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第70回 八重山共和国、国づくり物語
(二〇〇二年一月二十四日)
国はどうやってつくるのか
 日本中そうなのですが、「国を超える話」は、みんな格好いいと思っています。しかし、「国をつくる話」は何のことかわからない。
 これは日本人の特徴で、二〇〇〇年も前に自然発生的に国ができて、それ以来満足して暮らしていますから、部分的改良だけでいいわけです。またその部分改良も、もう二〇〇〇年の経験がありますから、日本人にとっては慣れたものです。別に慌てません。
 それに比べると、アメリカは建国以来まだ二二〇年しか経っていません。中国に至っては、一九四九年にできてからまだ五三年です。できたばかりで、いまだ国をつくっている最中ですね。権力を握った共産党は自分でも何をすべきかよくわからないから○○路線とか五原則とかを掲げますが、すぐ変わるところが悲劇で喜劇です。
 それだけの歴史の差がありますから、両者はどうも話が行き違ってしまいます。
 たまたま先日、あるところで講演をしたとき、「日本はアフガニスタンに二年間で最大五億ドルのお金を出すと言っていますが、皆さん、どう思いますか?」と聞いたら、「はい、賛成です」と言った人がいます。その理由を尋ねると、「気の毒なに上げるからです」という返事です。「しかし、もらいに来ている人は、山賊の親分みたいなだよ」と言うと、「はい、訂正いたします。気の毒なです」と言いました。
 しかし、まだ「国」はできていないわけです。「国づくりの援助」だということになっていますが、もらいに来ている人は、別にまだ大統領とも何とも決まっていません。
 常識で考えると、あの人は「もらった金は自分のものだ」と、必ず武器・弾薬を買い、軍事力をもとにして国をつくるでしょう。
 国づくりの始まりは軍事力です。それを日本人は知っていなければいけません。いま、まさに我々の税金が外に出ていこうとしているわけですから。
 国とは何で、国づくりはどうやってやるのか。「日本は二〇〇〇年前にできて、ずっと続いているから建国の勉強なんか不必要だ」と日本人は思っていますから、沖縄の八重山で独立宣言して国をつくったことがあるという話をいたします。そのときは大統領選挙もあって宮良長詳という人が選挙で選ばれました。国づくりを考える上で面白い具体例ですから、そのときの話をしてみましょう。
 
