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■当日配布資料■
 
(資料 鮫島作成)
鉄砲伝来四百六十年記念イベント 種子島交流(二〇〇三・八・二十四)
 
再現
鉄砲伝来 船の旅
 
 (1)この鉄砲記は、薩摩藩島津氏に仕えて重用された大龍寺禅僧南浦文之(なんぽぶんし一五五五〜一六二〇)によって書かれた。
(現代語訳)
 大隅の国の南に一つの島がある。半島から十八里の彼方であり、名前を種子島という。私の先祖は代々ここを治めている。古くからこの島のことを種子島と呼ぶ理由はこうである。この島は小さいけれどそこには多くの人が住み、また裕福でもある。それは、播いた種が芽を出し、いきいきと生い茂り、豊かな恵みを与えてくれるかのようだ。そんな様子になぞらえて、種子島と呼ぶのである。
 天文十二年(一五四三)八月二十五日、西之村の小さな浦に巨大な船が現れた。どこの国のものか分からなかった。乗船していた者は百余人であったが、その容貌はこれまで見たこともないものであり、言葉も通じず、皆奇異の目を持って眺めた。その中に明の国の儒者で五峯という者がいた。その姓や字を詳しくここに書き記すことはできない。また西之村の主宰は織部丞という者で、非常に文字に詳しい者であった。五峯に会って、杖で砂の上に文字を書いて意を伝えた。「船中の客はどこの国の方なのですか。顔かたちといい、とても変わった方たちですが」。五峯も返事を砂に書いた。「この方たちは西南の方の国から来た商人です。身分の上下については大体わきまえていますが、細かい礼儀作法については知りません。ですから、酒を飲むにも杯を使って飲まず、食べるときも箸を使って食べません。ただ、いたずらにその気持ちの赴くままに嗜欲にふけるばかりで、漢字で意思を伝えあうこともできません。ふつう商人達は、一つの場所に来てそのままそこで商売をするものですが、彼らもその類です。持っているものをそれが無いところに持っていって商売を行うのです。怪しむような方々ではありません」。また織部丞が砂に書いて言うには、「ここから十三里のところに港があり、赤尾木港と言います。私がつき従っている方が代々住んでおられるところです。数千戸の家があり、どの家も富裕であり、商業も栄えています。今は船はここに停泊していてもよいのですが、いずれ深さがあって波の立たない大きな港に入れなければならないでしょう。このことを私が仕える種子島恵時様と時尭様にお伝えしましょう。」
 時尭はすぐに船数十艘でこれを引かせて、二十七日己亥赤尾木港に入港させた。ところで、その港のそばに、忠首座という者がいた。日向の国の龍源寺の僧で、法華一乗の研修のためにこの地に滞在し、禅宗から法華宗の僧となり、住乗院と名乗っていた。経書に詳しく、また筆も立った。そこで五峯に会って、文字で意志を伝えあった。五峯は「異国の地に知己を得るとは」と喜んだ。言葉と気持ちが通じ合ったのである。
 商人の中には二人のリーダーがいた。一人はフランシス(牟良叔舎)であり、もう一人はクリストファノ・デモト(喜利志多侘孟太)であった。手にはあるものを携えていた。長さは二・三尺あり、その様子は中が空洞で真っ直ぐ伸び、非常に重い素材でできていた。中は貫通していたが、底の方は固く密閉しなければならないものだった。横には穴が一つあって、そこから火をつけるのである。形の似たものとてまるで見つけることのできない代物であった。使い方は、小さな鉛の弾とある薬を入れるのである。杯を岩の上において、それを構え、目を細めてその穴から火を放つとたちまちそれに当たるのだった。その光は稲妻のようで、また音は雷鳴のとどろきに似て、聞く者は誰も耳を覆うのだった。杯を置くのは、弓を射る人が黒い点を的の中に置くのと同じことである。これをひとたび撃ったなら、銀山も砕くことができるし、鉄壁に穴を開けることもできるだろう。人の国に災いをもたらすような邪悪な者も、これによればすぐにその魂を失うことになるだろう。まして苗を盗んだりする田舎者などひとたまりもない。その使い方は数えあげればきりがない。
