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日本ぐるっと一周・海交流フォーラム
日時:9月21日(日)9:00〜12:00
場所:大船渡プラザホテル
参加者:約130名
 
基調講演(9:15〜10:45)
講師:今給黎教子氏「すべては海が教えてくれた」
 
 
 皆様、今日はお集まりいただき本当にありがとうございます。私は大変色が黒くて、大船渡にいる中で一番黒いのではないかと思いまして、誇りに思っています。
 今日は、演題にすごく大げさなものをつけてしまいました。「すべては海が教えてくれた」ということで、お時間をいただきまして、色々なお話をさせていただきたいと思います。この演題は私だけではなくて、「海に接していたい」「海なしでは生きられない」という大船渡の方々も、とても感じていらっしゃることではないかと思っています。
 小さい時から、私は海のそばで海の面白さ、厳しさを学びながら育ってきました。ヨットに出会って本当にたくさんの方との出会いがあり、色々な経験をさせていただきました。今でも、海から離れられずにいます。私の考え全てが、海から教わったものではないかと思っています。
 今日は、世界一周の話と、今やっていること、また、私が海や海辺に住んでいるたくさんの日本の方々に言いたいことを色々話したいと思います。
 その前に、ヨットの関係者も今回は参加されていると思いますが、それ以外にも「ヨットって何だ」という方もいらっしゃると思います。私の世界一周航海のビデオが12分間あります。私はこの航海を私は9ヶ月間、実施しましたが、皆様には12分間で世界一周していただくということで、私の話の前にご覧いただきたいと思います。それでは、お願いします。
 
【ビデオ上映】12分間
 
 ・・・というような航海を以前にやりました。こちらの皆さんはすごく優しくて、プロフィールにも何年生まれというのを私だけ書かれていませんが、さっきのビデオの歳と年号を考えると、今は38歳になっています。世界一周していたときは26歳、27歳のときでした。今もあまり変わっていないんじゃないかと勝手に考えておりますけれども、この世界一周は、誰にも会わない、どこにも寄らない世界一周ということで、私が体験してきた色々な航海の中でも、最高であり、また最悪の航海だったと思います。
 多くの人から「どうしてこんな事するんだ?」といわれました。今、皆さんにご覧いただきましたが、皆様の横顔からも、「あほか、こいつは」というようなのもちょっと感じられて、でも、その質問が一番困るんです。大船渡ヨット協会の方々もヨットが大好きだと思います。そのため、どうしてそんなことやるんだといわれましても、これは大変難しい話です。それぞれ皆さん打込んでいるお仕事、趣味、家庭のことなど色々あると思います。そこで、「どうしてそれをやるのか」と聞かれましても、答えるのは難しいんです。
 結局は、私は、色々と大義名分を考えましたが、世界の海を知りたいからとか、自分の可能性を試したいからとか色々言いました。けれども、やっぱりやりたいからやる、それが私の生きようというか、生き方だということを感じています。この世界一周もその一つでした。
 ヨットに興味を持ち始めたのは、中学生の時で、特に私の父親がやっていたから、もしくは周りがやっていたということはありません。中学校のとき学校の図書館でヨットの世界一周の航海記を読みました。この話は実際にあったことで、アメリカの少年が約4年かけて世界一周したというものでした。それを読んだ時、私は小説に登場している少年と同じ年頃でした。その16歳の男の子が20歳までずっと航海しながら、色々な人との出会いがあり、色々なものを見て成長していくのです。
 私はそれを読んで、「私にもできそうだな」というのがまずありました。また、風の力で大海原を渡るということにもロマンを感じました。そして、何回も何回もその本を借りてきては読み、私の頭の中は「私は世界一周するのだ。ヨットでするんだ」という夢で一杯になっていきました。