昭和二十年十二月十五日、独立宣言
 『八重山共和国』(筑摩書房刊)という、桝田武宗さんという人が一九九〇年に出した単行本があります。八重山島へ行って、共和国が八日間存在したということを克明に調べ上げた本です(編集部注・八重山島は現在の石垣島。「八重山」と言う場合は八重山諸島全体を指す)。
 八重山共和国ができたのは昭和二十年のことです。八月十五日に戦争が終わるそのちょっと前、六月二十三日に沖縄の日本陸軍が壊滅します。これをもって沖縄戦は終わったとするのですが、しかし、それは軍隊が終わっただけですね。日本国家はまだ続いています。しかし沖縄県庁はもう焼けて、県知事はそのときすでに死んでいますから、地方行政体がないわけです。そこへアメリカ海軍が上陸して「軍政」を敷くと宣言します。軍政は国際法にも決められていますが、上陸早々の宣言は早すぎると問題にする人もいます。支配していないうちに宣言するとは侵略だというわけです。
 それはともかく、沖縄はそれ以降、アメリカ海軍の軍政下に入ったから日本ではなくなるわけです。しかし、だからといってアメリカ軍がすぐ沖縄全部に来るわけではありません。特に八重山諸島の周辺は、石垣島(当時は八重山島)、西表島、宮古島の三つが大きいのですが、アメリカ軍が来ないのです。まだまだ日本とアメリカは戦争継続中で、続いて九州へ上陸作戦をしなければいけない段階ですから、八重山諸島まで手が回りません。
 その後八月十五日に日本は降伏しますが、それでもアメリカ軍人は来ないのです。つまり軍政に伴う保護責任を果たしません。まだ手が回らないのです。そんな空白状態が八月十五日以降始まります。
 そのとき、住民は二万人ぐらいいました。日本陸軍の兵隊も八八〇〇人いましたが、終戦に伴って軍隊は解散。船が来れば、少しずつ本土に戻れるという状況です。
 このとき、八重山島にいた人たちは、どこの国の人でしょうか? なんとも言いようがない立場です。日本の国籍はまだ持っていますが、アメリカ軍の支配下でもあり、かといって実際にはアメリカ軍は来ていないという奇妙な立場です。日本国もアメリカ国も保護してくれません。保護せずに統治したり、領有したりとは勝手極まります。
 さて、八重山島は極度の食糧不足ですから、自治会をつくります。その自治会の仕事は、解散した日本軍の兵隊の暴行、略奪から身を守るということです。もう一つは「芋一個運動」といって、食えない人のために芋を持っていって上げましょうという、まあ、福祉活動ですね。
 村の若い人たちが、こういうことをやり出すのが九月です。
 沖縄県庁の出先となる八重山支庁という建物もあるし、そこで働いていた人もいるわけですが、もう上から予算も来なければ、命令も来ません。沖縄県としての行政は開店休業状態だからです。というのは、沖縄県庁は爆撃で、もう何にも残ってない状態です。機能が完全に停止して、八重山支庁へ配る物資もありません。予算も権限も事実上消滅です。
 それで、自治会をつくろうという話になるわけですが、自治会規約が最終的に決まったのが十二月十三日の準備会です。八月十五日に戦争が終わって、十二月十三日に自治会ができた。
 そして十二月十五日の朝、ドンドーンと金属のどらを、島中鳴らして歩いたそうです。新聞も出ていませんし、ラジオもありませんから、どらを鳴らして「今夜集まれ、八重山郡民大会を開く」と呼びかけました。八重山館という映画館があったらしいのですが、その前の広場に、夜八時に一〇〇〇人が集まりました。
 それからが面白いのですが、だんだん盛り上がって、とうとう夜の十一時には「もう自治会じゃない、自治政府だ。いや、自治政府じゃない。八重山共和国だ。独立宣言してしまえ」「そうだな」という話になります。リンカーン大統領の真似をして、「人民のための人民による人民の八重山共和国政府は今ここに誕生した」と、独立宣言をしました。
 宮良さんはすっかり乗ってしまい「私が大統領です」と宣言します。それが十二月十五日の夜十一時のことです。
 さて、これはなんでしょうか? ただの遊びなのか、真剣なのかというところを考えていただきたいのです。
 しかし、国をつくった最初は、どこの国でも全部これです。
 アメリカだってそうです。どこだって、一番最初はみんなこれです。誰かが高らかに叫んで、みんなから文句が出なければ「国家誕生」です。その後は隣国の承認が得られるかどうかです。
 
独立宣言が国づくりの第一歩
 他にもこういう話を聞いたことがあります。戦争中同盟通信のジャカルタ支局長をしていた野津康雄氏(当時、岡山日日新聞社長)の話ですが、世界中の短波放送を聞いていると「もう日本は負ける」ということがよくわかった。そこで八月十四日にスカルノを呼んで、「明日、日本は負ける。だから間髪を入れず独立宣言をしろ。そうしないと、オランダがまた戻ってきたとき、再びオランダ領になってしまうから」と教えたそうです。
 スカルノ青年は国際関係とはそんなものかと教わって、日本軍の軍政担当者を回って了解と支援を受け、それからかねての同志を集めて独立宣言をします。その日付は当時日本が使っていた皇紀二六〇五年とします。インドネシア紀元元年とまではしませんでした。ともかくこのアドバイスのおかげでインドネシア共和国が誕生したのです。
 国旗は日の丸を真似て、上半分が赤くて、下半分真っ白という二色刷りのデザインです。まさに日本のおかげで独立したからです。
 つまり、国をつくるというのは、ともかく独立宣言することが第一歩だということです。それから、武力を持っていないと話になりません。まず領土を決めて、その範囲内を有効支配するためには当然武力が要ります。
 武力がないと実効支配できないということを、日本人はどうやら忘れています。
 面白い例で言えば、津軽海峡の青函トンネルがそうですね。日本の領海は一二カイリまでですが、函館のほうから一二カイリと青森県から一二カイリ、するとその中間にスキマができてしまうのです。そのスキマは一体なんですか? ということです。青函トンネルは日本国の領土でないところに、勝手にトンネルを掘っていることになります。
 結局、最後の答は実効支配です。他の国が誰も文句をつけてないから、やっぱり日本のものなんだというわけです。







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