記念講演
講演「高校野球と教育」
講師
日本高等学校野球連盟 会長 脇村春夫氏
略歴
○生育暦
昭和7年(1932年)東京都小石川区(現文京区)小日向に生れる。
戦時中疎開で和歌山県田辺市に住む。
現在、兵庫県芦屋市に住む。
○学歴
昭和20年4月:和歌山県田辺中学校入学
昭和21年4月:神奈川県湘南中学校2学年に転入
昭和26年3月:神奈川県立湘南高校卒業
昭和30年3月:東京大学法学部公法学科卒業
平成11年4月:大阪大学大学院入学
現在:経済学研究科博士課程在籍中
○職歴
昭和30年4月:東洋紡株式会社入社
平成5年6月:同社 専務取締役
平成7年6月:新興産業株式会社 社長
平成10年6月:同社 社長辞任
○その他の役歴
元谷口財団・常務理事
脇村奨学会理事長
元東京大学野球部OB会・一誠会・会長
東京大学野球部OB会・関西一誠会 会長
○趣味など
昭和61年7月、東洋紡役員就任を期に関西財界人野球に参加(関経連所属企業の役員で構成)、このほか芦屋還暦野球チームで週1回現在もプレイを続けている。(還暦野球は阪神間に11チームほどある)
「日々是新也」(ひびこれあらたなり)を座右銘にしている。
○球歴
昭和24年8月:第31回全国高等学校野球選手権大会に2年生で3塁手として出場。初出場、初優勝
昭和27年4月:東京六大学野球リーグ戦に3塁手として出場。
昭和29年4月:東京大学野球部主将を務める
昭和30年8月:第26回都市対抗野球大会に富田東洋紡・3塁手で出場、緒戦を突破、準々決勝進出。翌年東洋紡岩国に移って2年間プレイ。社会人野球通算3年プレイ。
○野球の思い出
戦前小学校時代の3年間、父の勤務でニューヨーク州に在住。ヤンキースタジアムでヤンキースの試合を見たのが記憶にある野球との出会い。昭和15年に帰国。当時グラブとミットを持っていたのが珍しい時代で、疎開中の和歌山県立田辺中学で、岩本尭さん(田辺中−早稲田−巨人)や南温平さん(田辺中−巨人)とキャッチボールをしていただいたのを記憶している。
○湘南高校時代
1年下に佐々木信也氏がおり、彼の父親である佐々木久男さんが監督。佐々木さんは慶応大学野球部のOBで、東京六大学野球経験者が監督を務めてくれるのは大変な励みだった。佐々木監督は三田のグラウンドに慶応の練習を見に連れて行ってくれたり、当時の慶応OBの早々たるメンバー(別当、大島、加藤さんら)を練習に招いて指導してくれた。特別厳しく鍛えられた記憶はないが、伸びのび野球をさせてくれたことと随分緻密な野球を教わった思い出がある。当時神奈川商工(大沢啓二投手)やY校などが強かったが、「運良く」(本人談)甲子園(31回選手権大会)に出場できた。甲子園では小倉(福島投手)が3連覇なるかが話題の大会だったが、湘南は準決勝で高松一(中西太)、決勝で岐阜(花井投手)を破って初出場、初優勝を遂げた。飛田穂州は湘南の優勝を「傑出した選手はいないが無欲の勝利」と称えた。このあと東京都で開かれた国体(10月31日〜11月3日)を最後に進学に備えて野球部を退部した。翌年夏にはチームメイトに請われて予選に出場したが、2回戦で敗退した。
○東京大学時代
大学でも是非野球を続けたいと考えていた。入学したその日から練習に参加した。当時六大学は大変な人気で慶応は多湖、山下、明治は秋山−土井のバッテリー、早稲田は石井連蔵、宮原ら、立教にはその後長島が入るなど錚々たるメンバーで沸いた。4年生では主将を務めた。
○社会人野球時代
東洋紡は伯父の勧めで入社した。実業団でも野球を続けたいと思っていたので、当時四日市の富田工場にあった「富田東洋紡」でも野球を続け、強豪の三重交通などを破って都市対抗に出場した。翌年岩国工場に移ってそこでも2年間野球を続けた。
その後本社勤務に戻ってから4年間ぐらいは本社の準硬式野球をしていたが、海外勤務(ニューヨーク)となってからは野球とはしばらく離れた。
○大学院での研究テーマ
「短繊維織物産地大経営の戦後の展開」(A4・300頁程度の論文を執筆予定)