 時尭は、これを見て「世にも珍しい物だ」と思った。初めはその名前も分からず、その使い方も詳しく分からなかった。それを最初に鉄砲と呼んだのは明人なのかそれとも島の者なのかも分からなかった。
 ある日、時尭は通訳を介して二人の南蛮人に言った。「私はこの鉄砲をうまく使いこなせないので、できれば使い方を学びたいのだが」。彼らもまた通訳を介して答えた。「殿様がこれを学びたいのであれば、私達もまた奥義を詳しくお教えしましょう」。時尭は言った。「その奥義とはどういうものか」。彼らは答えた。「それは心を正しくすることと、片目を細めることです」。時尭は言った。「心を正すということは先聖(孔子)の教えにもあることであり、私もそれを学んだことがある。およそ天下の理(ことわり)でありどんな言動もこれに違えてはいけない。あなたの言われる心を正すということも、またこれと同じ事であろう。けれど、片目を細めてしまうと、遠いところが見えなくなってしまう。どうして片目を細めるのか」。南蛮人が答えて言うには、「物事においては約を守るということが必要なのです。約を守ることには、視野を広げることでは到達できません。片目を細めたからと言って、はっきりと見えなくなるのではありません。約を守るということを遠くの方まで及ぼそうとしているのです。殿様もぜひこのことをお考えください(「約を守る」とは照準を合わせることを言っているのであろう)」。時尭は喜んで言った。「老子の言う、見ることが少なくなればなお明らかに物事はなってくるものだ、というのはこのことなのだろうか」
 この年九月の節句の日、良い日柄を選んで、試し撃ちを行った。火薬と小さな鉛の弾をその中に入れて、的を百歩の距離の所に置いて引き金を引くと、たちまちのうちに的のほとんどすぐ近くに当たるのだった。見ている人は初めは驚き、次には非常に恐れ、最後には肩を寄せ合いながら言うのだった。「この使い方をぜひ学びたいものだ」
 時尭はとても手が届かないほど値段が高いにもかかわらず、すぐにその南蛮人の二挺の鉄砲を買い求め、家宝とした。その火薬の調合の方法については、家臣の篠河小四郎に学ばせた。時尭は朝な夕なこれを磨き、手入れをして止むことがなかった。以前にはほとんど近い所に当たっていたのが、今では百発百中、一つも外すことがないほどの腕前になっていた。
 さて、この頃、紀州の根来寺に杉の坊某と言う者がいた。千里の道のりも遠しとしないほどに鉄砲を求める気持ちが強かった。時尭は、この熱心さに感服して、その気持ちを推し量って言った。
 「昔、呉の国の徐君は、季札がその国を通った時、その佩刀を欲した。徐君は、口に出してそのことを告げなかったにもかかわらず、季札はその心を察し、ついにその剣を徐君の墓辺に置いて来たものだった。私の島は小さいが、どうして一つの物を惜しんで与えないことがあろうか。また、自分から求めたのではなく、成りゆきで得ることができてさえ喜びで寝ることができず、何代も受け継いでこれを秘宝として大事にしておくものだ。もし、わざわざこんな遠いところに来て、それを得ることができないとしたら、どんなに残念なことであろう。私自身が欲しいと思うのだから誰でも欲しいと思うのであろう。私はこれを自分一人の物にして櫃に納めてしまっておくようなことはできない」。すぐに津田監物を遺わしてその鉄砲を持たせて杉の坊に贈った。また、火薬の調合の方法と発火の方法を教えさせた。時尭は鉄砲を手にとってもてあそんでいたが、鉄匠数人に、その形をじっくりと観察し、鉄を鍛え、また形を整えさせて、新たにこの鉄砲を作らせようとした。こうして、形はとても似ている物ができたが、その底を塞ぐ方法は遂に知ることはできなかった。