 周りの友達にそれを話したところ、みんなからはからかわれました。当然のことですが、私はその時はまだ、ヨットに乗ったことがなく、ヨットというものを見たこともありませんでした。そこで、まず、ヨットに乗ろうと考え、ヨットを探し始めました。海沿いをずっと自転車で回りながら探し、その中でヨットを見つけ、色々な人と友達になりました。また、どのようにしたら中学生がヨットに乗れるのですかと聞くと、高校のヨット部があるよと言われ、ではそこに入ろうということで、すぐに高校を決めて、そこで、ずっと競技のヨットに取り組んでいました。でも、いつかは世界一周をしたいと思っていたので、色々なヨットの方たちと知り合いになりました。海術などは独学ですが、色々な海に対する考え方、ヨットに対する考え方、色々な技術などを学びました。
 高校卒業の時にも、「どうしようかなぁ、私はヨットから離れたくない」と思い、鹿児島出身の私は、鹿児島で何とかヨットができる環境はないかと探していたら、市役所にヨット部があったのです。では、市役所の職員として働きながら、そこでヨットの指導をしてみたい。また、海の学校を運営できればいいなと思い、遊びとしてヨットも続けたいと思いました。けれども、やはり市役所に入るとただの歯車の1つになってしまい、はじめは市民課に回されました。ここでは住民票と戸籍の事務を担当していました。
 その間、私の夢は消えませんでした。いつかは世界一周、世界一周と思っていました。
 そんな時、あるクルーザーヨットの持ち主の方から、「本当に世界一周とか太平洋横断とかをしたいのであれば、ヨットを貸してやるよ」と言ってくださったのです。初めて会ったばかりの方からこのようなことを言われ、私も私、その方もその方ですが、「はい、借ります。私、全部整備しますから、借ります。その代わり、太平洋を渡らしてください。」と言いました。
 このようにして、船を貸していただけることになりました。ここで出てきた問題点は、仕事です。そこで、この話しを市役所に話したところ、人事課と組合の方が「良いじゃないか」と言って下さいました。市役所職員が太平洋をヨットで一人渡る。すばらしい夢を市民に与えてくれる。これはいい。さらには市長まで出てきて、「良いじゃないか、行け、行け。特別休暇なんかいくらでも出してやる」と言ってくれました。
 
 
 私は、すばらしい町だなと思いました。けれども、公務員なので、少しお伺いを国にたてないといけないということで、人事課が自治省に話を持っていきました。すると、「だめだ。前例がない。前例がないから認めるわけにはいかない。」と断られ、鹿児島市の職員は「シュン」となりました。「どうしようか、どうしようか」と思いました。
 結局、私の上司が私を呼び、「今給黎、どうするんだ、お前は。こういう航海をやるということが、この間の新聞にまで載ったじゃないか。」と言われました。私は、「いや、わからないのです。どうしたらいいのでしょうね。周りは市役所を辞めることはもったいないと言いますし。」と話したところ、その上司は、「もう、そんなの、とっとと辞めちまえ。」と私に言いました。「何故ですか、どうしてですか」と聞き返すと、「お前は一生懸命、夢を追いかけようとしている。しかも、それは命がけの夢だ。仕事はどうしよう、お給料はどうしようと考えている場合じゃないのだ。自分も若い頃、夢があった。だけど、仕事のため、生活のために夢をあきらめた。だから、お前には夢を一生懸命追いかけてほしいのだ。無事帰ってきたら、命さえあれば、やる気さえあれば仕事なんてどうにでもなるのだから。また復職することもやる気さえあればできるのだから。」と言ってくれました。
