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『ガンダムSEED』の人気と魅力
―アニメを取り巻く文脈の変化から―
第2回アニメーション感想文(評論文)コンテスト 一般部門 最優秀賞
石子 造(いしこ つくる)
 
 
 2003年に話題となった日本のアニメーションに、『機動戦士ガンダムSEED』がある(2002年10月5日〜2003年9月27日・MBS/TBS系列で放映)。平成ガンダム・シリーズで最高の視聴率を記録した本作品は、一部インターネット上に大論争まで引き起こした(http://members.at.infoseek.co.jp/tanepo/を参照)。本稿では、この作品の魅力や受容のされ方の特質に、個人レベルの好き嫌いをこえた社会的背景の存在や同時代の文脈を指摘し、現代日本のアニメを取り巻くファンたちの社会心理について論じる。
 
 『SEED』の主人公は、16歳の幼馴染の少年同士である。4年前に心ならずも生き別れた二人は、戦場で敵味方として運命的に再開する。彼らはそれぞれの親友を殺害し、互いに殺し合う寸前まで戦うが、次第に戦争の意味について考えを改め、真の倒すべき敵を見出し共闘するに至る。一方で『SEED』の物語世界は、基本的に初代ガンダムの<世界>を借りている。宇宙コロニーで平和な学園生活を送っていた少年少女たちが、突如襲来した敵により大人が全滅したために武器を取らざるをえなくなる。前線基地の職業軍人に助けを求めるが、厄介者扱いで地球へ転戦することを強いられ、執拗な敵の追及を受けつつ、味方本部をめざす。たどり着いた本部は、しかし、彼らを囮や捨て駒としか見ておらず、戦局は一兵士の預かり知らぬレベルで、一大殲滅作戦と決戦兵器により決まろうとしていた・・・というものだ。
 
 物語消費のレベルで見た場合、『SEED』はガンダム<世界>の一派生作品にすぎない。他のガンダム・シリーズとこれを隔てるのは、作り手とファンの趣向の違いだけである。ところが『SEED』の特徴は、そう割り切れないガンダムファンからの反発を惹起させ、熱心な視聴者に変えてしまう点にある。アンチ・ファンを生み出すのも、重要な人気づくりであるのに、この論点はアニメ批評において重視されてこなかった。私は、これを単純に世代間対立とみなすのは誤解を招くと考える。過去のガンダムを頭の中で美化する補完を行う人々は、若い世代にも多いからだ。富野由悠季氏が「プログラムピクチャー」と評した作品に、なぜこだわるのか。確かに『SEED』と初代ガンダムには、絵柄やガンダムの数、登場キャラクターの年齢の幅が狭くなったなど相違点も多いが、『SEED』を作品的に穴が多いという人は、アニメのガンダムすべてにそれがあてはまってしまうのを忘れている。『SEED」のアンビバレンツな人気の秘密を探るには、作品自体だけでなく、それが置かれた社会的文脈の変化を見る必要がある。
 
 いったい『SEED』の何が多くの人に「ちがう」と思わせるのか。この作品には、『エヴァンゲリオン』に通じる、殺伐とした緊張感が一貫して流れている。この緊張感は主人公とそれを取り巻く世界の救いようのなさに起因している。製作側はキャラクターに生気を込めるよりもひたすら「状況」の連続を描きたいようだ。主人公たちは社会や組織に一方的に追い詰められる。共同体は崩壊してしまっているか、または悪意を集合的に増幅させる存在で、作中キャラクターが成長しても、世界からは疎外されたままだ。敵との戦争は脱歴史的で超越的に描かれるほど「リアル」となる。『エヴァ』では自意識の改革や母胎回帰といった解決策を試したあげく製作者が放り出してしまい、視聴者が激怒した要素だが、『SEED』ではそもそもテーマ性を失っており、視聴者の気を画面に引きつける技法として多用されている。この無味乾燥さが、少年がロボットの力を借りて大人に伍し世界をものにする成長譚としてのガンダムを見慣れた人々に反感を持たせるのではないか。
 
 かつて日本では、「子供や若者の感性」が善とされ、社会が味方していた。若年層の人口が多かった時代、そして年長者のおかした戦争の過ちを指弾するのが当然だった戦後は、「年少者の帝国」というべきユートピアが物語世界に生まれた。時代ゆえに、大人社会や組織の論理とたたかう年少者が主人公に選ばれたのである。初代ガンダムも、年少者たちが新たな相互理解の感性を武器に世界の革新に挑むというテーマを持っていた。歴史的にみれば、単なる子供向けでないアニメを創作し社会的認知を変えることと、精神的に覚醒した若者による新たな世づくりという理想を二重写しにしたこの作品のテーマには、当時の社会の影響を容易に看取できる。
 
