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interview
200年以上続く楽器商の家に生まれ、
家業を継ぐ中で数多くの
ストラディヴァリウスの名器と出会ってきた。
研究者としても世界的第一人者で
「ストラディヴァリウスは芸術品」と語る言葉の端々に、
楽器に対する尋常ならざる愛情が溢れる。
世界中のコレクターから寄せられている信頼は絶大だ。
 
[聞き手]田中良幸◎産経新聞「モーストリー・クラシック」編集長
 
Andrew Hill
アンドリュー・ヒル
 
©Tomoko NAGAKAWA
 
なぜ、ストラディヴァリウスはこれほど人々を惹き付けるのでしょう。
 それはストラディヴァリウスが、工芸品としても楽器としても、まったく比類のないほど完璧だからです。ヴァイオリンというのは、今ではケースに入っていますけれども、昔は郵便受けみたいなものとか、差し込み式のケースに入れていたんです。だから、出し入れする時にボディの、特に裏面が剥げてくるんです。その剥げている部分と残っている部分のバランスもまた、何ともいえず魅力的なんです。手にとってじっと眺めているだけでも鑑賞するものとして楽しめるんです。そういう魅力があるにも関わらず、さらに音としても他より優れているということで比類のない楽器だということです。
 ヴァイオリンというのは、17世紀、18世紀のイタリアで、アマティ〜ストラディヴァリウス〜グァルネリという系譜を経てイタリアで完璧に作り上げられた楽器なんですが、イタリア人が作った楽器だから見た目も凄くゴージャスですし、新品の状態でも十分、人々を惹きつける魅力があったはずなんです。その中でも、ストラディヴァリウスは、他の職人とはまったく比べものにならないくらい優れているんです。
 ストラディヴァリウスの場合、どのモデルも素晴らしい音を出します。そして、いいワインのように、音が熟成を重ねていきます。ワインは熟成したらそこで終わりですが、ストラディヴァリウスは40年、50年と時間が経つに連れて音がどんどん良くなっていくということですね。
 
ストラディヴァリウスは600本ほど現存していると言われています。日本にもかなりあります。
 日本にあるものは、質が良いものとなると限られますね。20年、30年前は、その後何年も日本の市場が続いていくと思っていなかったので、かなり悪質な修理をされているものを高く売りつけたディーラーもいました。ストラディヴァリウスが広まりだした当時は、皆さんも知識も持ち合わせていなかったので、思い込みで判断していた部分がかなり多かったんです。ラベルに「アントニオ・ストラディヴァリ」という名前は入っていても、実際は改良に改良を重ねて、ひどい状態になってしまっている楽器が日本から、実際に私のところにも回って来たことがあります。現在の買い手の人たちは、その楽器の過去のことは全部把握してから買うようになっていますが。
 
数あるストラディヴァリウスの中で、最も良いのを挙げてもらえますか。
 我々が「DAM」と呼んでいる3つですね。Dは1714年製「ドルフィン」、Aは1715年製「アラード」、Mは1716年製「メシア」です。「ドルフィン」はハイフェッツが使っていたもので、現在は日本音楽財団にあります。「アラード」は現在、個人のコレクターが所有しています。「メシア」は、私がオックスフォードのアシュモリアン美術館に寄贈したものです。
 
©Tomoko NAGAKAWA
左が銘器「メシア」。弦を胴体につなぎとめるテールピースに救世主を型どったような彫り物があることが名前の由来(上)/ヒル氏が寄贈した「ヒル・コレクション」が収められているアシュモリアン美術館(下)
 
©Tomoko NAGAKAWA
 
今まで手がけた中で、一番高かったストラディヴァリウスは何ですか。
 父たちと会社をやっていた時に扱った1714年製の「アラード」でした。これまで値段を公表したことがなかったんですが、1981年当時で約125万ドルでした。実際に、オークションにかけられたら、もっと値段が吊り上がったことでしょう。20世紀の初めまでは、取引はほとんどイギリスだけでしたが、やがてアメリカにも渡り、今ではアジアにも、このストラドの価値や魅力というのは知れ渡っています。実際数が限られているわけですから、またさらに値段が上がってしまうのです。10年前に妻と今の会社を始めてから、もっと高く売ったものもありますが、それはちょっと教えられません(笑い)。
 
どうやって本物か見分けるのですか。
 楽器の内部に貼られているラベルで判断するのは、本当に最後の手段で、ほとんどは外見から判断します。我々はストラディヴァリウスに関する知識を色々と蓄えていて、それを基に、総合的に判断するのです。特に、音で判断することは決してありません。何故かというと、音というのは、9割が弾いている人に依るもので、あとの1割だけが楽器に依るものだからです。
 「メシア」にも一時期、偽物なのではないかという噂がありました。それで、木の年輪を使って「メシア」を鑑定したんです。木の年輪というのは地図みたいなものなんです。それを顕微鏡で見て、特別に年輪をはかる物差しを使って年輪の幅をコンピューターでグラフ化し、最終的にその木材の年代を断定することができるんです。そうしたら、「メシア」に使われた木が「サセルノ」に使われている板とぴったり合ったんです。それも、同じ年代というだけではなく、ひょっとしたら同じ木から切り取ったものかもしれないと言うほど。それまではまったく見た目だけで判断していたので、正直言うと、その時は「もしかしたら・・・」とハラハラもしたんですが(笑い)。
 
