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吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第5回
文学博士 榊原静山
 
平安朝の時代展望【その一】(七九四〜一一九二)
――帝都移転で人心一新を図る――
 奈良朝はあまりにも仏教万能でいろいろと弊害がでてきたため、寺院勢力の強い奈良を去って人心を一新しようという目的をもって、桓武天皇が帝都移転を決意。寺院を移転せずに七百九十四年に京都遷都を実現した。以後千百九十二年までの約四百年間を平安朝とよぶ。
 天皇は遷都実現とともに、ゆるぎ始めていた律令制度を再現し、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、遠く東北地方までも鎮圧した。さらに、嵯峨天皇(八〇九に即位)の時代には、日本的な法制として、格と式の制度を設けたり、治安維持のために検非違使を置いた。これらの政治に実際にたずさわっていたのは藤原一族で、特に藤原良房は大政大臣、摂政に、藤原基経は関白の位についている。
 いっぽう新しい仏教として、比叡山延暦寺を開き、天台宗を広めた最澄伝教大師(七六七〜八二二)と、高野山金剛峯寺を開き、真言宗を弘道した空海弘法大師(後で詳しく述べる)の二大傑僧が出ている。二人とも唐へ渡りそれぞれ当時として近代的な文化に接して帰国し、新鮮な仏教を説いたものである。
 
最澄
 
空海
 
 しかしこの二大宗派もやがては貴族社会と結びつき、僧侶自身も貴族化し、仏教が貴族社会をいろどる要素になってしまい、それに代わって来世もまた幸福な極楽往生を願うという浄土往生思想と、仏教の末法論(釈迦の予言として説かれた正像末の三法)に由来する。すなわち釈迦滅後千年を正法の時代といい、仏教が正しく行なわれ世の中も平和である。次の千年を像法といい、この時代は仏教が形式化して、正しく修行する人が少なくなる。滅後三千年から一万年は末法の時代で、正しい仏教が無くなり、人々は悟るどころか、悪がはびこり正義が通用しない時代になる。ところが千五十二年、後冷泉天皇の永承七年から、末法に入るという悲観的な人生観も手伝って、往生思想が広まった。その先駆として、念仏踊りで有名な空也上人、続いて“往生要集”を書いた恵信僧都などが出ており、その影響で仏教美術の面でも人間の臨終の際、阿弥陀如来が多勢の美しい菩薩を連れて迎えに来てくれるという豪華絢爛たる“来迎図”が沢山えがかれたり、寺院の建て方も極楽浄土を思わすような阿弥陀堂が建立され、例えば宇治平等院の鳳凰堂、法界寺の阿弥陀堂など最も有名で、他にも多くの阿弥陀像がつくられている。
 
仮名文字の普及
 またこの時代に、今まで漢字ばかりが使われていたのに加えて、漢字の一部をとって、例えば伊の字は「イ」、宇の字は「ウ」、呂の字は「ロ」という具合に省略して片仮名を作り、さらに漢字を草書体に書いて、以を「い」、仁を「に」、安を「あ」というふうにくずして平仮名を作った。これにより日本語の表現が極めて便利になり、日本文化が画期的な発展をとげた。
 和歌では、在原業平、小野小町、喜撰法師、僧正遍照、大伴黒主、文屋康秀などの“六歌仙”が出て盛んになり、“古今和歌集”“勅撰和歌集”などがつくられ、竹取物語、伊勢物語、土佐日記など仮名を交えた書物もあらわれた。
 十一世紀になると、紫式部の源氏物語、清少納言の枕草子など日本文学史上、永久に残る傑作が出ている。
 
六歌仙
 
 このように日本文化史上優雅な文化の花を咲かせた平安朝は、さきに述べたように、藤原氏を中心とした貴族の社会の人々が政権を握り、巨大な経済力を背景に実際の政務を忘れ、宮廷の形式的な儀式行事にばかり関心を注いで、華美な王朝の歓楽にふけった。邸宅は寝殿造りという宏荘な様式、服装は、男が衣冠束帯、女は十二単衣といったふうに贅沢の限りをつくした時代である。
 
平安朝の春
 
 十一世紀頃から中央が快楽に酔っている間に地方の豪族や名主は、配下の農民を武装させて武士団を作り始め、中でも最も有力になったのが桓武平氏(桓武天皇の子孫)と濟和源氏(濟和天皇の流れの者)である。奥州では安倍一族、清原一族、南海では藤原純友がそれである。これらは次第に頭を持ち上げ、ついには承平、天慶の乱、あるいは前九年、後三年の役を招くことになった。
院政から平清盛全盛へ
 こうした地方武士団ができるのと機を一つにして、比叡山延暦寺や、奈良興福寺の僧侶が強大な武力を蓄えて、初めは仏法正義を擁護することが目的であったが、遂にはその実力と信仰の力を利用して横暴を極めるようになった。
 宮中では世の乱れを憂慮して、後三条天皇も白河天皇も、藤原氏を抑えて朝廷の政権回復に努め、白河天皇は退位後も上皇として実権を握った。その後、鳥羽、後白河上皇の政治が行なわれ、これを院政期と呼ぶ。
 
後白河法皇
 
 この時代、南都、北嶺の僧兵の勢力がますます強くなったため、院朝では地方から武士団を呼び寄せ(いわゆる北面の武士と呼ばれる)朝廷の警護をさせるとともに、僧兵に備えて新興武士団を作っている。
 ところがやがて上皇と天皇の争いの中で、この武士団が二派に分れ、源為義、平忠正らの上皇側、為義の子の義朝と平清盛らの天皇側とが、千百五十六年ついに保元の乱を引きおこしたのである。その結果、勝利を得た天皇側の源義朝と平清盛が急に政界に進出し、勢力を持ったが、三年後の平治の乱で、義朝は殺され、その子の頼朝は伊豆へ流されて源氏は失脚した。そして中央に残った平清盛は、政治力を発揮して“平氏に非ずんば人に非ず”といわれるほどの勢力を持ち、栄華をきわめるようになった。
 平治の乱後、公卿となり、大政大臣に任ぜられた清盛は、平安京の六波羅に大邸宅をかまえ、ここで政務をとった(六波羅政権)。そればかりか清盛は娘の徳子を高倉天皇の中宮にし、生まれた皇子を安徳天皇にして、いっそう権勢をほしいままにした。この専横政治をしばしば息子の重盛がいさめたことも、よく知られる逸話であるが、清盛の栄華を、平家物語がよく語っている。







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