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 一番怖かったのが、盲腸だったんです。盲腸だけは予測ができないので、私は最初、「切ってください」とお願いしたんです。航海に出発する半年くらい前のことでした。「もう、必要ないですから、切ってください」と私が言ったら、病院の先生は「ちょっとそれは、今給黎さん、だめだ。切ると一年ぐらい体の調子が元に戻らないから、もう遅すぎる。もうしょうがないからこのまま行きなさい。」ということで、痛みを散らす薬や緊急時の鎮痛剤はいただいたんです。でも、急性だったらどうしようもない。「先生、急性の虫垂炎になったらどうすればいいんですか」と聞いたら、その先生も「うーん」と考えるんです。「いやぁ、今給黎さんね、その時はね、あきらめなさい」「あきらめるんですか。それって死ぬっていう事ですかね」「うーん、それしかないね。あんた、海上で盲腸の手術をするのは無理でしょう。」「無理です。」「そのときはあきらめるか、無線で誰か来てくれって言えば、来てくれるかもしれないよ」。そんな感じでした。
 
 
 おかげさまで、大きい怪我、病気はなかったです。ちょっと急激に船酔いで痩せたりして、フラフラするなぁとか、ちょっと風邪気味だなぁとか、その程度しかなかったです。それは非常にラッキーだったと思います。本当に海の上は何が起こるか分かりません。そこに向かっていく、かっこよく言えば勇気ですね。それは非常に大変です。でも、やっぱり好奇心が勝つんです。
 「半年も私一人でいたらどうなるのかな」「台風の中に巻き込まれたらどうなるのかな」という好奇心が、私は旺盛みたいです。
 実際に台風にあった時も、本当生きた心地がしなかったです。最大風速50mの台風が、向かってくるんです。ヨットよりも台風の速度が速いので、逃げられないんです。台風は中のほうに風が巻きますから、どんどん中心に向かっていってしまいます。その時はほとんど中心にまで入ってしまっていました。3日間生きた心地がしなくて、私にできることといったら、とにかく帆を全部降ろして、船の上の荷物、中の荷物を全部ロープで固定して、外に出ないようにちゃんと入口のところピターッと閉めて、中から鍵までして、ただただ中でじっとしていることだけでした。その間、まじめに手を合わせて「神様、仏様、どの神様でも何でもいいですから、どうにかしてください。この状態を助けてください」と祈っていました。
 そんな祈りも本当に通じるのか、通じないのか、通じたのか通じなかったのか本当によく分からないです。一回だけ横倒しになりました。横倒しと言っても、感覚的には転覆です。ひっくり返ったっていう感じでした。波がもう、数mになっていましたから、その波に巻き込まれてしまったみたいです。「ゴーッ」という音が壁の向こうから鳴ってきて、「いやー、すごい波が来るな。ちょっと窓からのぞこうかな」と思ったときに、ドーンという音とともにひっくり返ったんです。私は天井の方に這いつくばっていて、「あれ、あれ、あれ」と思っていたら、天井の窓が顔の横にあって、いつもは空が見える窓なんですけど、覗くと、何か水族館の窓のようになっていて、泡と水が一緒になって、しばらくしたら水だけになって、「うわぁ、これって本当にひっくり返っているんだ。どうしようかな。」と思いました。そこはもう水深数百mのところですから、「うわぁ、このまま元に戻らなかったら、このまま沈んでいくのかなぁ。」と恐怖でした。でも、それは本当に一瞬で、また、あっという間に元に戻ったんです。
 でも、また元に戻る時が結構大変です。もう一度天井から床に落とされて、でも、私非常に運動神経がいいみたいで、その時に頭から落ちていたら、ちょっと大変だったんですけど、パッと足で着地しました。これはすごく運がよかったと思います。こういうときに顔とか頭とか打って、気を失ったり気絶したり、大怪我したりする方が結構いらっしゃるんです。あと、ヨットの下のほうにキルという錘があるんですけど、それが折れたりしてそのままお椀状態で転覆してしまって、最後は沈んでしまうというヨットもありますから、そうならなくて本当よかったです。
 台風に遭ったのは運が悪かったんですけど、そこから何事もなく逃れられたのは運がよかったと思います。
