日本財団 図書館


●原始的なエネルギーが町を元気にする
 香瑠鼓―Yosakoi ソーランのビデオを拝見して、すごいエネルギーが感じられます。いろいろな方が参加していて、そういう人たち1人ずつが「私はこうだ」、本当は自分はこういう風に見られたいと、いろいろあると思うのです。きょうお集まりの皆様も、今はおとなしくしていらっしゃるけれども、実はいろいろな面があって、踊りというのは1人ずつの「私は本当はこうなんだ」というものが非常にシンプルに出るものなんですね。ビデオを拝見していて、私はこうだというのが出て、そしてそれが1つに合って、すごいエネルギーだなと思いました。
 あれだけの練習をするのはすごいと思います。お互い他人同士ですよ。これが息を合わせるというのは本来は嫌なことですよ。私たちはプロですから、CMの仕事とか、スターのバックで踊っているとか、仕事としてお金をもらって1つになりますが、自発的に集まった仲間が1つになるというのは、すごいことだと思うんですよ。
 さきほど私、曳山を見に行って、何が面白いって、曳山の形が1個1個すごいでしょう。こんなふうに、うねって。あの形を見ているだけでなぜか元気が出てきます。なんで元気が出てくるのかなと思うと、私たちはお祭りをしてきた民族だからなんですよね。例えば雨乞いの踊りとか、神様の前で踊りを踊ったりしていたのが、だんだん発展してきた民族だと思うんです。そういう原始的なエネルギーが、曳山を見ているとなぜだか触発されます。不思議ですね。
 曳山のビデオを見て、私は、若者たちが逆に曳山に引きずられていると思いました。私たち1人1人の人間に底力があって、やるぞというエネルギーが曳山によって引き出されるというのか、不思議だなと。200年ぐらい前、江戸時代からの民族のすごい知恵というか。ここにいる私たちにも、同じものが流れています。
 若者は東京にもいっぱいいますよ。でも、ここにいる人たちは羨ましいです。東京には何やっていいのかわからない若者がたくさんいますけれど、その若者たちが1つになれて、力の限りというか、死にものぐるい状態になるということはありません。でもここには曳山があります。Yosakoi ソーランも、同じようにものすごく厳しい練習をして、1つになるというのがすごいと思います。
 
香瑠鼓氏
 
 例えば、息を合わせるというのがすごいんですよ。私にはわからないので想像するんですが、曳山が道を曲がるときに息が揃っていないと曲がれないのではないかと思うんです。踊りは、吸う息と吐く息を間違うと、すごい苦しいんですよ。飛ぶときは息を吸うし、下がるときに息を吐く。逆だと大変です。皆さんやってみて下さい。動いているときに息を吸おうとすると、瞬間に吸わないと辛いんですよ。たぶん曳山は、みんなで走っているときに、一瞬にしてみんなが吸って、タイミングが揃うから、すごく危険な道でも一気に行けるのではないかと想像したのです。
 息を吸うと、私たちの体はエネルギーをもらえるようになっているんです。これは私の持論なんですけれど、宇宙の始まりはビートだと思っているのね。そのビートによって振動が起きて、生命が生み出されると思っているんですよ。密教の曼荼羅図のイメージなんですけれど。そのビートが絶対的なもので、その中では自我をなくす。同じ踊りでも自我のある人が踊ると見ていて気持ち悪いんですよ。1つの精神修養であって、今ビートに乗りなさいと言われても、すごい辛いんですよ。それで1秒たりと遅れると、目立って気持ち悪くて、残酷なものじゃないですか。
 だからそこを1つに揃えることができる踊りとか音楽は、本当に素晴らしいと思っています。私のイメージでは、宇宙の始まりがあって、その大きなものから私たちにエネルギーが絶えず降り注いでいる。Yosakoiや曳山を見ていると、呼吸をすること、動くことによって、エネルギーがみんなの上に降り注いで、全員が何か知らないけれどやっちゃったという感じになる。たぶんそこで、経済への波及効果とか、いろいろなものが動くと思うんですよね。気持ちも動くし、何もかもが動いて、それですごい町おこしになっているのではないかと思います。
 
 後藤―ありがとうございました。ソーランは、もともと厳しい網を引くときの労働歌ですし、くんちは秋の収穫を神様に感謝するお祭りということで、そういった意味では人間が根元的に持つエネルギーの発露ということで、くんちの曳山が走るときのエネルギー、また踊りの息を合わせることについて、貴重なお話をいただきました。
 それでは日下会長にお伺いしたいと思います。日下さんは『ソフト経済学』という本の中で、「祭りが経済を発展させる」という趣旨のことを書いていらっしゃいます。これまでずっと経済や社会の先端で非常に注目されて、提言されてきた立場から、札幌のYosakoi ソーランを始めとする全国的なお祭りについてお話を伺いたいと思います。
 