ストラディヴァリには2人の息子がいたと言われていますが、3人が作業を分担してヴァイオリンを作っていたんですか?
 彼の2人の息子たち、フランチェスコとオモボノですが、父のアントニオが楽器をたくさん作っていた頃、兄は30近く、弟は20代で、立派な青年でした。ただ、今言われているストラディヴァリとうのは、アントニオ本人が作った楽器という形で世界的に認識されているというのは事実です。彼の息子のオモボノの楽器に関しては、お兄さんのフランチェスコや父のアントニオに比べて技術的にちょっと劣るところがあったんです。ヴァイオリンの難しい凝ったカービングをする技術がなかったんですね。実際、シンプルな板を使っていたりしています。
 
では、息子たちの作ったヴァイオリンというのは、父親のような値段は付いていないんですね(笑い)。
 そうです。アントニオが1721年に作った「レディ・ブラント」を、サザビーズで1971年に84,000ポンドで買いました。当時のドルに換算すると208,000ドル(当時の日本円で約7,500万円)です。それはあくまでも当時のもので、現在のドルに換算すると、今はおそらく40倍ぐらいの価値があります。ポンドで換算すると、現在の55倍くらいの貨幣価値になります(笑い)。フランチェスコの場合は、今現在で20,000〜30,000ポンド(約370〜560万円)くらいです。
 
名器と言えば、グァルネリも双壁です。
 一言で言うと、グァルネリはよりエッジの立った音を出します。好みによるものが大きいですけれどもね。みんなが聴く音は演奏家が弾く音です。スターンは友人でしたが、彼はグァルネリだけを弾いていました。ある時、スターンにあるストラディヴァリウスを使ってもらったんですが、その時に「自分が普段使っている楽器と全く同じ音がするなあ」と言われました。ちょっと複雑な気持ちになり、私は「あなたが弾けば、あなたの音になるんです」と言いました(笑い)。
 
ヴァイオリンというものは、弾けば弾くほど音が良くなるものですか。
 逆に弾かない期間があった方がいいですね、弾き続けたらいいというものでもないんです。だいたい半音ぐらい下げて、張力を緩めてあげる、そうして楽器に休みを与えるのが大切です。2つのヴァイオリンを持ち、それを交互に繰り返す必要があります。つまり、その楽器からベストな音を出すことを心得ている、きちんとした演奏家にいい音を出してもらうことですね。音を無理強いするのではなく、楽器から音を醸し出すようにするコツを知っている演奏家に弾いてほしいですね。
 弦を張っている時の張力は50キロにもなります。ヴァイオリンの世界では1800年頃にピッチの上昇が起きたんですが、ストラディヴァリウスの凄いところは、その前に作られた楽器だったにもかかわらず、既に内部がそれに十分耐えられるように作ってあったことです。ただ、今の周波数がさらに上がるようだと、さらに弦に張力をかけないといけなくなるので、ストラディヴァリウスがそれに耐えられるか、それには疑問がありますね。
 
©Tomoko NAGAKAWA
アンドリュー・ヒル◎18世紀後半に創業され、ロンドンで代々200年以上続いてきた楽器商であるヒル家に生まれる。パリで楽器製作を学んだ後、家業であるW.E.Hill&sonsの経営を手伝うようになり、1991年よりW.E.Hillを経営。数々の名器を扱い、アイザック・スターンなどの名演奏家が使用した楽器も取り扱っていた。ストラディヴァリウスの中でもコンディションが最も良いと言われる1716年製「メシア」を1950年にオックスフォードのアシュモリアン美術館に奇贈。現在も世界中のコレクターとの取引があり、日本音楽財団のコレクションにも協力している。
 
メンテナンスは大変なんですか。
 演奏家の汗などによって、木は確実に傷みます。また、汗などでニスが剥がれてしまうことがあります。ある有名な演奏家で、寝る時に楽器を抱いて寝てしまう人がいたそうですが、その気持ちは十分に理解できるとしても(笑い)、楽器にとってはかなり辛いことです。また、テーブルを磨くのと同じ材料でヴァイオリンを磨いてしまったことで、木目の美しさを台無しにしてしまったアーティストもいました。
 きちんと手入れをするというのは、意外に難しいんです。私の家は200年以上、楽器商という商売をしてきました。我々には、次の世代に、素晴らしいコンディションのまま楽器を引き継いでいくという社会的な使命があります。現在、メンテナンスはますます難しくなってきています。先ほども申し上げた通り、芸術品に近いものがあるので大変難しいのです。
 
それだけ細かいと、修理する時も大変ですね。
 40年以上前にパリで楽器作りも学んだことがあり、5年ほど職人をしました。ただ、板を張り替えるということは滅多になく、あっても、音に影響が出ないように張ります。オリジナルの板に近いもので修復したいので、普段から古い木材を買い集めています。実際、板を張り替えてしまうと、もうそれだけで楽器としての価値というのは3割以上、状態によっては半分以下に下がってしまいます。
 私が過去に関わった修理の中で、最も大きいものは、ストラディヴァリウスの1700年製のチェロを直した時です。有名なチェリストがフェリーにそのチェロと一緒に乗ったんですが、チェロを乗せたボートが沈んでしまったんです。そして2日後、浜辺にいた釣り人に発見されました。
 それでバラバラの破片を繋ぎ合わせて何とか直したんですが、そのチェリストは、事故の前よりも音が良くなっていたというんです(笑い)。その時は、新しい板を張り替えたのではありませんが。
 
今まで聴いたアーティストの中で、誰が、ストラディヴァリウスから最も音を引き出していたと思いますか?
 それを言ってしまうと明日にでも命がなくなるので、それだけは勘弁してほしいです(笑い)。
 
次にこれを買おうと考えているストラドは何ですか。
 もしそういうものがあっても、この場では言えません(笑い)。1つか2つ常に思っているものがあって、それを思い描いている時が一番楽しい瞬間ですね。これも出会いで、私はこれまで幸運にも良い出会いを重ねることができました。







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