 その人は、ただ私を辞めさせたいがために言っていたのではないと思います。私のことを考えて下さった上で、「その準備に、航海に専念したほうがよい」と言ってくれたのです。私も同じような気持ちを抱いていたため、最終的には市役所を辞めました。けれども、今も鹿児島市の職員の方や市長は色々と応援してくれます。しかし、市長から一人辞令をもらうときは、市長が渡してくれないのです。その辞令をもらわないことには、私は航海にいけないわけですから、ずっと待っていたのです。辞令を待つ私に、市長は何も言わないのです。そこで、「市長」と呼び、辞令の間から顔を見ると、ぼろぼろ泣いてらっしゃったのです。「市長、どうされたのですか」と問いかけたら、「今給黎さんね、僕にはあんたと同じ歳の娘がいるのでだ。これを渡すのは、あんたに死ねと言っていることかもしれない。だから、渡したくない。」とおっしゃいました。
 その気持ちもすごく分かりましたが、私は夢に向かっていくのだから、その辞令を渡してくれないとその航海に行けないと話し、戴きました。けれども、私はとても有難いなと思いました。本当に鹿児島市庁舎は大きいのですが、職員でもなかなか会えない市長が、そうやって泣いて心配してくれる、そんな思いを持ってくださるっていうのをすごく感じて、うれしかったです。
 そこで、私は一人太平洋横断のために出かけました。けれども、借りた船なので返さなければならないということがありました。また、鹿児島からサンフランシスコまで行き、サンフランシスコから鹿児島まで帰ってきました。
 初の長距離航海であったため、本当に怖かったです。航海に使ったヨットは、8.5mほどものでした。一応、コンパスも付いており、アメリカですから、東に向かうのですが、コンパスがもし壊れていたらどうしようかな、自分が東に向かっていると思っていても、実際はその辺の沖でくるくる回っているだけだったらどうしようかなという不安がありました。
 海というのは沿岸を走っている間は色々確かめるものがあるのですが、沖合に行ってしまうと、海と空しかありません。ちょっと人をつかまえて「ここはどこですか。」とも聞けないですし、本当に自分のいる場所が分からなくなった時は、それでお終いという危険があります。
 それでも、泣きながら一生懸命減速し、衛星で自分の位置を見る機械を使いました。今のものほど性能は良くありませんが、このような機器を使って位置の確認をしながら、アメリカまで行きました。アメリカに着いたとき、アリカにいるヨットの方々から、「クレイジーガール」と呼ばれました。「お前は本当に一人で来たのか。誰か隠れているのではないのか。何でそんなことをするのだ。」と言われました。
 アメリカでとても印象深かかったことは、アメリカには移民の方が非常に多いということです。3世、4世、日系人、本当に多くの方がいらっしゃいます。その中でも、移民1世の方々が私のことを心から喜んでくれました。実は、鹿児島も非常に移民の方が多いのです。その昔に帆船で渡った方々、命懸けでふるさとを捨て、ふるさとで故郷に錦を飾るために夢を追いかけ、アメリカまで渡った方々などがいらっしゃいます。
 現地には「鹿児島県人会」というものもあり、パーティーを開いてくれました。「いよう、薩摩の女よ。よう来た。俺たちと同じように、海を渡って命懸けで夢を追いかけて、よくここまで来た。今、日本・アメリカ間だったら飛行機で数時間、ピューっと来られるのに、こんな船で来る奴はいない。」と言ってくれました。
 非常に面白かったのは、私たちの世代が聞いたこともない、話さないような鹿児島弁をずっと受け継いでいる人がいるということでした。3世、4世という若い方たちも、「はあ!?」という鹿児島弁を話します。
 地元の方言はどんどん変わってきているのですが、そこにはそれを守ろうとする文化があり、「ひいおじいちゃん」が喋っている言葉をそのまましゃべって受け継いでいるのです。すごいな、こんなに離れていても文化というのはそういう形で残るのだ、言葉と言うものはこのような形で残るのだと面白く感じました。