 だがそれ以降のガンダムおよび日本のアニメ業界は、質の良い作品の力だけではなく、消費に受動的に耽溺する受け手を増殖させる市場形成力によって社会的認知を得ることになる。ここにおいて、経済的豊かさが社会にもたらした余裕が子供や若者を善とする共通了解の残存をしばらく許していたことが、ガンダムおよびアニメファンの共同体幻想を実質的に下支えしていたと指摘したい。すなわち「恐るべき子供たち」という想像力に基づき、良くも悪くも消費社会のトップランナー的な扱いを受けてきた「オタク」的ファンのありようは、「年少者の帝国」の遺産だったということである。この幻想にまだ安住している人が、第一人者の自分たちを無視してムラの外をターゲットにつくられた新作ガンダムを許せないと思うのだろう(03年12月11日付読売新聞によれば、『SEED』DVD購買層の6-7割は女性だという)。いまや濃いマニアの共同体として「オタク」を物語ることは不可能になり、彼らはただの嗜癖現象となるまで一般社会に拡散したのである。
 
 その背景には、すでに80年代に子供や若者であることだけを理由に期待するのをやめる方向での社会の変化が始まっていたことがある。90年代に一般化した少年法改正問題はその例である。超高齢化が進む社会において、社会の中心はもはや若者ではない。そこでは、年少者であることは可能性よりもリスクとみなされる。イノセンスを正当化してきた社会からの支えは喪われてしまった。それに起因する心の痛みこそが、現代の年少者たちを物語世界という彼岸のイノセントなキャラクターの消費を通じた所有と、アニメへの嗜癖に走らせる大きな要因である。過去のガンダムにも同様のキャラクターはいたのだが、『SEED』では登場する少年少女たちが全員、世界の残酷に翻弄される痛々しいまでに未成熟な存在として描かれることで、人気を博したのである。
 
 『エヴァ』以降、「年少者の帝国」の崩壊に由来する彼らの精神の無残を自虐的に描くことはシミュラークル(模造品)と化した。『SEED』はそれを取り入れて、「ガンダムすら年少者の味方の物語ではなくなった」現実を突きつけることで、熱心な視聴者を獲得した。『SEED』が殺伐とするほど、初代ガンダムがいっそう美化される。ガンダム市場はますます活況を呈する。以上のように、作品は常にそれがおかれた社会的文脈の変化に応じて受容されていくものである。その意味で『SEED』とは、「年少者の帝国」の廃墟に立ちすくむアニメファンの心を巧妙に突いて成功を収めた、興味深い作品だったのである。
 
第2回アニメーション感想文(評論文)コンテスト 一般部門 優秀賞
井上 加勇(いのうえ かゆう)
 
 
 確かに、事実は一つしかないかもしれない。しかし、事実から生まれる歴史は、錯綜する視線の中に無数に存在しうる。そして、事実が歴史に再構成されていく過程において、その記述から消えていく者達がいる。それは、現実だけではなく、架空の歴史においても言えることであり、「ガンダム史」において消去の対象となったのは、「難民」という要素であった。
 『ガンダム』シリーズの第一作、『機動戦士ガンダム』(1979)は、ジオン軍によるスペースコロニー襲撃によって始まる。ジオン軍によって生活の場を失った人々は難民となって地球に運ばれる。しかし、地球を見る難民の老人の言葉は、故郷を逐われた者のそれではない。自分の家に帰ってきた帰還者のそれである。
 
「今度地球に帰ったら、わしは絶対に動かんよ。ジオンのやつらが攻めてきたって、地球連邦の偉いさんが強制退去を命令したって、わしは地球に骨をうずめるんだ。」
(第五話「大気圏突入」)
 
 つまり、彼等にとって、故郷はあくまでも地球なのであり、彼等を支配するのは、宇宙の民としての感情よりも、故郷から放逐された者としての屈折である。そして、その屈折の延長線上に、初めての宇宙国家であるジオン公国の総統、ギレン・ザビは存在する。地球連邦は人口爆発から地球を守るために人々を宇宙に棄て去った。ギレンは、地球から棄てられた者達を代弁して大演説を行う。地球を滅ぼすのは我々ではない、お前達だ。地球連邦のエリートこそが地球を汚す愚か者であり、お前達こそが棄てられるべき存在なのだと。
 しかし、地球と宇宙の民の関係を定義づける難民達のエピソードは、TV版の翌年に作られた映画版ガンダム三部作において完全に削除される。例えば、主人公アムロも、本来は軍人ではなく民間人、つまり、「難民」であり、彼が戦ったのは、あくまでも、執拗なジオン軍の襲撃の中で生き延びるためであった。TV版には、そんな彼を地球連邦の将軍レビルが冷徹に軍の組織に組み込んでいく、というシーンがある。
 
レビル さて、諸君はここで仮収容を受けて南米の連邦本部ジャブローに行ってもらう。
アムロ あの。
レビル ん?なんだね。
アムロ はい。軍隊に入りたくない人はどうするんですか?
レビル すでに君達は立派な軍人だが、軍を抜けたいというのなら、一年間は刑務所に入ってもらうことになるな。
アムロ そ、そんな。それじゃ、いやだっていう人でも。
レビル 君達はもともと軍隊で一番大事な秘密(連邦軍の秘密兵器、ガンダムのこと)を知ったのだ。本来なら一生刑務所に入ってもらわねばならんところだ。
(第26話「復活のシャア」)
 
