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宇治川の戦
 範頼と義経の軍が上京して来た時、木曾義仲は宇治勢多でこれを向かい討とうとした。この時、宇治川へ向かった義経軍の佐々木高綱と梶原景孝がともに頼朝から拝領した名馬に乗って、川を渡る先陣争いをしたことが、後世の語り草になった。
 
一の谷の戦
 一度九州まで落ちた平氏は勢力を回復し、四国の屋島に本拠を構えて兵を摂津へのばし、一の谷(現在の神戸)に布陣した。源氏側はこの陣営の背後にある鵯越(ひよどりごえ)の断崖を、一気に馬で駆け下り平家をまずここで破っている。この時、熊谷直実(蓮生坊)と平敦盛との月下の一騎打ちが琵琶歌で有名である。松口月城はこの時の様子を、
“一の谷の軍営遂に支えず、平家の末路うたた悲しむに堪えたり、戦雲おさまるところ残月あり、塞上笛は悲し、吹く者は誰ぞ”
と詠じている。
 
屋島の戦
 一の谷で敗れた平氏は屋島へ退き、ここで戦備を整えた。しかしこれも義経は僅かの手勢で討ちとり、平氏を海上へ追い出した。この時那須与市の扇の的の話が昔ばなしとして残っている。さらにはまた、屋島を攻めるのに、逆艫(かじ)をつけるか否かで梶原と義経が争ったことも有名である。
 
那須与市
 
島田馨也は、
“濤声(とうせい)は高し屋島の浦風(うちかぜ)、弓絃(きゅうげん)鳴りを生じて疼す扇の的、碧血(へつけつ)の海上雌雄を決す、敵船を走らすは源の義経”
と詠じている。
 
壇の浦の戦
 屋島でも敗れた平氏は寄るべもなく、海上を漂泊して瀬戸内海を南下し、長門の壇の浦の海上で、水軍を編成して追って来た義経の軍と戦いを交えて敗れ、安徳天皇は入水、一族も全滅した。この海戦で、義経の八雙飛びが語り草になっている。
 平氏全滅のために大きな貢献をした義経も、兄頼朝と不和になり、弁慶と僅かな腹心の家来とともに、山伏に身をやつして各所をさまよい、奥州平泉の藤原秀衡を頼って身を寄せる。ところが秀衡の子泰衡のために衣川の館で殺されてしまう。
 奥州への旅の途中、安宅の関での弁慶の機知と忠節で救われたという“勧進帳”の話は、後世歌舞伎舞踊としても有名である。この義経を大野恵造は、
“悲雨暗風(ひうあんぷう)奥州の旅、修験(しゅげん)を偽装(ぎそう)して雲山(うんざん)を渡る。頼朝の誅求(ちゅうきゅう)水も洩らさず。制札(せいさつ)厳たり安宅の関、十二の主従進退きわまる。陳疎(ちんぞ)解き難く(がたく)警固頑たり(がんたり)、朗々(ろうろう)読み上ぐ勧進帳、弁慶の忠節其の顔に表わる。況んや又打擲(ちょうちゃく)金剛杖(こんごうづえ)、関守これを見て心秘かに憐む、釈放亦(また)これ武士の涙、虎口(ここう)遁れ(のがれ)得たり駅路の烟(けむり)”
あるいは、
“孤影(こえい)惨たり(さんたり)亡命の客(かく)、百里潜行平泉に至る。秀衡(ひでひら)義に依って庇護すといえども、鎌倉の威嚇(いかく)兪(いよいよ)儼然(げんぜん)、此処(ここも)亦(また)安住(あんじゅう)の地に非ず、無常の春風衣川を吹く、一夜(いちや)泰衡(やすひら)孤館(こかん)を囲み、絶代(ぜつだい)の英雄北辺に死す、年歯(ねんし)時に三十一、文治五年桜花の天、義経の末路何ぞ悲壮なる、数奇(すうき)の運命史篇に伝う”
と詠んでいる。
 さて、平安朝は前述のように、いろいろな出来事はなやかな時代で、日本文学も栄えているが、漢文漢詩については、白楽天の“白氏文集”などを貴族教養の道具とし、競って漢文漢詩を学んでいる。
 中国では中唐の中半から宋にかけて、白楽天、韋応物、杜牧、李商隠、温庭などが活躍し、宋に入って欧陽修、王安石、蘇東坡が出ている。
 
義経の八雙飛び







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