 このようなことがあり、日本に帰ってきてからも、私の航海への興味、もっともっとという気持ちは消えませんでした。次は世界一周と思ったのです。世界一周の間にもオーストラリアから日本までのヨットレースに出場したりなど、色々と活動しています。そして、いつかは、世界一周という夢がありました。やるからにはまだ20代ですから、精神的にも肉体的にもまだ大丈夫。是非最高の世界一周をしてやろうと。ここでは、一人でどこにも寄らない世界一周をやろうと決めたのです。いろんな所に寄ってみんなでワイワイするというのは、70代になっても、下手したら80代になってもできるのがヨットなのです。そういう人たちを私も見てきましたから、20代だったらちょっと頑張って人ができないことをやってやろうじゃないかと思いました。
 そして、気象の情報、海の情報、世界の国の状況やデータを全部集め、一つ一つ研究しました。これらは自分で全部調べなければなりません。イギリス海軍に問い合わせてみたり、アメリカ軍に問い合わせてみたり、そんなことまでして調べました。こうして、大体のコースを決めたのです。また、次回はこのコースを渡れる船ということで、新しい船を探しました。
 日本のヨットも色々あるのですが、やはり頑丈なヨットという条件で探すと、外国製になってしまいます。フィンランドにいい船があるということで、実際にフィンランドまで行くこともありました。そこで、これだったらいい船だ、最高だというのがあり、思い切って値段を聞いてみました。私も馬鹿なので、最初に値段を聞けば良かったのですが、これにしようと決めてから値段を聞いてしまいました。当時、このヨットは5千万円でした。そこで、私の夢はパァーと吹き飛びました。鹿児島であれば家が3件ぐらい建ってしまいます。とんでもないなと思っていたら、同じメーカーの中古艇が日本にあるという話しを耳にしました。そこで値段を聞いてみたところ、4千万円弱だったのです。他にも色々お金がかかるので、どうしようかと思いました。
 今給黎さん、「どこか大きい企業スポンサーは付いているの」、「どこかのお嬢さんなの」、などと言われる事がありますが、私は細々と自給自足を送っており、その時もあまりお金がなかったのです。けれども、やはり考え直すとどうしても挑戦してみたかったので、どこかスポンサーなってくれるところはないかと探しました。 私も、まじめに計画書を書きました。全部で5千万円ぐらいかかるのですが、船はケチりたくなかったのです。この程度の船でいいやと思って、世界一周を始め大西洋の真ん中あたりで穴が開いて沈み出すようなことがあったら。あそこでケチってこんな船にしたからこんなことになったのだと後悔しても仕方がないので、やはり信頼性のある船がいいなという気持ちがありました。計画書には色々なことを書きました。田舎の鹿児島では無理な話なので、東京や大阪で計画書を見ていただきました。本当、皆さんが私の話をよく聞いてくださったのです。
 その計画書を、「うわぁ、すごいです」と言って見てくださいます。一通り見て下さってから、「今給黎さん、本当に成功するんですか」と私に尋ねます。これがまた、きつい質問で、私も正直に答えました。「いやー、成功するかしないかはやってみなければわからないです。私は成功するつもりですが、成功するとは言えません」と言うと、みんな顔を曇らせるのです。やはり企業として協力するからには、絶対に成功してもらわないと困る。もし、失敗したらイメージダウンになる。「あー、そういうものなのか。世の中って大変だな」と思いました。けれども、私はこれ以上話しをする気が起こらなかったのです。けれども、「はい、絶対成功します」というのは、私は海を愛する人間として言えないです。海って、そんなに甘くないぞっていうことも分かっているからです。人間様が海よりえらいっていうのも絶対にない。ですから、『航海は絶対に大丈夫ですとは言えないです』そう言うと、断られ、もういいやと思いました。もういいから、とにかく借金して行こうかなと思い、地元の銀行に走りました。「こういう航海をするからお金貸してください」と話しをしたら、「馬鹿いってんじゃないよ、帰りなさい」と追い返されました。「だよなー」と思い、三社ほど行ってあきらめていたら、知り合いの方が話をしてくれて、ある会社だったら話し聞いてくれるみたいだよということでした。
