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'04剣詩舞の研究(二)
幼少年の部
石川健次郎
 
剣舞「大楠公」
詩舞「和歌・淡海の海」
剣舞
「大楠公(だいなんこう)」の研究
徳川景山(とくがわけいざん) 作
(前奏)
豹(ひょう)は死して(しして)皮(かわ)を留む(とどむ)豈(あに)偶然(ぐうぜん)ならんや
湊川(みなとがわ)の遺跡(いせき)水(みず)天(てん)に連る(つらなる)
人生(じんせい)限り(かぎり)有り(あり)名(な)は尽くる(つくる)無し(なし)
楠氏(なんし)の精忠(せいちゅう)万古(ばんこ)に伝う(つとう)
(後奏)
 
〈詩文解釈〉
 この作者の徳川景山(一八〇〇〜一八六〇)は名を斉昭(なりあき)といい水戸藩九代目の藩主である。天保十二年に藩学弘道館を建て、文武を奨励し、皇室や国体を尊んだ(とうとんだ)ことが、この詩からも窺うことができる。
 大楠公すなわち楠正成についてはよく知られているように南北朝時代の武将で、後醍醐天皇のお召しで赤坂城に挙兵以来、千早城など智略をもって戦ったが、兵庫湊川の合戦で足利軍に敗れ、弟正季(まさすえ)と七生報国を誓って自決した忠臣である。
 詩文の内容は『豹(ひょう)のような動物でも死んだ後には美しい皮を残すのだから、まして忠節をつくした人間が、その名を後の世まで賛えられるのは当然のことである。楠正成が戦死した湊川の跡をたずねれば、川がえんえんと流れて行くように、大楠公の名も永く伝えられるであろう。
 
「大楠公」(前田青邨筆)
 
楠正成湊川合戦図(錦絵)
 
 人の一生には限りがあっても、名前はいつまでも後世に残るもので、楠正成の場合も、忠義の偉業によって、その名は遠い昔からずっと伝えられてきた』というもの。
 
〈構成振付のポイント〉
 詩の大意は、忠節を尽した楠正成の名は永久に讃えられるであろうと云うものだが、豹の皮のことや、川の流れのことなどが引用されているので、詩文の字句を中心に構成したり振付けることは避け、とくに幼少年が演じることを念頭に置いて欲しい。
 次にその一例を述べてみよう。まず前半は湊川の合戦にポイントを置き、前奏から馬に乗った武者が登場、起句は自由な発想で、弓矢などを扇の見立てで合戦の様子をさわやかに演じる。承句からは地上の激戦の様子を、刀法による武者のイメージで見せ、次第に手負いの苦戦の様子を振付ける。転句は正成・正季兄弟による自刃を印象付けた動きで、例えば七生報国を誓い、天皇に拝礼してから倒れる。結句では役変りして作者になり、歴史書を読み、その功しさ(いさおしさ)を賛える動きを抽象的な動作で表現し、作者のままで終り品格を持って退場する。
 
〈衣装・持ち道具〉
 男児は黒紋付きなど、楠正成や作者の徳川景山にふさわしい品格をもった衣装にしたい。持ち道具としては、刀以外の扇は天地金や菊水紋が使えるが、作者の部分では菊水は避けたい。女児の場合は、黒以外では白や紫地の紋付きがよいが、袴などは華美にならないようにして欲しい。
 
詩舞
「和歌・淡海(あふみ) の海(うみ)」の研究
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ) 作
 
(前奏)
淡海(あふみ)の海(うみ) 夕波(ゆうなみ)千鳥(ちどり) 汝(な)が鳴け(なけ)ば
情(こころ)もしのに 古(いにしえ) 思ほゆ(おもほゆ)
淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
情もしのに 古 思ほゆ
(後奏)
 
〈詩文解釈〉
 作者の柿本人麻呂(生没年未詳)は万葉集第二期(飛鳥・藤原時代)を代表する歌人で、和歌を芸術的に大成したことで知られている。
 
柿本人麻呂(肖像)
 
 また宮廷詩人としては持統・文武天皇につかえ、草壁皇子などの挽歌(ばんか)(死者をいたむ詩)を詠んだ。一方人麻呂は相聞歌(恋歌が多い)や旅で詠んだ歌を多く残しているが、いずれも豊麗な感情が溢れている。
 ところで本題の「淡海の海」とは琵琶湖のことで、作者の柿本人麻呂が、近江の琵琶湖畔を訪れたときに詠んだものであろう。その意味は『夕暮れに、琵琶湖上を群がって(むらがって)飛ぶ千鳥達よ、お前達が鳴くと私の心はふさいでしまい、滅び果てた大津の都のことが偲ばれる(しのばれる)のである。』というもの。
 大変にセンチメンタルなイメージが溢れているが、本来この和歌には作者の心に秘められた歴史的な大きな事件が追憶されていることに注目して欲しい。
 それは、大化の改新後に中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)が都を近江(おうみ)国大津宮へ移した。その遷都の後、皇子は五十五歳で即位し天智天皇となったが、その頃から実弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との間には深刻な対立があった。争点の中心は皇位継承者問題で、次期天皇はだれの目にも大海人皇子と目(もく)されていたが、天智天皇はまだ若い実子大友(おおとも)皇子を強力に推した。陰謀を感じた大海人皇子は吉野にのがれ、両者は完全に睨み合いとなったが、天智天皇が病死すると壬申(じんしん)の年(六七二)に大海人皇子は挙兵し、破竹の勢いで近江軍(大友皇子)を攻めた。激戦の末、逃げ場を失った大友皇子は自刃し、大津宮は灰じん(かいじん)に帰した。この間約一ヶ月の内乱が壬申(じんしん)の乱である。翌年大海人皇子は即位して天武天皇となり飛鳥に都を築いた。なお皇后は野讃良(うののささら)皇女(天智天皇第二皇女)で次期の持統女帝である。
 
淡海の海(琵琶湖)の夕景
 
 こうした皇位継承に関連して、宮廷官人や地方豪族までを争いにまき込んだ壬申の乱は多くの犠牲者をだしたが、戦に勝った大海人皇子は、近江側の重臣の多くを死刑や流罪に処した。
 
〈構成振付のポイント〉
 この壬申の乱の悲劇を目の当りにした作者の想いは、大変に深刻なものがあったであろう。
 前項で述べた和歌の解釈では、詩に託した表現としてその無惨さなどは、それ程強調されてはいないし、また幼少年向きの詩舞として構成振付けするには手心を加えて、詩の美しさや物の哀れを描きたい。
 そこで振付上でも重要なポイントとして、民間伝説で云う「千鳥は人の魂が乗り移る」とされるから、この和歌に詠われている千鳥を、この辺りで戦死した人達の仮の姿と考えて、その鳴き声を聞いた作者の心が萎れる(しおれる)のである。そこで次に構成例を考えよう。
 前奏から琵琶湖畔を作者が訪れると風が肌寒く、また湖上は波立って夕陽がキラキラと反射するので眩しい(まぶしい)。とそこに千鳥の群(むれ)が急に飛び立ったのでドキッとし、葬列を見送る様な気分になる。返し歌では壬申の乱の戦振り(いくさぶり)を扇を武具に見立てて描写し、大友皇子の最期を演じ倒れたら、最後は千鳥になって立ち上り、二枚扇を羽に見立てて大空を舞いながら退場する。
 
〈衣装・持ち道具〉
 着付は男女とも白または淡い水色かグレーが似合う、袴も同色がよい。扇は湖面や千鳥の羽の描写を主に使うから銀無地がよい。







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