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「キャラ」から見える若者の意識変化
 そんな近頃の日本でございますが、先ほど申し上げたように一方で外交・防衛における自主独立の動きもいろいろ出てきました。しかし、そういうことはもうかまわずに、自分の幸福を見つけようという動きも盛んです。そちらの方に話を向ければ、いったい自分の幸福とは何か。これは学校では教えてくれない。父親や母親の教えにもない。
 それはマンガの方にある(笑)。多種多様ですから、その中から見つけることができる。その影響は非常に深いところに入っている。そこで、こんな仮説を立ててみました。
 若い人たちが最近よく使う言葉は「キャラクター」。いわゆるキャラを、非常に問題にします。たとえば新しくグループに入る。そのグループの中に十人いたとすれば、十人がどういうキャラクターの組み合わせになっているかということに非常に敏感です。そのときにマンガが出てくる。もう山ほどマンガを読んでいますから。
 マンガやアニメはきちんとキャラクターを決めます。それをパッと移して、仲間のグループの中で「さあ、自分は何になろうか」。今はロスの知事選まっさかりですから名前をお借りしましょう。たとえばシュワルツェネッガーになりたい、なれるだろうか、ということを十人がやっているのが、お互いに一目で見えるわけです。
 彼らには「キャラがだぶっている」という言葉がある。「キャラがかぶる」ですが、それは「自他ともに認めるシュワルツェネッガーはあいつだ」という人がいて、一方、力もないくせにシュワルツェネッガーを気取っている人がいる。ああ滑稽だ、キャラがだぶっている。
 さて、ここから先が面白いのですが、キャラがだぶっていることに気がついた人がやめるかというと、やめないで続ける。
 これは、ニュー・キャラクターの創造だと仮説を立てたいのです。道化的シュワルツネッガーという新しい役をつくって、それを徹底的に演じてやめない。するとやがて「あいつは立派な奴だ」と言って評価される。
 要するに、十人なら十人の中でみんな目立ちたいのですが、それは昔のように勉強ができる、スポーツができるといった単純なものではない。ニュー・キャラクターをつくってみんなをアッと言わせて人気者になろう。その努力の凄まじさ。そこにはやはりマンガとアニメの影響がたいへん出ているわけです。
 あるいは別の言葉で言うと「キャラが濃い」「キャラが薄い」。
 これは“存在感”とだいたい似ていますが、「あいつはキャラが薄い」というのは存在感がない、特色がない、オリジナリティやユニークさがないという意味ですね。「キャラが濃い」というのは「濃すぎる」という意味です。ちょっと鼻につく。その案配をみんな自分で考えて決めている。
 昨今の日本では、そういう若者社会の構造ができていると思っています。
 ふたたび外交・防衛のほうの国民意識に話を戻しますが、アメリカ人記者が私のところに来て、「日本はナショナリズム復活の危険性があるのではないか」と聞いた。もちろんミリタリズム(軍国主義)のことを言っているのですが、あえてこんな話をしました。
 「ナショナリズム」という英語に含まれている内容は、ナポレオン以後のことしかない。わずか二〇〇年の内容しかない。ナポレオンがヨーロッパ各国に侵略戦争をしかけたとき、そこに住んでいる現地人(ネイティブ)がナポレオンに対抗するために「ネーション」をつくった。我々は生まれを同じくする人間として、団結してナポレオンと闘わなければならないという気持ちが、初めて芽生えた。プロシアを中心に固まろう、とかですが、それがネーションの始まりで、ナショナリズムの中身はそういうことでしかない。
 「そんなことを日本に当てはめないでくれ」と話した。日本は一四〇〇年前から統一して、誰からも侵略されたことはない。マッカーサーは侵略ではない。ポツダム宣言という条約に従って講和し、やがて占領が解除されたのであって、きちんと手続きを踏んでいる。天皇も残っている。今回のイラク攻撃で、ワシントンの人が「日本占拠はうまくいったから、バグダッドもその調子でうまくいく」というのは話がぜんぜん違う。それならフセインは天皇と同じに残しておかなければならない。そしてフセインにきちんとサインさせ、フセインが命令したらきちんと収まるというのが日本方式です。
 しかし、そのフセインを潰したら、あとは誰が責任をもつのか。民主化と言ってもシーア派とスンニ派がある。シーアの方が多数です。それならシーア派に政権を与えるのかといえば、とんでもない。シーア派には与えたくない。スンニ派に政権を与えるのなら少数派ですから民主化ではありません。アメリカ好みの男をフセインの後継者にしたい。その条件はハンサムで英語ができて親米的で何とかで・・・。そんなことでイラクの人々が喜ぶと思いますか。だから成功するはずがない。
 そういう態度から生まれてくるものは紛争、テロ、いざこざです。
 つまり、イラクの人の気持ちになって考えていない。自分が押しつける民主化がいいものだと言いつのっている。まあ百年もやればそうなる可能性はありますが、当座はそうはいきません。
 たとえばバグダッドでイギリス兵が殺された事件ですが、「イギリス人がそんなに憎いのか」と聞くと、その前にいろいろ問題があるのです。彼らは犬を連れて家に来た。イラクでは犬には「不浄」という意味がある。しかも家宅捜査で女の部屋まで武器を持って入った。こんな失礼な奴は殺さないと所帯主としてメンツが立たない。だからイギリスは関係ない。犬を連れて女の部屋まで入ったら、そんな奴は誰であれ殺さないといけない。
 そういうことをアメリカ人は知っていますか? 知ろうともしませんね。
 私が中学三年のとき、日本が降伏してアメリカの兵隊がジープに乗ってやってきました。私の家や近所全部に入りこんで、DDTという白い粉を頭にかけた。「ここを開けろ」と言って、白い粉を撒いていった。日本人は「衛生ならありがたいことだ」と考える知的な国民だったのです。だから、何をしているかわかれば許したのですが、イラクではそうではないようですね。
 アメリカの軽率な態度。そういう態度で進めていけば、いずれ失敗します。イラクについてもこの調子でいけば泥沼に陥る。そして、きっと誰も責任を取らない。そう思っています。







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