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第71回 アメリカの攻勢終末点は近い?
(二〇〇二年四月十八日)
その時点ではわからないのが攻勢終末点
 今回のテーマは「攻勢終末点」という題にしました。これは軍事用語です。
 調子に乗ってどんどん攻めていくと、どこかでばったり止まるところがあります。そしてあとは退却、退却です。その境目を攻勢終末点と言うわけです。
 実例を挙げれば、ナポレオンにとってはモスクワでした。そこから退却して、もう二度とモスクワに行くことはありませんでした。ヒットラーも同じです。モスクワの西方五〇キロまで進み、明日の朝また追撃だと思って寝たところ、もうそこが終わりで翌朝の攻撃再開はありませんでした。たいへんな寒さがいつもより一週間早くやってきたからです。
 日本で言えば、ガダルカナルが一つの攻勢終末点です。日本の兵隊が一万人ほども餓死したことはご存知だと思います。
 ここで言いたいことは、攻勢終末点というのは後になればわかりますが、その時点ではなかなかわからないということです。軍人は「まだまだ負けていない。明日になれば反撃開始だ。また勝利する」と思っています。今までずっと勝ってきたからです。
 これはアメリカにもあるわけで、ベトナム戦争が攻勢終末点であったと後になればわかりますが、そのときのアメリカ人は「ベトナムに負けるはずがない、もう一押しすれば勝てるはずだ」と思っていました。
 ですからニクソン大統領は、あのとき「この戦争はやめる」と言って当選したにもかかわらず、ついに四年間やめませんでした。トータル八万五〇〇〇人が死んだのですから、四年間長引いたせいで何万人か余分に死んだことでしょう。
 攻勢終末点は「後になったらわかるが、そのときはわからない」ということが特徴です。それまで勝ち続けていますから、本人は自信満々です。日本人にわかりやすい例を挙げれば、八〇年代後半からのバブル経済です。平均株価が二万円突破、三万円も突破、では四万円も突破などと言っていたら、そこの手前でおしまいでした。それ以来下がり続けています。
 今なら誰でも知っていることですが、その直前で「やめましょう」とはなかなか言えません。株でも土地でも上がっていくときは、会社の中でも強気の人が勝ちます。一〇年も続けば、常務、専務、社長、上にいる人は皆当たった人ばかりです。「そろそろ危ない」などと言った人は、すでに外へ出されています。会社の中に慎重派はゼロという状態です。
 軍隊の中もそうなります。政治も同様、そうなります。
 「攻勢終末点は、そのときはわからないものだから用心せよ」と、自衛隊の学校でも教えています。もちろんアメリカの学校でも教えていることです。しかし、いくら学習しても、自分がその立場にいるときはわからないというのが、攻勢終末点における重要な点です。日本人はバブル経済で、その教訓を学んだばかりですから、「なるほど」と思っていただけるでしょう。
 もともとは軍事用語ですから、軍人が議論をすると「場所」の話になります。経済人が議論するとGNPや株価や売上高の話になります。
 実際、アメリカは国力の限界を迎えつつあるのではないでしょうか。
 
昭和十四年から始まった国力の限界
 編集部注・平成十四年四月十七日に有事法制三法案が国会へ提出され、同国会での成立をめざしたが未了。その後、平成十五年六月六日、与党三党および民主、自由の賛成を得て成立した。
 
