよう。
 
 きっと、伝えるべきことは、こちらが意図して与えるものでも与えられるものでもないのだろう。
 参加者各自が経験をシェアする中で、それぞれの感性で感じとり、思い悩み、自分の道を創っていくものなのではないだろうか?
 
 そして、第10回フェローシップが始まった。
 国内研修1日目は、例年のように国際医療センターを会場とし、国際医療福祉大学総長:大谷藤郎先生の開会挨拶、国際医療センター総長:矢崎義雄先生の来賓挨拶に始まり、前駐中国日本大使:谷野作太郎氏、JICA医療協力部部長:藤崎清道氏、東京女子医科大学客員教授・笹川財団理事長:紀伊國献三先生、杏林大学感染症学教室客員教授:辻守康先生、WHO健康開発総合研究センター所長:川口雄次氏、国際保健協力市民の会(SHARE)代表:本田徹氏の講義があり、そのあと厚生労働省医政局局長:篠崎英夫先生を座長としたフリーディスカッションがあった。私は、残念ながら講義には参加できず、ディスカッションのみを拝聴したが、政府機関(GO)としてのパワーを知り、厚生労働省への進路を考えるきっかけになっているのは第2回も今回も変わらないな、と感じた。ちなみに、第2回フェローからは、計3人が見事にリクルートされ(古元重和くん、難波江功二くん、町田宗仁くん)、第3回の田中剛くん、第7回の江副聡くん、など他にも数名入省されている。
 その夜の懇親会は、沢山のOB/OGも加わり、昔以上に賑やかで華やいでいた。第1回の林啓一さん(ハーバード公衆衛生大学院博士課程)、八谷寛さん(第9回引率、名古屋大学大学院医学系研究科公衆衛生学)、第2回の高野綾さん(国際医療福祉大学看護学部からの初参加者、現在助産師)、當山紀子さん(国内研修参加、東大国際保健医療学を経てJICAインドネシア専門家やNGO);ほか、顔と名前が一致しない方々をここに挙げられずに非常に申し訳ありませんが、とにかく沢山の多彩なメンバーが集まった。第2回の時は、関なおみさん(小児外科、池袋保健所を経て、現在、リバプール大学熱帯医学校・熱帯医学修士コース)と小林秀幸さん(厚生労働省)がいらっしゃったのを覚えているし、第3回・第4回の時には、第2回参加の永井周子さん(第6回引率、小児科医を経て、京都大学大学院社会健康医学系専攻・健康情報学)と私でOB/OG会の勧誘目的で参加した程度であったが、もっとこじんまりとしていた。メーリングリストの情報によると、第9回の河合直子さん・滝村剛さん達を中心に事前から計画してくださっていた2次会は、当日、28人もの参加があったとのことである。いつの間にかこのフェローも第10回の節目を迎え、同窓会も100人規模となっており、ツアー自体のサポートにいろいろな形で関われる豊富な人材がpoolされていることを改めて実感した。OB/OGの懇親会参加も年々重要性が増してきているように思い、同窓会運営の努力に改めて感謝した。
 
 国内研修2日目は病棟業務のため、やはり参加できず非常に残念であった。しかし、多磨全生園・高松宮記念ハンセン病資料館訪問、結核予防会結核研究所国際協力部部長からのお話など、プログラムを見る限り7年前と大差ないようだ。
 
 そして、海外第1日目。ようやく9日間を共にするメンバーと会えると思うと、学生時代のように胸が高鳴るのを感じた。メンバーは皆、すでにお互いをあだ名で呼び合い、旧知の友のような雰囲気を醸し出しており、今後のグループとしての行動力が期待された。
 7年ぶりのマニラは、走る車は新車が多くなり、昔感じた薄暗さや怖い雰囲気が薄れているように思えた。出国1週間前にはマニラ市でのクーデター未遂事件など報道され、正直警戒していたが。しかしそれは、今回参加の方々の明るい雰囲気と、現在WPROで働かれている平岡さん(第6回国内研修)、お馴染みのスマナ・バルアさんに温かく出迎えていただいたおかげかもしれない。
 ホテルでは、まず、バブさんのオリエンテーションレクチャーがあり、自伝を伺った。日本の学生はプレゼンテーションが下手と言われているのは、<自分が何者であるか>生い立ちも含めて深く考え、自己と<ぶつかる>事、そして、大事なのは何をしたいのか 深く広い視野で考えていないからだ、とお説教していただいた。夜のミーティングでは、その意味を自分に問い、涙した学生もいた。何度聞いても胸に響く話であった。
 
