戦争は毎回違っている
『ぺるそーな』という浜田麻記子さんが発行している月刊雑誌に、志方俊之さんが戦争について興昧深いことを書いていました。志方さんは防衛大学の理科を出て、卒業してから京都大学・工学部の大学院へ行き、最後は自衛隊で北方方面総監になりました。位で言うと陸将で、昔なら陸軍中将、英語ではジェネラルです。最近はテレビによく出られますので、ご存知だと思います。
この志方さんが書いているのは、「戦争は毎回違う」という話です。それにもかかわらず、軍人はいつも前の戦争のことを反省して、今度はもっとうまくやってやろうと考えます。それで陸軍大学校とか、指揮官養成課程とか、いろいろなコースがありますが、自衛隊の人に会ったとき「今まで二〇年間どこで何をしていたのですか」と聞くと、学校ばかり行っている(笑)。一生、勉強だけしている。実戦がないのですから、そうなります。学校へ行っていい点をとると出世する。
これは「平和なときの軍隊」というテーマで、一〇回ぐらい話ができるのですが、平和なときの軍隊として一番典型的なのは日本の自衛隊です。もう五〇年も実戦がないのですから、それは世界で珍しいのです。
イギリスなどはこの一〇〇年に五〇回ぐらい戦争をしていて、全部海外出兵です。国内で迎え撃って戦ったのは一回だけです。ドイツのメッサー・シュミットが来たのをスピット・ファイヤーが迎え撃った。国内戦争はこれしかない。だからそれに「バトル・オブ・ブリテン」という名前がついています。
あとは全部外に出かけているのですから、イギリスは侵略の元祖で権化です。ほんとうにそう思います。それに比べると、日本の自衛隊は一回も戦ったことがないし、外へ出たことがない。
これは政治、外交が大成功しているためでしょう。ただ、大成功のコストとして、名誉をそこない、金を損しています。だから、名誉と金を損して平和を買った五〇年間がほんとうに良いものかどうかは、そろそろ国民みんなで考えないといけません。
それはともかく、平和なときの軍隊では、個人の生活という視点で見れば学校ばかり行き訓練ばかりしている。その中身は前の戦争の反省で、「今度こそはこうやろう」で、その優等生がまた出世するから、話はどんどん古くなるわけです。
ここまでは予備知識で、志方さんが言っているのは、「しかし戦争は毎回違っている、始まってみれば全然別の戦争になるのだ」ということです。ですから、今度(編集部注・二〇〇一年九月十一日、ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだテロ事件を指す)はテロ、ゲリラ相手の戦争になりましたが、この次はまた違うだろうというのです。
では、それを誰か考えていますか? と言いたいのです。
テロ、ゲリラ相手の戦争を、ブッシュは「新しい戦争」と名前をつけましたが、研究すべきはその先の新・新戦争です。
LICから非対称戦争へ
戦争は毎回違っているというのは、たとえばこんなことです。
第一次世界大戦は塹壕にこもって戦いました。頭を出すと撃たれますから、隠れて撃ち合いをする戦争でした。しかし、第二次大戦になると塹壕はありません。戦車と急降下爆撃機でドイツ軍はいきなりパリまで突進した。機動戦と言うのですが、まるで違う戦争になりました。
2001年9月11日、航空機の突入で炎を噴き出すニューヨークの世界貿易センタービル南棟(左)と炎上する北棟 |
アメリカが第二次大戦に参加してみたら太平洋ではジャングル戦があって、その後は上陸作戦に次ぐ上陸作戦で、水陸両用戦車で砂浜に乗り上げて戦うという、結局そればかりやることになった。
ところが次の朝鮮戦争では、山の高地の寒いところで、向こうから中国人民義勇軍が人海戦術で一万人でも二万人でも押し寄せてくるという戦いでした。全然違うわけです。エピソードを言えば、このときアメリカ軍の持っていた機関銃は凍って発射がとまってしまいます。マイナス一〇度、二〇度に耐えるようにはできていないのです。装備が熱帯地用の機関銃だったと初めて米軍は気がつくのです。政略か戦略か知りませんが、そんな装備のままで北朝鮮まで進攻したマッカーサーは浅慮でした。
その次はベトナム戦争です。またまたジャングルの中で、しかも相手は地の利にたけたゲリラ戦です。
このように戦争は毎回違う、と志方さんが書いています。
それから志方さんが二番目に書いているのは、「それでも今までは対称戦争だったが、これからは非対称戦争ばかりになる」ということです。ここが一歩進んでいる。
冷戦が終わったとき、アメリカの国防省がこんな白書を出しました。原子爆弾を持ってにらみ合うような戦争はもうない。そのような互角の戦争は終わり、これからあるのは紛争の多発である。これを「ロー・インテンシティー・コンフリクト(Low Intensity Conflict)」、低密度紛争の時代になると表現して、したがってアメリカ軍の装備も訓練も変えなければいけないと言いました。