 そこの会社行って「お金貸してください」と言ったら、担当の方がびっくりして、「社内で検討してみますからちょっと待ってください」ということでした。そこの社長がヨットしていたみたいで、一週間後くらいに担当の方から電話がありまして、担当の声は電話の向こうで震えていました。「今給黎さん、大変なことになってしまいました。社内で検討した結果、OKがでました。近頃こんな馬鹿な若者はいないから、協力してやろうじゃないかと社長が言っていて、会社は「てんやわんや」になっています。でも、自分が担当なので、今給黎さん、ちゃんとお金返してくださいね」って言われまして、「はー、返すつもりです」と答えました。
 一応、生命保険を担保にして、帰ってきたら一生働いて返す、帰ってこなかったら生命保険と船の保険を、掛け捨て百数十万円でしたけど、これで何とか借金の分は超えます。「帰ってこないということは、死んだということですから、これでもうOKです。これで何とかしてください」と交渉して、お金借りたのです。
 でも、その会社はすごいです。スポンサーになりましょうということで、500万円も用意してくれたのです。「すごいな」と思ったのですが、「私もうお金借りられたからもういいです。500万円もいいです。それに縛られたくないから。」と言って、それは断り、何とか資金調達しました。
 本当にこのようなやり方を薦めることも、威張ることでもないのですが、その時、私は26歳でした。25、26歳の娘にできる精一杯のことだったと思います。私は10歳の時に父を亡くしていますから、親に甘えるということはできないのです。だから、一人の馬鹿な若者の選択はこれしかなかったな、という感じでした。
 そして、先ほどのビデオで観ていただいたように、世界一周に出発したんです。たくさんの仲間が協力してくれました。実際は一人の航海ですが、その準備の最中、彼らは「俺たち、金はないけど、とにかく整備を手伝うよ。」と言ってくれました。
 食料も山のようにいただいたのですが、「この缶詰はお店から貰ってきたから、ハイあげる」ということもありました。たまたま通りかかった漁師のおじさんが、「はー、本当大変だね。これでジュースでも飲みなさいね」と言い、私が持っていたティッシュに2千円包んでもらったことがありました。本当にいろんな方に協力していただけました。
 一番私の心に残っているのは、そういう方たちが応援してくださったこと、そして、その誰も私の行動を否定しなかったということです。それは、鹿児島の気質なのかもしれないですけど、私が「これをやりたい」って言ったら、「頑張れ、頑張れ」と持ち上げてくれるのです。誰からも「お前には無理だろう」とか「そんなことやって何になる」とかという声は出ませんでした。私に聞こえなかっただけかもしれないですけど、本当にみんなどうなるか分からないようなことでも「お前ならできるよ」と励ましてくれました。それが一番嬉しかったことです。そういった、いろんな人たちの気持ちがなければ、私は途中で「やめた」と言っていたかもしれません。それは、こういうことだけじゃなくて、皆さんのお仕事や遊びの中でもあることだと思います。
 また、実際に航海していた時も台風があったり、氷山に出会ったり、いろいろなことがあったのですが、無線で多くの方が私のことを励ましてくれました。今日来ていただいている小野寺さんもその時、あちこちの海から声を掛けてくださいました。日本の遠洋漁船の方たち、貨物船の方たち、タンカーの方たち、日本各地で無線を楽しんでいる方たち、みんな応援してくださりました。
 私は見た目が男なのですけど、一応女性だからということもあると思います。海というのはもっと女性が多くてもいいと思うのですが、今はまだ男性の世界です。そのようなところで、女性の声がすると「おっ、何やってんだ、こいつ」みたいなことで、協力してくださいました。そういういろんな人に支えられての航海でした。