 あと、氷山にあった時もありました。氷山というのは結構でかいんです。小さいものもありますけど、1km四方のものもあります。そこにでっかい氷の島があるのに、海図には載っていないということがあります。どこに流れるかも分からないです。とにかく見て逃げるしかない。3日間逃げ回ったりしていました。
 そんな航海をしていて、無事日本に帰ってきた時には、「本当に生きていて、よかったな」という気持ちと、この航海を支えてくれた人たちに「ありがとう」という気持ちで一杯でした。この航海の途中に気が狂いそうになった時もあったんです。もう、全てが幻に思えてくるんです。現実感がない。人とも喋らないですから、私の存在感も感じられない。先ほどお見せしたビデオは結構定期的に撮っていたんですけど、そんな私がちょっと精神的に落ち込んだときは1ヶ月間1秒も撮っていません。もう、「こんなのを撮って、何になるの。」と思っていました。
 写真も1枚も撮ってないです。ただ、航海日誌には自分の気持ちを文字で書き付けていました。でも、今見るとぞっとするような言葉ばかり書いていますね。何か、遺書みたいな感じの事ばかりが書かれていて、やはり一人でずっと長くいるとおかしくなるんだ、ということを感じました。
 空しかない、海しかないという中では、人間は、自分が人間であるということを感じられなくなるんです。どこか陸に着いても、全てが幻で、この地球上に私一人しかいないんじゃないかなとか、これ夢なんじゃないかなとか、私がここで足滑らせて海に沈んでも、誰も悲しんでくれないんじゃないかなとか、生きていても死んでいても一緒じゃないかなとか、もうそんな気持ちで一杯でした。
 その時に救ってくれたのは仲間の写真でした。私は写真をちゃんと飾る趣味はないんですけれども、たまたま戸棚を開けて、色々探していたら、写真を見つけました。みんな笑顔で写っています。それで、写真の裏に添え書きとかしてあるんです。「頑張れ、待っているぞ」とかが書かれていました。本当に、その写真が私を救ってくれたんです。
 それを発見した後は、写真をしまうことなく、壁にべたべた貼って、「私は一人じゃないんだ」「みんなが待っているんだ」「みんなが応援してくれているんだ」と自分に言い聞かせて、後の航海をやってきました。
 そして、9ヶ月の航海が終わりました。それから今年になるまで、私は一人の航海をしなかったんです。だから10年間、一人の航海はしませんでした。「一人はもういいや」と思ったんです。
 「いろんな人と一緒に海を楽しみたい」と、本当にそう痛感して、世界一周の航海の後、若い子とか子ども達とかを一杯、ヨットに乗っけています。
 知り合った子達に「ヨット乗りたいの?じゃあ、乗って次の島まで行ってみよう」「えー、いいの」と言われると、「いいよ。でも、学校を休まないと行けないから、ちゃんと学校の先生の許可を取っておいで。あと、親の許可も取っておいで。そうしたら、乗せてあげるよ。」と言ったら、子どもたちは目を輝かして、「うん」と言い、半日で交渉してくるんです。
 そして、「2つとも、許可を取ったよ。」と言って、もう大威張りで船に乗ってきます。そのような子が私の周りに、もう数十人いるんです。10年もやってきましたから、小学校の時に乗った子達が、今はもう大学生になったり社会人になったりしています。その子達が彼女を連れてきたり、彼氏を連れてきたり、友達を連れてきたりするのです。そうやって、私はヨットの輪を広げています。
 本当に自分から進んでやってきた子というのは、色々と目を輝かせて活動するのです。それがすごく面白いです。ヨットと言うと、どうしても、お金持ちの豪華な遊びのように思われてしまうのですが、本当はそんなことないです。嵐のときは、「3K」か「5K」くらい大変なこともありますし、決して豪華な遊びではありません。
 私は日本のヨットのイメージが現在のものになったのは、加山雄三さんのせいだと思っているのです。あの人たちが豪華なイメージを作ってしまって、私はそれを打ち崩す年代だと思っております。「ヨットというのは面白いのだよ」「海で遊ぶというのは楽しいのだよ」「決しておしゃれに構えているものではないのだよ」「皆さん違いますよ」「面白いですよ」と言って、子ども達や若い子たちに呼びかけています。