 日下―きょうは本当に良かったと思っております。今、香瑠鼓さんが原始のエネルギーとおっしゃいましたけれど、私もそれをたくさんもらいまして、良かったなと思っています。
 オープニングの神集島炎の太鼓も感動しました。太鼓の音は大きい、リズムは激しい。しかし、それ以上に打っていますよね。自分の気持ちはもっと激しいのだという若さを込めて。「のっている」というのはそういうことでしょうね。太鼓以上の激しさが心の中にあって、溢れてくる。これが今の日本には全くない。ここにはある。
 それから長谷川さんがYosakoi ソーランを見せて下さいました。本当にすごい。だけど踊っている人は原始エネルギーを発散させているが、踊らせている長谷川さんは、何を出しているのでしょうね。これもすごいエネルギーなのですよ。だけどそれだけではだめ。知的でなければいけない。非常に冷静に賢く、警察と対応しても怒っちゃいけません。警察にはちゃんと理屈で答えて、そして実際を見せてだんだん向こうを感化していく。そういう冷静で知的な活動がなければ実現しなかったでしょう。
 そこに情があります。これはいいなと思うのは感性ですね。カーニバルを見てこれは良いな、高知県のこれは見て良いなという、感性ですね。そして、これをやるぞというのは、意ですよね。意志、意欲。昔、私たちの受けた教育の目的は、「知・情・意」といったんですよ。知は知識とか知恵。情というのは人情味がなければだめですよ、感性が豊かでなければだめですよということ。これは原始的エネルギーがもとになるのでしょう。その先に意がある。意志とか意欲とか。
 これが戦後、全く言われていないのですよ。そんなものを出すと、あいつは野蛮だとか、やりすぎるとか、物騒とか、出して得なことは1つもない。ですからみんな冷たい人間ばかりになったのですよね。誰かがやるぞと言ったら、冷やかす人ばかり。自分がやると言うと責任をとらされるから止めておこう、というような日本人になっちゃったから、それご覧なさいこんな不景気ですよ。
 アメリカ人なんかと付き合いますと彼らは意欲だけある。人をこき使ってむしってやろうと。中国人もものすごい。こいつからがっぽり取ってやろう、騙してでも何でも取った方が勝ちだ。いや、中国人全部じゃありませんけれど、日本人と比べると無茶苦茶にがめついですよ。これでは負けてしまいますよね。
 ということで、知・情・意の意をつけるには、お祭りが一番いい。意があって、行動している人の話を聞くのが一番いい。その次は、自分が実行することだ。応用することだ。
 きのう、長谷川さん、市長さんたちと晩ご飯を食べました。そのときに長谷川さんから聞いた話ですが、土佐の人は心が広くて、よさこいは土佐のものだから真似しちゃいけないとか、真似するのならパテント料をよこせだとか、そういうケチなことはいっさい言いません、どんどん枝分かれして下さいって言うんだそうです。唐津へ行けば唐津の踊りになって下さい。名前だって何だって好きにやって下さればいいんですと。社会奉仕の精神ですかね。これはアメリカ人と全然違いますね。
 これは世界がビックリしているのです。日本のマンガ・アニメはアジア中で真似されている。パクられている。イギリスのエコノミストという雑誌が書いたんですけれど、こういう場合アメリカは直ぐ裁判を起こします。捕まえて金を取ろうとする。日本人は全く何も言わない。アジアでも中国でも、ドラえもんとかの偽物だらけ。でも、日本人は放っておく。それだけ気に入ってくれたら嬉しい。いくらでもやんなさい。日本を好きになってくれたら、それでいいです。こっちはまた次を作るのが忙しいのだ。裁判する暇に次を作るのだと。
 ディズニーのように弁護士を200人も集めて、世界中で裁判ばかり起こして歩いていると、それは儲かりますが、何も作れなくなった。日本人は次から次へと良いものを作って持ってくるけれど、ディズニーは近頃、何も作ってないじゃないか、とアメリカのお客が言っています。アメリカ人に軽蔑されているわけです。その辺を日本人はわかっていて、金をとって歩くよりも、次を作るのに忙しいほうがよい。これが本当ですよね。そういうのが日本の若い人の中にまだたくさんあって、僕は希望を持っているわけです。
 日本には国立大学が99ありますが、文部科学省は、もう金はやらんと言っています。2年間はやるけれど、その先は自分で食べていきなさい。学生が集まるようなことをしなさい。どうすれば喜んで子どもが集まるか、学長が考えなさい。文部科学省はもう何も言いません。学長の権限をうんと大きくして、民間人を集めて顧問にして、どうやって食っていくか考えなさい。2年経ってまだ赤字だったら、そのときは少し金をやるぞと言っているわけです。
 そうしたら、何と情けないことに、彼らは合併しているだけですよ。大学合併。中身は子どもが喜ぶことは何もしないで、ただ合併する。99あった国立大学は間もなく88になる。私立大学も500あったのが、これもまたばたばたと倒産してなくなっちゃいます。下らないことばかり教えているのですから、習ってもしょうがない。
 そういう状況ですが、子どもがいっぱい集まるのは、マンガ・アニメ・デザイン学科なんです。これ作ると20倍、30倍も子どもが集まる。東京財団ではそれをこの4、5年やっておりますが、アメリカからもシンガポールからも北京からも、マンガ・アニメ・デザイン学科はどう作ればいいか教えてくれと言ってくる。教えに行くんですけれど、私は一番良いことは教えたくないんですよ。
 