このように先に総論として衝突の根源に関する哲学を出す。哲学を出しておくと、特殊部隊をつくろうとか、特殊武器をつくろうというように、後の話が進めやすくなります。こういうところはやっぱり偉いと言うべきです。論理的、合理的で、その限りにおいては大学とか大学院というのはなかなか役に立つものだと思っています。ただし、卒業生の数はこんなにたくさん要りません。
「LICの時代が来る」。これが次に進むと「非対称戦争」になる。
こちらは正規軍ですが、相手はゲリラで、ゲリラが追い詰められて都市に来るとテロになる。それを非対称戦争と言い、そればかりになると志方さんが書いています。
長く戦う国は相似化する
それを読んで私は、その後へ「長く戦う国は相似化する」と書き加えたいと思ったのです。お互いに長く戦っていると、相手の良いところを真似するようになります。悪いところは直しますから、結局同じような軍隊になってしまうのです。装備も、訓練も、戦術もそうなります。さらにその上の政略、イデオロギーのほうまでだんだん似てしまうのが面白いですね。
例としては十字軍があります。十字軍は一〇九六年から十三世紀後半まで七回の遠征がありましたが、途中からやっていることが両方まったく同じになってしまうのです。
一番簡単な例を言いますと、鐙(あぶみ)です。馬にまたがったとき足をのせる道具ですが、キリスト教のほうはもともとは鐙がなく、アラブはあったのです。鐙があるから踏ん張って立ち上がることができる。ちなみに平家物語を読んでいると馬上で立ち上がって名乗りをあげますから、日本はあったのです。鐙ふんばり立ち上がり、大音声をあげて“やあやあ、遠からん者には音にも聞け。近くば寄って目にも見よ。我こそは・・・”というのが何回も出てきます。先進国ですね。鐙がないと裸馬に乗っているようなものですから、力が入らない。だからイスラムの兵隊に突かれると、すぐコロッと落っこちてしまう。それでキリスト教側は最初は大敗しますが、鐙ぐらいならすぐ真似できますから、やがて一緒になります。
それから、キリスト教のほうの大義は聖地奪還で、これがスローガンです。しかし、本音は「アラブのほうが金持ちだ、あちらへ行って思う存分略奪をしよう」という面もあるのが十字軍ですから、勝てばひどい略奪をする。異教徒は人間ではありません。動物と一緒ですから、何をしてもいい、それを受けて、アラブのほうもだんだん異教徒に対しては無茶苦茶なことをしてもいいというようになっていく。思想・信条までお互い似てくるわけです。
というようなキリスト教とアラブの対立が今のイスラエルとパレスチナに続いていますから、ブッシュ大統領は今回のテロ事件への反撃にあたって、不用意に「これは十字軍だ」などと言うべきではありませんでした。まったく無教養で、大学時代にどんな歴史学を習ってきたんだろうと思いました。特にアメリカで教える歴史は非対称です。「キリスト教の我々に間違いはない。あとはみんな野蛮国」という調子で教えているわけですから。ブッシュはそんな話を聞きかじって信じているのでしょう。しかし十字軍と言えば、アラブの側にとってはひどい山賊や強盗の侵入ですから、あんなことを言ってはいけません。
さて、もう一つ、だんだん似ていく例が軍の編制です。アラブのほうは大軍団が統一的に動きました。ヨーロッパのほうは各地の寄せ集めですから、軍団の編制がありません。だから、こてんぱんに負けてしまいます。それで、やがて真似をして軍団をつくって戦うようになります。
他にもたくさんの例がありますが、十字軍を見るとわかるように、何度も戦っていると両者はだんだん似てきてしまうのです。
関ヶ原合戦もそうです。戦国時代の戦いの話で、一番おもしろくないのは関ヶ原の戦いです。なぜかといえば、それまで一〇〇年間、日本の戦国武将はあっちで戦いこっちで戦いを重ねていますから、武器も、装備も、訓練も、政治工作も全部ルール化されて、やり方がみんな一緒になってしまった。
みんな同じになってしまった軍団を、東をまとめ、西をまとめて関ヶ原でぶつかっている。すると最後はどっちへ転ぶかというだけで、やっていることは両方同じです。美しく表現すればルール化が進んで戦争のエチケットができたのです。非常に文明化された最後の戦いですから、『関ヶ原の決戦』などという小説を血沸き肉躍るように書こうとするのは、私に言わせれば悲惨な努力です。どうしても読んでいてつまらないものになります。合戦物語でなく政治的離合集散の話になります。
それよりも、上杉謙信とか、武田信玄といった昔の戦争のほうが、お互いに相手の手の内がわからないから、新兵器が続々と出てくる。新戦法も続々と出てくる。さらにはいろいろな形の謀略があって、話が盛り上がるのです。
|