 だが、同じ会談シーンが、映画版では次のように作り直される。
 
レビル 諸君らは、この後ジャブローにおもむき、ニュータイプの検査を受けてもらう。
アムロ 質問があります。
レビル ん?
アムロ ニュータイプの概念を教えてください。
レビル 直観力と洞察力に優れている人々と私は考えている。しかし、軍はどう考えているかはわからん。
アムロ 軍が・・・。
レビル いや、この問題は口で言うほどやさしくはない。人の認識力というのは、環境の変化によって拡大するとは言え、人間の普遍的な能力になるかわかっていない。
(『機動戦士ガンダムII・哀戦士』)
 
 映画版では、主人公達の難民性は隠蔽され、レビルの冷徹さは消去される。そして、かわりにニュータイプ概念が物語の前面に押し出される。宇宙という環境によって認識力の拡大した人々を指し、来るべき人類の革新がそこにあるというニュータイプ。ガンダムにとって重要なこの概念であるが、ガンダムの物語は、必ずしもこの概念を中心に展開していたわけではなかった。TV版でニュータイプの概念が登場するのは、ストーリーが三分の二以上も終わってからのことである。しかし、ニュータイプ概念の登場後、ガンダムの歴史はこの概念を中心としたものへと書き換えられていく。そして、上記のシーンで示されたように、ニュータイプ概念は、その登場によって、主人公達をはじめとする「難民」に対する認識を物語の中から消し去ってしまう。認識を拡大するという設定のニュータイプが、物語においてはある認識を消し去ってしまうという、設定の物語に対する裏切りが発生したのである。この裏切りの中で、ギレンの演説もまた変質する。映画版において、ギレンは宇宙の民は選ばれた民であると宣言する。ここに、宇宙の民の屈折は裏返った優越感へと変質していくのである。
 シリーズ第二作『機動戦士Zガンダム』(1985)は、初代ガンダムそのものではなく、その変質した歴史に接続するものとして作られる。難民達の描写を排除した歴史の上で、屈折の裏返りは映画版以上に進行する。そこでは、人類が宇宙に出ることは一種の強迫観念と化し、地球に愛着を持つ人々に対して「オールドタイプ」「地球の重力に魂をひかれた人々」といった罵詈雑言が投げつけられる。ニュータイプは、宇宙の民の優越を保証するための概念へと化していく。Zにおける戦いはひたすら不毛であった。地球の民の根拠無き優越を背景に虐殺を繰り返すティターンズ。しかし、それに対する主人公達を動かす感情は、単なる屈折の裏返しによる優越感に過ぎない。根拠無き優越感と裏返しによる優越感の戦いは不毛な無限戦争へと転がり込んでいく。参加者達の死以外に結末のつけようのない無限戦争の中で、Zの登場人物たちは当然のようにぼろぼろと死んでいき、主人公カミーユは発狂する。Zがその物語を歪んだ歴史に接続している限り、それは必然の結果だったと言える。
 『ガンダム』シリーズにおいて、破滅の必然はある程度認識されていたと言える。しかし、その必然の原因である歴史の歪みには、ガンダムはまるで無自覚だった。映画『逆襲のシャア』においてシャアは、その無自覚さ故に、必然の原因を「人類の業」なるものに帰し、自分がその「人類の業」を背負い込むことによって、人類を必然から解放するという夢にとりつかれる。しかし、小惑星を地球に落として地球の環境を破壊し、それによって全人類を強制的に宇宙にあげてニュータイプ化を促す、というプランは、裏返った優越感の極致に過ぎず、それは、単なる愚行の繰り返しであり、Zの無限戦争の継続にしか過ぎなかった。
 「難民」を切り捨て、歪んでいったガンダムの歴史。「ガンダムは単に都合のいい設定をつなぎあわせることで戦争をでっちあげているに過ぎない」という、ガンダム嫌いの人々の批判は、その意味では正しい。ガンダムが歴史の歪みに対して無自覚であったことは、批判されねばならない。しかし、その歪みによる必然をその作品の中で引き受けたことは評価されねばならない。そして、富野由悠季は、1999年に新しいガンダム、『ターンAガンダム』を製作する。そこで、富野由悠季は、ムーンレイスと呼ばれる巨大な難民とそれと向き合う人々を、まるで、これまで切り捨ててきたものを拾い集めるかのように渾身丁寧に描く。ニュータイプ概念は姿を消して、屈折、優越感は克服の対象へと変化する。それによって、登場人物達は、これまでのガンダムでは考えられないほど豊かな生を獲得することになった。ここにおいて、ガンダムは、初めてその歪んだ歴史、繰り返される無限戦争から解放されたのである。







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