日下公人
 
 ですから、先ほど市長さんにも言ったんですが、唐津でやってください。大学ではなくてもいいです。専門学校でいいです。文化教室でもいいです。子どもは一生懸命やりますよ。という風にこれを応用したいわけですね。何も踊るだけじゃない。お祈りもある。だったらマンガを書くのもありますよ。デザインもありますよ。いろいろあります。
 実は夕べここへ来て、商店街を歩いたんです。そうすると「ふれあいの街」と看板に書いてある。「ふれあいの街」とずっと書いてあるけれど、誰もいないからふれあわない。(笑)夜だからしょうがないか。でも昼間来ても、やっぱりふれあわない。日本中そうですから、何も唐津の悪口を言っているわけじゃないんです。日本中で中央商店街は半分消えてなくなりました。もっと消えてなくなりますよ。商店街の会長の大塚さんと話をしたら、原因はこうだとちゃんと知っています。じゃ、直せばいいじゃないかといっても、簡単には直りません。
 中央商店街活性化。先ほど長谷川さんから、警察はなんでも人のいないところでやれと言うと伺いました。ありがたいことに人がいない。(笑)また、小山さんが曳山を曳きたかったというように、皆さん文化とか活動に対する下地がある。何か形を与えてあげればいいのです。
 そこで思いついたのは、日本中の学生でマンガ・アニメを書きたい人は唐津へ呼ぶことです。夏休みでも冬休みでも、商店街の2階の空いているところにはただで泊めてあげます。そこに泊まって、思う存分絵を描きなさい。展覧会には大通りを使いなさい。そういうと喜んで学生が集まってくる。展覧会を路上ですると道路交通法違反で捕まるのです。日本中そうだから、ここだけは捕まえないことにすればいい。
 では商店街は何の儲けになるのか。例えば、商店街で買い物をすると500円ごとにシールを1枚ずつあげますから、気に入ったマンガに貼りなさいと。たくさん貼ってあれば描いた人は嬉しいですよね。気に入ったマンガに投票したい人は買い物をする。これがいいアイデアか悪いアイデアか知りませんが、参加型ですよね。
 こんなことは考えればいくらでも出てくるわけでして、後は実行するかどうかです。そのために一番必要なのは「やるぞ」という元気です。原始的なエネルギーです。私のアイデアを理屈で潰すのは簡単です。どうぞ潰して、安心して今夜もぐっすり寝て下さい。明日もまた同じ生活をして下さい。でも、それでいいのですか。
 
 後藤―ありがとうございました。唐津市は以前からスポーツ大会、大学の運動部等のスポーツ合宿については誘致に力を入れていますけれども、日下さんからはマンガ・アニメそういった文化面でも若者の力を呼んで利用できないかという、面白いアイデアを紹介していただきました。
 それではパネルディスカッション後半の方に入ります。前半では、祭り、踊りについて、それぞれの角度から話していただきましたけれど、後半では、地域が元気になるのに祭りをどういう風に活かせるのかといった提言を頂ければと思います。
 長谷川さん、札幌のYosakoiのポイントの1つが自主運営ということで、メインは聖域で学生が守っているけれど、あとは商店街、すすきのの観光協会、郊外の住宅地の自治会と、実にさまざまな団体がそれぞれの舞台を運営されています。その点について、どういう風になっていったのか、ノウハウをお伺いしたいのですけれど。







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