 10年間、そのような活動をずっとやってきました。今年になって思ったことは、「日本でヨットと言うと、どうしても舶来の船だっていうのがあるな。これは違うな。自分たちのルーツの中にやっぱりヨットがあるはずだ。」ということです。
 ヨットというのは、帆船、帆掛け舟です。そういうのが、自分たちのルーツの中にある、自分が育ってきた文化の中にある。」と思うようになったのです。
 色々調べると、私の祖父はカツオ船に乗っており、カツオ船の網元をしていたのです。遭難して、海で死んでしまったのですけれども、その祖父の時代、昭和の初めまで、帆船でカツオ漁をしていたのです、場所は鹿児島の枕崎という所ですけれども、そこも大船渡と同じように海で発展してきた町なんです。その帆船でカツオを捕りにどこまで行っていたかというと、パラオ、ニューギニアの辺まで行っていました。
 第二次世界大戦後、国境というものがピシッとしてきたんですけど、本来、海の民にとって国境なんて関係ないんです。夢があっちにあれば、金儲けできるものがあっちにあれば、そこまで行っちゃおう、というのが海の人間だったと思います。「陸の人は守っていくら」ですれども、「海の人は攻めていくら」の世界だったと思うんです。北風が吹いてきたら、南方に出漁していくんです。
 そして、海の人間はあちこちで漁をして、島にカツオを揚げていきます。そこに鰹節工場を作っていくんです。どんどんいろんな島に行って、南の方で漁を一杯して、鰹節を一杯作って、今度は夏場の南風が吹くときに帰ってくるんです。そこで、鰹節を回収します。それで、また鹿児島まで戻ってきて、今度は鰹節を売りに行く人は売りに行く人でいるんです。それでは、漁師さん達は何をしていたのかというと、北風が吹くまで船の整備をして、次の航海の準備をし、あとは飲んだくれていたのです。そして、北風が吹けば、出漁していくのです。
 本当に博打みたいな生き方だと思いますけど、本当にそういう生き方や文化っていうのが自分のルーツにもあったのだっていうのを知って、すごくうれしかったです。
 それで、もっともっとそういうことを知りたいということで、今年、小さい船で鹿児島を出発して、今はまだ旅の途中ですけど、朝出て、夕方どこかに着くという風まかせの旅で、今静岡まで来ています。日本を縦断して、鹿児島から北海道まで行ってやろうと思っていますけど、一気には来られなくて、夏場の時期だけ走って、もうすぐ神奈川ぐらいです。神奈川で一旦止めて、神奈川から北海道まで来年の夏場する予定です。ここも来年のいつか分からないですけれども、夏場に訪れたいと思っています。
 いろんな漁港に入ると面白いです。「帆掛け舟で来ました」と言うと、「俺も乗ったことがあるよ」と言う、70代、80代の方がいろんな話をして下さいます。残念ながら、60代から下は帆掛け舟を知らないです。どうしてもヨットっていうイメージになっちゃうのです。それで、なかなか日本の海際では、そういう意見が出てこないのですけど、本当に帆掛け舟というのが海の文化の基本だったのです。海沿いの町を作ったすべての源は、帆掛け舟だったんです。そこで、遠くにまで仕事にも行けたんです。艪では無理です。風があるから、帆があるから遠くにまで行けたんです。物も入ってきた、物も出ていった、人の交流もありました。そこを通って、山道を歩くよりもはるか速いスピードでいろんなものが伝達していったのです。
 そのルーツが昭和の初めまではありました。しかし、車の出現と同時に、船もエンジンが導入されて、高度成長期になって、全てはなくなってしまいました。昭和30年代まではあったというのが、みんなの声です。高度成長期にすべて不便なもの、遅いものというのは切られてしまったのです。
 もっと、もっと自分たちの歴史を辿れば、文化を辿れば、帆掛け舟に辿りつくのではないか、と私は思っています。