 海外第2日目のNGOフィールド見学は、スラムに住む人々の明るい笑顔を見た学生にショックを与え、幸せとは何か、貧困とは何か、大事な視点を与えてくれたようであった。
 
 第3日目のWPRO訪問では、インターンとして働く第2回の難波江くんが司会、JICAから出向中の平岡さんからは講義を受け、大活躍されたOB二人に学生たちは「フェローの先輩が数年後にはこんなに活躍しているんだ!」という希望とやる気を与えてもらったようだ。今年のメンバーの英語力や知識が高く、質問も盛んであった。定番かつmain dishである尾身事務局長の話は、やはり自伝であったが、気取らず率直、かつ鋭い視点で力強く話される姿は、相変わらず人を惹き付ける。夜の懇親会は、第2・3回の頃と違ってホスト役の練習も兼ねており、国際人を意識し、マナーを勉強し、日本文化・相手国文化への配慮に気づくと言う意味で良い企画と感じた。今後も是非継続していただきたい。
 
 4日目のフィリピン大学訪問では、フィリピン大学生が試験前で、夜はご一緒できなかった事が残念であった。5日目のセブ島移動までは非常に慌ただしく過密なスケジュールをこなしていたが、その後は前半のマニラと比べるとゆったりとした時間が流れた。専門分化した日本の現場と比較しながら、ハンセン病の患者さんの診断・治療の現場を見、療養所を回り、地域保健行政の現状を学んだ。
 
 このフェローシップは、企画が目白押しで豪華な反面、大事なメッセージが多すぎて飽和状態になる危険性があるかもしれない。
 この旅行が自分探しの旅であること。そのために様々な先輩のいろいろな現在への軌跡が示されるが、それらを集めるだけでなく、自己へ照らし合わせること。さらに同世代や先輩・後輩、縦・横の忌憚のないcommunication-networkを創り、国際保健への興味を継続していくこと。
 それは、このフェローシップ参加で終わりでなく、今後は与えられずにむしろ積極的に自分で捜し求め続けるものなのだろう。フェロー参加をただの人脈づくり、知識を得る場、又は自己アピールの場で終わらせず、今後の継続的な活動につなげてほしいと思う。
 そして、国際保健の関わり方は多様で、国内/国外、NGO/GO、臨床医/疫学者/公衆衛生学者という既存の分け方のみならず、アプローチには各自の創意工夫が必要だと感じる。
 今回の旅の途中のみならず、現在の(一番国際保健に近い臨床病院?とされる)国際医療センターの後輩医師からも、<常勤スタッフの臨床医は国際保健と直接の関係はなさそうだ。しかし、先輩方をみていると臨床もやってから公衆衛生に入る人が多い。これ、というやり方がなく何をどうやればいいか分からない。>との相談をうける。さらに、<臨床医をまだ続けるにしても、初期研修後、大学に帰らず後期研修を行った場合の進路が見えなくて、不安。>という相談も多い。研修必修化・マッチング制度導入により、今後はなおさら先行きの不透明さを感じながら研鑽を積んでいく若き研修医が増えるであろう。自分もその渦に飲み込まれつつも、少しだけ先を歩いていて言えることは、むしろ、そのような環境を逆手にとり、オーダーメードの研修を楽しむくらいの気持ちで良いのではないだろうか。ただし、常に数年先の何かしらの目標を持つことが大切だと思う(途中で何回リセットされても構わない。具体的であればなお良いが、ぼんやりとした生活像でも構わない。自分にとって譲れない条件は何か。優先順位を常に意識し、全てを満たそうとは思わずに、かつ貧欲に。)。
 
 私自身の反省としては、今回の自分の役割が指導専門家というよりtutorではないか、との指摘を受けた時には、正直、どう返答すればいいか分からず、結局、今でもこの旅への自分の関わり方が明確に表現できないのが申し訳ないと思っています。今回、私以外にも様々なOB/OGがそれぞれの工夫での参加者たちに接し、参加者の間に多少の混乱を来たしたかもしれないし、財団や企画者側との意図の相違があったかもしれない。でも、基本的には同窓生のフェローへの関わりは有意義であり、今後もさらに工夫していけると感じています。
 最後になりましたが、今回参加できたことに心から感謝するとともに、フェローシップの今後の発展と皆様の今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION