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吟詠家・詩舞道家のための日本漢詩史 第8回
文学博士 榊原静山
 
平安朝時代の詩壇【その二】
空海(弘法大師)(七四四〜八三五)小野篁と同じ頃の人。日本仏教に忘れることのできない存在である。空海は奈良朝末期の日本仏教界に不満を感じ、八百四年に、遣唐使の藤原葛野麻呂(かどぬまろ)に従って入唐し、“恵果阿闍梨(けいかあじゃり)”の教えを受け、梵語経典の研究のかたわら唐の詩人とも交わって、その学才をたたえられた。八百六年に帰国して、密教の教理をたて、高野山に道場を開き、いろは四十八文字を完成したり、数おおくの詩も作っている。詩集には“遍照発揮性霊集”(一〇巻)、“高野雑筆”(二巻)、“拾遺雑集”があり、特に“仏法僧を聞く”は今日吟界でよく吟じられ親しまれている。ここにあまり知られていないが、中国留学中に作った詩を挙げる。
 
観昶法和尚小山
釈 空海
看竹花看本国春 竹を見花を見る本国の春
人声鳥哢漢家新 人声鳥哢(ちょうろう)漢家(かんか)新なり
見君庭際小山色 君が庭際(ていさい)小山の色を見て
還識君情不染塵 還た(また)識る(しる)君が情の塵に染まざるを
(語釈)本国・・・日本のこと。漢家・・・漢の土。つまり唐のこと。
(通釈)竹を見ても花を見ても日本と異なっていないが、人や鳥の声を聞くとさすがに中国へ来ていると思う。今君の庭の築山の様子を見ていると、主人である君の、すがすがしく、塵に染まらぬゆかしさがある。
 
 
空海を乗せた遣唐船(上)と空海・弘法大師
 
島田忠臣(八二八〜八九一)田達音という名で知られている。十六歳の時の詩が見事で、評判になり、宮中で論語や詩を講じ、渤海(ぼっかい)国の使節、饗応の役をおおせつかり、詩をもって応対している。詩集に“田氏家集”(三巻)があり、菅原道真も学問をこの島田忠臣から学び、忠臣の娘を妻にしている。沢山ある詩の中で“年々歳々花相似たり、歳々年々人不同”と詠じた劉希夷の詩とは反対の意味の“花前有感〃を挙げておこう。
 
島田忠臣
 
花前有感
島田忠臣
去歳落花今歳発 去歳(きょさい)落花(らっか)今歳(こんさい)ひらく
我為去歳情花人 我は去歳(きょさい)花を惜む(おしむ)人たり
年々花発年々惜 年々花ひらいて年々惜しむ
花是如新人不新 花はこれ新たなる如く、人は新たならず
(通釈)去年の花は散り、また本年は別の花が咲く、私は去年の花を惜む者である。毎年毎年花を惜む、花は毎年あらたまるが人は毎年新しくならない。
 
菅原道真(八四五〜九〇三)道真公の存在は今日の吟界にとっても最も重要であり、人々によく親しまれ、全国津々浦々まで、およそ詩吟の会が開かれて道真公の詩の入っていない会はない、といっても過言でない。そのうえ、後世には天神様として神にまで祀られているほどで、今更述べるまでもないが、彼は十一歳で“月夜観梅”の詩を作って人々を感嘆させたといわれ、成長して博く学問に通じ、特に詩、和歌に傑作がある。一代の碩学として大納言右大臣ともなり、位人臣を極めたが左大臣藤原時平のために、讒言され太宰府に下り、配所の憂目に遭い、門を固く閉めてもっぱら文筆に自分を託して多くの詩歌を作り、特に有名な“九月十日”(去年の今夜清涼に侍す)の詩もこの間の作である。
 こうした不遇の中に延喜三年(九〇三年)に五十九歳で薨じた。詩集としては“菅家文草”(一二巻)、“菅家後草”(一巻)がある。
 道真公の詩であまり吟じられてはいないが、その人となりがよくあらわれている詩に菊の花を詠じた次のような作がある。
 
菊花
菅原道真
不是秋江錬白沙 是れ秋江(しゅうこう)に白沙(はくさ)を錬るならず
黄金化出菊叢花 黄金化出(かしゅつ)す菊叢(きくそう)の花
微臣把得中満 微臣(びしん)把り(とり)得て中(えいちゅう)に満つるも
豈若一経遺在家 豈若(あにし)からんや一経(いっけい)の遺して(のこして)家に在るに
(語釈)菊叢・・・菊が群がって咲いている。 ・・・竹のかご。
(通釈)秋の河で白い沙の布を洗い出したような白菊ではなく、黄金が黄色い菊の花になって集まって咲いている菊の草むらである。黄金といえば皆が一番欲しがっているもので、今この菊の花のように沢山黄金があって、私がこれを取り集め、籠の中に一杯にすることができたとして、これを子孫に残したとて、何の益もない。それよりも、聖人一の書を残して家に伝えた方がよほど良いと思う―。
 詩人として他に大江音人、橘広相、藤原佐世、藤原道長、都良香、巨勢識人、藤原公任、紀長谷雄、三善清行などがいる。十世紀の中頃には宮中の歌合わせにならって、内裏詩合わせなどの風流な面にも発展し、ついで有名な詩人として、大江朝綱を拳げることができる。
 
菅原道真







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