 昨日も気仙丸を見せていただきました。前まで海博ですばらしい飾られ方をして、その時はたくさんの方に注目されて、「すばらしいな、大船渡の歴史だ、文化だ。」と言われていた船が、今はひっそりと港の片隅に置かれていました。整備代もかかるから潰してしまおうかという声もあるという話を聞いて、残念でした。あれこそ、「大船渡魂」と言うか、大船渡の基礎を作った方たちの船じゃないかなと、宝物じゃないかなと思います。日本各地でそういう考えが海沿いの町で考えが広まればいいなと思っていますし、また、それに気づいてほしいなと思っています。私の旅はそれを実証する旅と思っています。
 小さい帆掛け舟でどこまで行けるかということもやってみたいですし、いろんな港に行けば、いろんな話が聞けます。日本の文化、海文化を訪ねる旅だと思っています。来年この辺りまで来たときも、どういうものが見られるのか、すごく楽しみです。
 船だけじゃなくて、地名とかにも現れているのです。私は今道路地図で走っていますから、だいたいの予想しかできないですが、「何とか浦」「何とか崎」「何とか泊」と言う名前の語源を、そこに泊まることによって、気づくということが結構あるんです。それで、「そこだったら絶対いい港だから入ろう」と言って入りました。本当にすばらしい船の港でした。それで、「浦」「泊」というのは、昔、風待ちをした船の方たちが泊まったところであり、「崎」っていう名前が付いているところは岩場とか岬の方とか、そういうものが日本の地名の中にも入っているのです。これはすごく面白いです。そういう、今度は海の文化を訪ねるということも冒険の一つです。人と文化というのをテーマにしてやっています。
 海、船、人、本当にそれらが私の先生です。いろんなことを教えてくれます。学校ではきっと教えてくれないと思います。きっと商船大学とか水産高校とかに行っても、教えられないこと、それを私は教えられています。それがまた非常に楽しくもあります。これから先も、どういう航海をしていくのかは、全く未知です。自分が「面白いな」「これだ」と思ったことをやりたいなと思っています。
 NPO地域交流センターから「日本ぐるっと一周はあなたがやりなさい。あなたの船でずっとずっと行きなさい。」と言われているのですが、それは、全国各地の方たちが、リレー形式でもいいからやった方がいいと思います。その船一隻がぐるっと一周してもしょうがないと思います。
 私は、人の心が日本をぐるっと一周することが大事なのではないかなと思っています。「俺のとこの町はな」「俺んとこの港はな」「俺たち海の人間はな」と、その地元の人たちがそれぞれ海自慢、町自慢をして、交流していくことが基本ではないかと思っています。
 これに関しての話は、あとからパネルディスカッションで一杯したいと思います。
 
パネルディスカッション 「今後の海の活用策」
パネリスト:今給黎教子氏
佐藤孝氏(大船渡市ヨット協会会長)
白播昇一氏(大島汽船専務)
コーディネーター:米村洋一(地域交流センター)
 
 
【米村氏】
 皆さん、こんにちは。コーディネーターを務めさせていただきます、米村です。今日のフォーラムのタイトルは、資料にもありますように、「今後の海の活用策」となっています。先ほど今給黎さんから非常に面白い話、体験した人ならではの迫力のある話をお伺いしたばかりですけれども、これからは机の上で議論を進めさせていただきたいと思っております。
 紹介されましたように、佐藤さんは大船渡のヨット協会に所属されているということで、ヨットに乗っていらっしゃる。それから、白幡さんは気仙沼から来られました。大島汽船という会社の方です。白幡さんには、気仙沼には大島という大変すばらしい島が気仙沼の湾に入り込んだような形であり、そこで子どもたちの体験学習とか様々な取り組みをやっておられますので、そういう話を中心に話していただきたいと思っております。それから、もちろん今給黎さんにもこの議論に参加していただきます。
 まずは、佐藤さんからお話をしていただいて、それから白幡さん、今給黎さんという順番にお話をお伺いしていきたいと思います。佐藤さんには、大船渡市ヨット協会会長という立場で活躍しておられるわけですが、ヨットに乗っておられる方の立場で、「こんな課題があるんじゃないか」、逆に「大船渡にはこんないいところがある」というようご紹介から始めていただきたいと思います。







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