 今日、四月十八日というのは記念すべき日です。有事法制三法案成立にぴったりの日かもしれません。
 昭和十七年四月十八日にドゥ・リットル中佐が率いる一六機のB二五が、東京、大阪、神戸を空襲したその日です。
 さて、ここで言いたいことは、そのとき日本は陸海軍協定で、本土防空は陸軍の担当と決めてありました。しかし、それを決めたとき、そんなに深く考えていないし、決まった後も深く考えていないようです。現に何もやっていません。「おれの縄張りだ」と言っただけです。
 だから、やすやすと侵入されて、B二五に追いつくような戦闘機は一機もありませんでした。せめてあのとき陸海共同と決めて、海軍が零戦を東京にたとえ三〇機でも置いておけば、三機か四機は撃墜できたことでしょう。
 だから法律、制度は大事なのです。
 「おれの縄張りだ」と言う人は山ほどいますが、縄張りとなった後、本気でやらないから困るのです。これが官僚主義の弊害だと思います。
 陸軍は、なぜ防空能力を揃えていなかったのでしょうか。当時の常識として言えば、敵はまだ遠くにいるし海軍が防いでくれる。それを突破されたら海軍が何か言うだろうから、それから準備しても間に合うと思ったのでしょう。それをドゥ・リットル中佐は離れわざで突破します。
 このように四月十八日は日本が無防備で空襲された日で、有事立法にぴったりです。
 もう一つは、山本五十六が戦死した日です。日本が初めて空襲されてから一年後、昭和十八年四月十八日に山本五十六がブーゲンビル島にさしかかったところで、P三八、一六機に迎撃され、零戦六機が護衛についていたもののなすすべもなく、撃墜されてジャングルに突っ込みました。どうやら山本五十六はそのときは生きていたようですが、三日くらい後に救出隊が来て、機体からはい出して木の根元に座ったまま死んでいるのを発見します。
 山本五十六が死んだ以降、日本は退却、退却また退却です。
 これを「場所」で言うのは軍事用語だからですが、国力の限界を経済人として言えば昭和十四年がそれです。当時のGNP統計らしきものをずっと見ていくと、日本は昭和十四年以降、国力全体はどんどんマイナスになります。昭和十四年が日本のGNPのピークで、昭和十五年からぐっと悪くなります。それは生産したものが皆、軍艦とか鉄砲といった軍需物資に回されてしまい、拡大再生産向けの物資がなくなります。それを民需物資から奪います。
 そのため昭和十五年から急に生活が苦しくなります。戦争は昭和十二年から中国とやっていますが、そのころの日本は高度成長で、GNPは増えていました。昭和十二年から十四年といえば、私はそのころ小学生でしたが、年々豊かになるのを実感しています。だから国民も戦争を支持していたのです。
 しかし昭和十五年から急に生活が苦しくなります。例えば昔懐かしい森永ミルクチョコレートは、いま一〇五円で駅の売店で売っていますが、そのころは一〇銭で幾らでも買えたのが、昭和十五年から買えなくなってしまいます。キャラメルやチョコレートが買えなくなって貴重品になったというのが、昭和十五年以降の思い出です。
 余談ですが、昭和二十年になるとやってきたアメリカ兵に「ギブ・ミー・チョコレー卜」と言った思い出話を、多くの人がします。今の人の議論では、言ったのは非常に恥ずかしいことだとなっていますが、「アメリカ人の受けた印象は違う」と思っています。「日本人はチョコレートを知っているのか」と思ったことでしょう。それまでニューギニアやフィリピンを経由してきたからです。日本が昔から貧乏であれば、子供はチョコレートを知りません。実際、今日においてもチョコレートを知らない国民がたくさんいる国は、決して少なくありません。
 日本人の民度は高かったのです。昭和十四年の日本国民の生活水準は、都市ではアメリカとほとんど同じです。地下鉄もタクシーもあるし、映画もジャズもあった。あのまま戦争をしないで五年、一〇年もしたら、ものすごいことになっていたと思います。生活水準でアメリカを追い越すかどうかはわかりませんが、いずれみんな自動車を持ち、マンションを建て、何もかも一〇年か二〇年早く実現したはずです。
 
日本陸軍の戦争相手は誰か
 ところが、そんな昭和十四年ごろから何をしたかと言うと、日本の国会は「戦争」と言われると軍事予算を無条件で承認するようになってしまいました。それで陸軍は味をしめ、戦争さえしていれば幾らでも予算が取れる、特に機密費が取れると考え、無限大とも言える陸軍機密費を持ちました。これで右翼を使って日本を占領したわけです。
 山本七平氏が書いたことですが、日本陸軍は何を相手に戦争していたか。日本国会を相手に戦争していた。国会を占領したとき、日本陸軍は目的を失った。機密費をたっぷりもらったら、もう日本陸軍はやる気がなかった。ただし、これを続けるためには中国との戦争を続けるのが一番いい。中国に負ける心配はないから、勝てる戦争ならいつまでも続けたい。このアイデアをもっと上手に吹き込んだところ、「そうだ」と言ったのが近衛文麿です。近衛首相をかついでダラダラと戦争を続けたわけで、山本七平氏の言うとおりだと私も思っています。もっとも近衛には近衛の夢があって、それは「日本型社会主義の実現」で、戦争はその手段だったと思います。
 戦争を続けて、国会が予算を承認したら大蔵省は税金をとる。それから国債を発行します。その金を日本興業銀行が中島飛行機とか三菱重工業とかに配りました。このとき日本にメイン銀行という制度ができました。「日本陸軍の命令どおりにものをつくりなさい。経営に失敗したら、メイン銀行である日本興業銀行が全部面倒を見ます」というわけです。
 では、どうやって面倒を見るかといえば、日本興業銀行債券というのを印刷して渡すと、日本銀行が全部引き受けてくれるのです。
 このように、ありとあらゆる物資、エネルギーを軍需へ回してしまいますから、民需物資がなくなってくるのは当然です。思い出を言えば、ありとあらゆる鉄を軍艦のほうへ取られるので一般には鉄がなくなります。何でも瀬戸物、材木で代用ということになり、とうとう昭和二十年に出てきたコインは瀬戸物でした。当時、一銭、五銭、一〇銭といった瀬戸物のお金が出てきました。
 そのぐらいすべてを戦争に集中するのですが、それでも国民は今に勝つと思っていました。けなげなものですが、そういうことの始まりが昭和十四年でした。その後六年も戦争が続いたのはほんとうに頑張り過ぎで、二年ぐらいでやめるべきものでした。
 今の政府も公共事業と福祉と教育でまったく同じことをしています。







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