 その翌年(一五四四)、南蛮人の商人が再び種子島の熊野の浦に来航した。(この浦を熊野というのは、小廬山・小天竺などと同じで、紀州の熊野にちなんでいる)。その商人の中に幸いにも一人の鉄匠がいた。時尭はこれを天の助けとも思った。すぐに金兵衛清定という者にその底の穴を塞ぐ方法を学ばせた。ようやく何カ月もかかって、そのネジを巻いてこれをはめ込む方法を修得した。こうして何年か後には新たに数十挺の鉄砲を製することができた。その後、その台の型と飾りの部分の鍵のようなものを製造した。時尭はその台と飾りそのものを作ろうとしたのではなかった。これらを行軍の際に用いるつもりで作ったのだった。そのため家臣のそこここにいる者は、見てこれを習い、百発百中の腕前になる者も数え切れないくらいであった。
 その後のこと、和泉の国の堺に橘屋又三郎という者がいた。商人であった。種子島に居住すること一・二年にして鉄砲についてほとんど学んでしまった。堺に帰郷した後、人は皆その名前で呼ばずに鉄砲又と呼ぶほどであった。この後、畿内の国々ではこぞって鉄砲を伝えてその使い方に習熱した。また関西だけでなく関東にも広まっていった。
 私はかつて次のことを故老にきいた。「天文十二年から十三年にかけて明の国への朝貢船が三艘、まさに出帆しようとしていた。この時、畿内以西の富豪の子弟で乗船していた者はほとんど千人近くであった。また船の操縦に長けた者が数百人も乗り組んでいて、船をこの種子島に寄港させた。船出に都合の良い日を選んで、纜を解いて大海原に乗り出して行った。ところが不幸なことにひどい風が海上を吹き渡り、怒涛は雷のようになって船に襲いかかり、坤軸(大地の中心を貫いていると想像される軸)もまた砕けるかのようであった。もう今や最期の時というような有り様だった。船の一つは檣も傾き、揖は砕け、粉々になって海に沈んでしまった。またもう一艘は命からがら明の寧波に到着することができた。最後の一艘はこの嵐を乗り切ることができず、仕方なくこの島に帰ってきた。そして翌年再びその纜を解いて出帆し、南に向かって航海し、遂に明の国に着くことができた。数え切れないほどの財貨と異国の珍しいものなどを載せて、帰国しようという時、大洋の中で暴風が吹きまくり、西も東も分からなくなるほどであった。船は遂に漂流して東海道の伊豆にたどり着いた。そこでは土地の者が船の財貨を盗み取り、商人達もまたその居場所もなかった。さて、船中に我が種子島家の臣下で松下五郎三郎という者がいた。手には鉄砲を携えていた。これを撃つとその全てが的に当たるのだった。伊豆の人々はこれを見て、非常に驚いた。そしてその鉄砲についてその術をうかがい、またまねなどして学ぶ者も多かった。この後、関東八州と言わず全国津々浦々にこの鉄砲は伝わり、これを習わない者はいないほどであった。
 今、この鉄砲がわが国に伝わってからおよそ六十有余年である。白髪の老人でこの事をはっきりと覚えているものもいる。つまり、南蛮人が持って来たこの二挺の鉄砲を我が島主の時尭が買い求め、その使い方を学び、そのことによって日本全国六十余州を大いに驚かせ、かつまた鉄匠にその製造方法を学ばせて、五畿七道に普及させたのである。とすればつまり日本における鉄砲発祥の地は我が種子島であることは明白であり、昔一つの種から生き生きと生い茂ってゆく様子になぞらえて種子島と名づけたのであったが、今鉄砲の事を考えると、この名前は正に予言的な名前と言えよう。昔の人はこう言っている。「有徳の先輩が善いことを成したのに、世の中に知れ渡らないとしたら、それは後世の者の過ちである」と。従ってこれを書して先徳の偉業を伝えたい。
 
慶長十一年丙午重九の節
種子島左近太夫将監藤原久時







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