 先ほどビデオで紹介した世界一周は、全部で278日かかりました。9ヶ月あまりです。大変だったのは普段の生活のことです。食事や水、あとシャワーと水浴びが非常に大変でした。食べる物は缶詰やレトルト食品、乾燥食品ばかりでした。水は全部日本から持っていきましたが、船が小さいものですから、あまり多くを乗せられないので、300lしか持って行けませんでした。一日約1l計算になります。別に飲み物とかは持って行ったのですが、水はせいぜいお米炊くとかちょっと味噌汁作るとかそんなことにしか使えないという状況でした。
 お米を炊くときも、外洋ですから、水もきれいです。海水で洗って、最後に水入れて鍋で炊きました。だから、少し塩気のあるご飯がいただけます。あとは、水浴びというのは、暖かいところでは水をかぶることができます。しかし航海の半分は気温の低いところでした。低いところですと、零度くらいになります。そのようなところでは水浴びはできません。大体は海水でやるのですが、海水も冷たくなっているのです。
 だから、2ヶ月間ほど頭を洗わなかったということもありました。陸では考えられないことです。2ヶ月頭洗わないと、油粘土をのせたような感じになって頭痛までしてきます。服も、見るとこんなところに白いカス見たいなのがいっぱい付いて、「私は物凄い生活をしているな」「これはあんまりだ」ということで、海水を沸かして、ガスがもったいないから、余分にガスも使えなくて、ちょっとだけ拭くというのはやっていました。
 あと、健康に関して、医療の問題、それはとても怖かったです。本当にそれに関しては何が起こるか分からないし、想像もできません。ですから、事前に病院に相談していました。鹿児島で今給黎病院という、私と同じ名前の大きな病院があり、そこに行って相談しました。
 同じ名前だからということだけで、とても親切にしてくれて、「先生、あのー、私今度こういう航海に行くのですが、考えられるだけの医薬品を用意していただけませんか」とお願いしました。出港前に「今給黎さん、準備ができたから取りにおいで」と言われ、取りに行きました。そうしたら、この机3個分くらいの医薬品が用意されていたのです。専門家が考えられるだけっていうと、こんなに持って行かないといけないのかなと思いました。開くと、ビニールの点滴セットが20セットぐらいです。「船酔いになって脱水症状起こしたりしたらこれを入れなさい」って言われて「入れるのってどうするの、私知りません。自分で刺したことないのですが」と言ったら、そのやり方まで教えてくれて、「はー、はい、じゃあ、これは持って行きます」と私はそこで言いました。
 「この箱は何ですか」と言ったら、「あー、それも必要だと思ったからちょっと多めに入れといたよ」って言われました。その箱を開くと、メスと針と糸のセットがちょっと多めに5セットも入っていて、「これ、私が縫うのですかねぇ」と言ったら、先生は「あなた一人しかいないのでしょう。一人で縫うしかありません」と言いました。そして私が「どうやって縫うのですか」と尋ねたら、「縫い方はプリントしておいたから、これ読んでください。いざという時はこれを見て、縫いなさいね。」と応えました。「そうですか、はい。これ何ですか」って言ったら、「それちょっと多めに用意しといたから」。見たら、ギブスの包帯状になったので、私骨折したことないからよく分からないんですけど、巻いて空気に触れているとだんだん硬くなっていくっていうギブスだそうです。その包帯の一塊がこれくらいの大きさなんですけど、それが何と30個くらい入っていたんです。「先生、これ、こんなに使うときなんて、私生きてないんじゃないですか。」と私が言ったら、「それもそうだねぇ、ちょっと多すぎたかねぇ、それは。」「いやぁ、それは多すぎですよ」というやりとりをしました。でも、何かこう、使い方を見ていると、ヨットの部品が壊れた時に使えそうだなと思って、「ちょっとこれ貰っていきます」と言い、貰いました。それから、ちゃんと内臓一つ一つの薬も入れました。水が少ないから、腎臓がやられるんじゃないかとか、栄養障害になるんじゃないかということで、そういう栄養剤もいっぱい用意してもらいました。







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