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吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第1回
文学博士 榊原静山
 今われわれが作り、吟じ、そして舞っている日本の漢詩の歴史を、日本という国の歩みを頭に入れておいて、それぞれの時代に出た漢詩人を中心に記述することにする。
 さて、日本人の漢詩として現在残っている最も古い詩は「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ、我が衣手は露にぬれつつ」の和歌で知られている天智天皇(六二六〜六七一)の長子である大友皇子(おおとものみこ)の詩である。勿論これより先に中国文化が日本に入っており、もっと古い漢詩があったかもしれないので、大和朝の時代展望から始めることにする。
 
大和朝(その一)
―近江朝を含む(三〇〇頃〜七一〇)―
 漢字が日本へ初めて入って来たのは、一般の記録としては応神天皇の十五年に百済王の使者として阿直岐(あちき)という学者が来日して、漢文を朝廷で教え始め、翌十六年には有名な王仁(わに)博士が論語と千字文を持って渡来し、漢文を教授したのが日本文字の始めであると言われている。それまで文字らしい文字の無かった日本に文字が出来、次第に日本文化が芽生え初め(そめ)、西暦紀元六世紀に入ると五経博士が来日し、漢字が一般に普及しはじめ、また、易学、歴学、医学に関する学者達が次々に来日し、六世紀の中頃、欽明天皇の十三年(五五二)には仏教と仏教の経典が渡来した。
 この仏教を信仰するか否かについて、蘇我氏と物部氏が争い、その結果蘇我氏が勝って仏教を正式に取り入れ、特に用明天皇の皇子である厩戸の皇子(聖徳太子)は仏教を信奉し、中国の優れた文化を輸入し、女帝推古天皇の摂政として、文化国家日本の基礎を固め、日本最初の憲法十七条をはじめ、位階を徳、仁、礼、信、義、智など十二階を制定し、また、仏教を厚く奉じ、法華経(ほけきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、勝曼経(しょうまんきょう)などの註釈書、三経義疏(さんぎょうぎそ)を著し、難波に四天王寺、大和に法隆寺を建立している。
 
聖徳太子
 
聖徳太子十七条の憲法
以和為貴
和(わ) を以って(もって)
貴し(とうとし)と為し(なし)
無忤為宗
忤う(さこう) こと無き(なき)を
宗(むね)とせよ
人皆有党
人みな党(たむろ)あり
亦少達者
亦(また)さとれる者(もの)少し
是以或不順君父
是(これ)を以って(もって)或は(あるいは)
君と父とに順わず(したがわず)
乍違干隣里
乍(また)隣里(りんり)に違う(たがう)
然上和下睦諧於論事
然れ(しかれ)ども上(かみ)和らぎ(やわらぎ)
下(しも)睦びて(むつびて)
事を論う(あげつらう)に諧えば(かなえば)
則事理自通何事可成
則ち(すなわち)事理(じり)自ら(みずから)通い
何事か成らざらん
 
(語釈)忤・・・物事にさからう。党・・・徒党を組む。隣里・・・となり
(通釈)和ということが最も大切である。物事にさからうことがないように心掛けよ。人は皆徒党を組んでいて、ことわりの解った人は少ないものである。そのため主君や父に従わなかったり、近所の人達と仲違いする者があるが、上下の者が仲良くし、うまく話し合えば、物事の道理は自然に通じ、どんなことでも成就するものである。(以下略)
 また聖徳太子は隋と国交を開き、西暦紀元六百七年には小野妹子を遣隋使として中国に派遣し、それまで大きな文化国家中国に対し従属的な気持ちで交わりを持っていたのを、対等の立場に立って“日出ずるところの天子、書を、日没するところの天子に致す。恙(つつ)がなきや”と、実に日本人として毅然たる態度で使者を送っている。
 このようにして今まで未開発の野蛮国日本に文化の曙光を導き、新日本国家として大きな貢献をした聖徳太子は、六百二十二年、四十九歳の若さで入寂されてしまい、蘇我入鹿が勢いを振るい始めたところを、かの有名な大極殿を血で染めた大クーデターである入鹿暗殺が、中大兄皇子と藤原鎌足によって実行されている。
 
入鹿をうつ中大兄皇子
 
天智天皇
 
 そして孝徳天皇のもとで中大兄皇子が皇太子として大化改新を断行するため、都を大和の飛鳥から難波の長柄豊崎に移し、改新の詔勅を発令して大きな実績を残している。
 さらに、人心を一新するために、六百七十七年には都を難波から近江の大津宮にうつし、その翌年、中大兄皇子が即位して天智天皇となったのである。
 僅かな期間であるが、大津宮に都がおかれた時代を近江朝という。
 
吟剣詩舞だより
坂本岳雄先生吟剣詩舞大賞受賞祝賀会
 平成十四年十二月二十二日財団公認宮崎県吟剣詩舞道総連盟及び、(社)日本詩吟学院岳風会認可宮崎岳星会の共催により、会長坂本岳雄先生の吟剣詩舞大賞功労賞受賞祝賀会が、宮崎市(有)ホテル浜荘において盛大に開催され、本部より矢萩保三財団法人日本吟剣詩舞振興会理事、同事務局長のご来駕をいただいた。矢萩理事より吟剣詩舞大賞の伝達式、続いて来賓祝辞で、このたび財団会長笹川鎮江先生より頂戴した「祝歌」を矢萩理事がご高吟で華を添えて戴き、会場は万来の拍手が続いた。八代輝霊県総連理事長の祝辞の中で宮崎県に初めての受賞者が出て最高の栄誉である旨述べられた。次に宮崎岳星会顧問の黒木勝先生は、坂本会長と会員が一致団結し吟剣詩舞道に精進研鑽されている真摯な姿があってこそ、この受賞に輝いた旨述べられた。続いて坂本岳雄会長より謝辞があり万歳三唱後、会場一杯に全員で輪を組み「星影のワルツ」でフィナーレを飾り意義深く盛会裡に大会の幕を閉じた。
(文責 後藤俊岳)
 
財団会詩を合吟する壇上の主催者、来賓諸氏。中央右寄りが坂本岳雄氏ご夫妻
 
 財団が秋の武道館大会を通じて奉賛している高松宮妃癌研究基金の学術賞・研究助成金贈呈式が二月二十二日、東京丸の内のパレスホテルで行なわれました。財団からは矢萩保三事務局長が出席しました。
 高松宮妃殿下はご静養中で出席されませんでしたが、同基金総裁・三笠宮寛仁殿下ご夫妻ご臨席のもと、(財)癌研究会部長・樋野興夫氏ら二人に学術賞が、名古屋市立大学病院・飯田真介氏ら十人に研究助成金がそれぞれ授与されました。
 
受賞者にお言葉を述べられる三笠宮寛仁殿下
 
乾杯の発声をする小柴昌俊東大名誉教授
 
 続いて開かれたレセプションでは、ノーベル物理学賞受賞者で同基金評議員の小柴昌俊東大名誉教授が乾杯の発声をされ、ヒゲの殿下ご夫妻ともなごやかに歓談されました。







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