繊維産業に長く係ってきたことから、関西を中心に織物の町として栄えた産地を回って、戦後から今日まで地場産業として継続した要因、あるいは廃業に至った要因を研究、繊維産業の面から経営史を勉強している。
(論旨と視点)
【1】高校野球の発展
高校野球(主として硬式野球)の聖地である甲子園の全国大会は多くの野球ファンを魅了し、また甲子園への出場をかけての地方大会も、最近は非常に盛り上がりを見せています。少子化による高校生徒数の減少にも拘わらず平成15年の硬式野球部参加校数は4,223校、野球部員数は154,000人と6年連続で対前年比増が続いています。硬式野球の全体の地図を見ますと、近年、大学野球と社会人野球の人気が低迷している中で、高校野球とプロ野球が人気を二分していると言えましょう。
【2】高校野球の発展を支える五つの要因
それでは今日までの高校野球の発展要因を考えて見ますと、以下の5項目が挙げられます。
(1)場:甲子園を目指しての目標。
(2)人:選手の  刺としたプレー、監督の熱心な指導、学校(含む応援団)、後援会のバックアップ。
(3)郷土性:県代表あるいは地区代表としての地域との密着。
(4)システム:都道府県高野連の組織、朝日および毎日新聞社の大会共催、メデイアの力、審判団。
(5)心:教育の一環。
以上の中でも「高校野球の発展の基礎は教育にある」点が一番大きい要因です。これは日本独特のものです。アメリカの野球はスポーツとして楽しむものですが、日本では楽しむよりは精神を鍛える精神野球に大きな違いがあるのです。
【3】高校野球の教育の意味
ここで言う「高校野球は教育の一環」としての「教育」の意味するものは
(1)高校野球が高校の課外活動(部活動)の制度として体系付けられています。すなわち、野球はサッカーや水泳のごとく学校以外でのクラブチームは存在しません。あくまでも学校の中にあるのです。
(2)教育に従事する者(教育者)が野球部員に対して教えるものは「人間教育」すなわち、人間性、人格を高め、成長させることが基本です。そこに心の修養の場があるのです。人間形成には身体形成と人格形成の二面がありますが、身体形成(体の鍛練:体育)はここでは教育には含みません。あくまでも人格形成に限ります。
(3)教育には「学問的教育」がありますが、本論ではそれを選手(学校)の文武両道の観点から見ていきます。
【4】論旨の進め方と視点
(1)歴史的背景
本論の視点は高校の部活動の中でも特に野球が教育面(精神面)を強く打ち出してきたのにはどのような歴史的背景があったのでしょうか。また、戦前、戦後の高校野球(中等野球)の歴史の中で教育的(精神的)野球観がどのような変遷をたどったのでしょうか。更にはいつ頃から「教育の一環」という言葉が使われ出したのでしょうか。戦前からの精神野球が戦後から現在に至るまで一貫して貫き通してきたのが高校野球の大きな特徴といわねばなりません。誰もがそれを不思議に思わずに・・・。
一方、学生野球の行き過ぎに対して外部から教育的見地からの警鐘と規制(早慶戦中止、野球害毒論、野球統制令)を見落とすわけには行きません。そしてこのような過去から現在にまたがって、高校(中等)野球の教育的指導を担った特定の人々および組織にもスポットを当てたいと思います。
(2)高校野球の反教育的行為
次に、現在および将来の高校野球が抱える課題としての反教育的行為とそれへの対処の仕方としてa)選手の不祥(非行)事件b)選手の国内留学(県外生徒募集)c)プロからの勧誘とドラフト問題d)ジェンダー(女性のプレーヤー)問題について言及いたします。
(3)21世紀の高校野球と教育 そして最後に、将来の高校野球の進むべき道として、高校野球としての商業主義の否定、アマチュア精神、品格を堅持しつつ、スポーツとしての楽しみともっと個性ある人間を育てるべきではないかと言いたい。
(本論はあくまでも個人的見解)
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