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「こげぱん」が象徴化する現代社会の現状と希望
第2回アニメーション感想文(評論文)コンテスト 一般部門 優秀賞
佐藤 栄壱(さとう えいいち)
 
 
 オリジナルビデオアニメーション「こげぱん パンもかわいいだけじゃだめらしい・・・。」(製作はソニー・マガジンズ他、2001年発表。以下、「本作品」とする)は、サンエックス社が発売するキャラクターグッズ、「こげぱん」シリーズのキャラクターたちが登場する短編オムニバス集である。
 メインキャラクターの「こげぱん」は、1日限定20個の特製あんぱんという「エリート」になるはずだったが、釜の中に落ちてしまったまま気付かれなかったために焦げてしまった。このために『どうせすてるんでしょ』と、なげやりで後ろ向きな性格になり、『パン人生は終わってしまった』と思っている。この他に、やはり焦げてしまった親友のクリームぱんなどの「こげ仲間」や、きれいに焼かれた「キレイぱん」たちが登場する。本作品は、この後ろ向きなキャラクターのこげぱんへの支持を受けて出版された絵本を元に製作され、とあるパン屋を舞台にパンたち生活がいきいきと描かれている。その中で発せられている私たちの社会へのメッセージを、こげぱんというキャラクターの魅力について考察することで読み取っていきたい。
 
 物語は、こげぱんが自分のパン人生をあきらめているところから始まる。パン屋のミスにより焦げてしまったため、『パン屋がもっと早く気付けば・・・』とぐちをこぼしては牛乳を飲んで酔っ払い、うさばらしをする。買われることのないパンは、もはやパンとしての存在価値を持たず、言わばパン世界からリストラされた存在である。これが、本作品を見た者がこげぱんに対して共感を抱く一要因であろう。しかし、それはこげぱんに自身を重ね合わせたからと考えるべきではない。合理化と実力主義が浸透し始めた現在、不要と判断されてしまう原因が自分自身に全くないわけではない。それはある程度は理解出来るものの、認めることは耐え難い辛さである。これに対し、こげぱん自身には全く責任がなく、かなり理不尽なキャラクター設定をされている。このため、より厳しい状況に立たされている存在としてのこげぱんを、受け入れているのだと思う。つまり、辛い状況にある自分たちでも励ますことが可能な存在を認めたいという、安堵感を求める願望が共感を抱かせているのだ。こげぱんさえも同情する「スミぱん」を登場させていることから、それは明らかである。
 次には、こげぱんが持つポジティブな面である。『どうでもいいし・・・』と何事にも無関心な態度をとる普段のネガティブさとは逆に、パン人生をあきらめ切れずに、何とかして買われようと努力をすることが時にある。キレイぱんになろうとしたりして、その度に失敗してしまうが何度も試みる。一方、順調にパン人生を歩んでいるように見えるキレイぱんたちにも悩みがある。人気があるパンにはかなわず、流行にも左右されるという。これを知ったこげぱんは、こげ仲間との今の気ままな生活が一番だと考えるものの、まだあきらめてはいない。こげぱんのように自分が望んでいない立場になることは、程度の差こそあれ誰にでも起こり得るし、思い通りにならないのが社会というものである。その状況を受け入れるか、あるいはそれに抵抗するかは人それぞれだが、こげぱんの場合は両方である。自分の立場は受け入れるけれども、パンとして買われることをあきらめない。これは、こげぱんはエリートになるはずであったことへの、意地とプライドによるものだろう。過去にとらわれてはいるが、実にポジティブなのだ。与えられた環境の中で自分の可能性に挑み続ける姿勢に、共感する者は多いであろう。
 そして未来への希望である。焦げてしまったこげぱんたちは買われることがなく、パン人生をあきらめざるを得ない。ところが、キレイぱんたちも決して幸せなパン人生を歩めるとは限らない。そんな中、こげぱんにあこがれるキレイぱんに対して、パンの幸せとは何かを問いただす場面がある。キレイぱんは『キレイにやかれてお客さんに買われること』と答え、キレイぱんとしての立場を自覚する。こげぱんとキレイぱん、どちらの生き方も間違ってはいないが、やはりパンの幸せは買われることだと言い切っている。また、新発売で人気商品の「いちごパン」に『全く近頃のパンは・・・』と言ったこげぱんに、『そんなんじゃない!』といちごパンは激しく反論し、買ってもらえるよう素材や中身でも努力していることは本当なので、「近頃のパン」と言われることには納得がいかないと言う。これを聞いたこげぱんは、いちごパンを認めて牛乳で激励する。こげぱん自身はパンの幸せを求めることが出来ないが、焦げたパンとしての立場を自覚し、キレイぱんたちが幸せなパン人生を歩めるように支えようとし、また、いちごパンのように新しく誕生する誇り高きパンには感銘する。こげぱんの説教好きな面と、新製品に対する排他的な態度は、実はパンたちの幸せと未来を大切にしたいという思いの表れなのだ。焦げたことは望んだ道ではないが、自分たちがパンたちの希望を未来へとつなぐことで、パンとしての幸せを見出そうとする。これはまさに自己犠牲の愛である。混迷する時代の中で、誰もが将来へ希望を託したいと願う。そのためには今を生きる者たちが土台として身を投げ出さねばならないが、その決断には勇気が要る。これを行っているこげぱんに、私たちがあるべき姿を重ねてあこがれを抱くのではないか。
 
 以上が、本作品から感じたこげぱんの魅力である。本作品はパンというキャラクターを用いることで現代社会の状況を象徴化し、問題提起と同時に理想を示そうとしているのではないかと私は考える。この意図はエンディングのパンたちが雪で遊ぶシーンで特に強く表されている。パンたちの吐く息は白く、こげぱんもキレイぱんもスミぱんも皆同じだ。それは『自分がここにいるしるし』であり、『何でもないことだがすごく幸せなこと』と述べて本作品は締めくくられる。いかなる立場にあっても元々は皆同じ存在なのであり、生きている場所も本当は何ら変わりはない。だからこそ、受け入れることも新たに可能性を追求することも、どちらがより良いとかそうでないといった差など、実はあり得ないのだ。それを伝えることが、製作者の本当の意図ではないだろうか。
 このように、本作品はキャラクターのかわいらしさや、生活のエピソードをほのぼのと表現するに留まらないメッセージを私たちに投げかけている。
 
第2回アニメーション感想文(評論文)コンテスト 高校生以下部門 最優秀賞
根本 健治(ねもと けんじ)
 
 
 「本物もコピーも、どっちも生きている。・・・みんな・・・生きている」―その言葉が、僕の心を揺らしました。
 映画「ポケットモンスター・ミュウツーの逆襲」を僕は胸を高鳴らせて見ていました。ゲームでは味わったことのなかった、ポケモンたちの迫力のバトルが、スクリーンで繰り広げられていたからです。ピカチュウの強烈な電撃や、火炎やビームの応酬に、まるで画面の外にいる自分がやられてしまいそうでした。
 でも、ミュウとミュウツーの戦いが始まると、僕はそれを息がつまる思いで見ていました。ミュウツーは、人間がミュウの細胞から作り出した「コピー」兵器でした。人間はミュウツーを戦うための怪物として利用し、ミュウツーもただ戦うことしか知りませんでした。しかしある時、ミュウツーは人間の元から逃げだします。そして、人間に復讐するために、絶海の孤島にポケモントレーナーを集め、そのポケモンのコピーを作り軍団を組織して、人間世界に攻めこもうとします。
 ミュウツーが人間をうらんでいる理由は、どうして自分が生まれてきてしまったのかわからず、そして「コピー」である自分の不確かな存在に悩み続けているからです。それで、戦うための兵器として自分を生み出した人間と戦おうとしますが、その前に、オリジナル(本物)であるミュウが現れます。ミュウは戦いを止めるようにミュウツーを説得しますが、ミュウツーは納得せず、2匹は、そしてそれぞれのポケモンの本物とコピーが戦いを始めてしまいます。
 もし、僕と姿かたちのそっくりな「コピー」がいたら、僕は彼に何を言うでしょうか。試しに「宿題をやれ」と言っても、相手も同じようにやりたくないから、逆に言い返されてしまいます。しかも、彼は僕の方が「コピー」だと言ってくるかもしれません。でも、「野球をやろう」と言えば、2人とも大好きだから、喜んで賛成するでしょう。能力は変わらないから、きっと接戦になります。でも、試合は必ずどちらかが勝ち、負けると思います。なぜなら、たとえパワーやスピードが同じでも、そのときの運や環境で差が出るからです。この勝ち、負けの差が出るように、僕と彼の間にも違いがあると思います。というより、僕は僕以外の誰でもないし、彼もまた同様です。互いに争うより、協力して高めあうことで、無二のパートナーにきっとなれるでしょう。
 そんな考えをくれたのは、ミュウツーとミュウの戦いを止めようと、2匹の放ったビームの中にとびこんでいったサトシでした。自分で自分を傷つけあう、いや、ただ相手を認められない者同士の戦いを見ていられなかったのです。ビームを浴びたサトシは、石のように固まってしまいます。ミュウやミュウツー、そこにいる人たちやポケモン、それを見ている僕達も全員、その行動に驚いて身動きがとれなくなってしまいました。コピーも本物も、生き物に変わりはない。そしてみんなは今、それぞれ生きている。代わりはどこにもいない自分。それがコピー、本物と区別されるはずがありません。その思いを受けた、一匹一匹のポケモンの涙がサトシに光となって集まり、サトシは元に戻ることができました。ミュウツーとミュウも、お互いを認め合い、ついに戦いを止めます。それはミュウツーが自分を「生きている」と実感した瞬間でもありました。
 ミュウツーがあれほど苦しんだ、自分の存在意義と、「コピー」という自蔑が、「生きている」ことを実感しただけで、きれいに消えてしまいました。それほどに、「生きている」ことは基本的でありながら重要なことです。僕も、小さくても「生きててよかった」と思える、うれしいこと、楽しいことが「生きている」ことを感じる瞬間です。つばめが巣で子育てをしていたり、夕焼け空一面にトンボが飛んでいる姿を見た時も、そして、ポケモン達が泣いた場面も、みんなそれぞれが「生きているんだな」と感じました。
 ミュウツーとミュウ、コピーされたポケモン達は、最後に旅に出ます。しかし、それぞれが「生きている」ことを胸に刻み、世界のどこかで生きていくことを決意しています。ミュウツーはサトシ達から戦いの記憶を消してしまいますが、僕が得た思いは消えずにより強くなっています。家族や友達、あらゆる動植物、そして僕は、一人一人が生きています。お互いに尊重し、協力し合い、それぞれの可能性を追求し続ければ、生きていることの幸せをより多く得られるでしょう。サトシやミュウツーのような、相手を認め、自分を認められる勇気を持って、生きていきたいと思います。







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