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三、ヤミ族社会における重要性
 彫刻を施した大小の舟の進水式や新しい母屋、作業場の落成式の前日、ミヴァライ・ア・タオは人を遣わして各村へ親族、姻戚や友人を招待する。招待を受けた祝賀の客は、式典当日午後の歌会に参加する。((6))ミヴァライ・ア・タオとその部落へ赴く客は、銀の甲(ない者は礼帽tavaos(タバオス)を冠っても良い)短い袖無し上着、褌、∞字型金板の胸飾りなどを大きな藤製の籠orisan(オリサン)に入れ、藤籠を紐で縛って額に掛けて背負い、長刀pararoway(ペラロワイ)を携えミヴァライ・ア・タオの部落へと向かう。親友に贈り物をしようとするなら、煮た水芋、乾した飛魚又は豚肉などを別の小さな藤籠pivaonan a manpoi(ピヴァオナン ア マンポイ)に入れ、祝賀の客の家族が背負い行く。祝賀の客が礼主の部落に着くと、まず宿を借りる自分の親友の家で暫し休息する。そして、持ち寄った進物を親友に分け与える。それから盛装に着替え∞字型金板の胸飾りを付け、銀の甲を冠り、長刀を携えて定められた場所に集まっている各部族の祝賀の客のもとへと向かう。一般的には銀の甲、∞字型金板の胸飾りを持たぬ祝賀客は、太陽が西に沈む頃、ミヴァライ・ア・タオの家に着く。これをmay do maseirem a pinatoyon(マイ ド マシャルンム ア ピナトヨン)という。祝賀客は、ミヴァライ・ア・タオの家で夕食を取った後、ミヴァライ・ア・タオが晩に行う歌会(miyanowanohod do maop(ミアノアノウッル ド マウップ))のみに参加し、明け方まで歌う。しかし、銀の甲がなく、∞字型金板の胸飾りを付けている祝賀客は午後のminikanikat(ミニニカット)の歌会に参加する者もいる。
 時刻になると、礼主は祝賀の客が集まる所へ青年を使いに出し、客を迎え礼主の家へ向かう。この時、祝賀の客の最年長者が銀の甲を冠り、長刀を携え、先頭に立ち、他の者は長幼の序列に従い、その後に付いていくのである。一方ミヴァライ・ア・タオの方も盛装に身を固め、銀の甲を冠り、前庭にて祝賀の客を迎えるのである。そして、ミヴァライ・ア・タオが祝賀の客一人一人に互いに鼻を付け合うmiyadkan(ミヤルカン)という礼式を行う。((5))礼式が終了すると、祝賀の客とミヴァライ・ア・タオは全員座り、祝賀の客の最年長者よりミヴァライ・ア・タオとの間で互いに歌の掛け合いが始まるのである。時には銀の甲を冠っていない年長者がいることもあるが、その場合は「忝けなくも(かたじけなくも)年長となる。然れども銀の甲を所持しおらず。正に慙愧(ざんき)の至りなり。我より若き銀の甲を冠りおる者先に歌われたし。」と述べる。若い者は「何卒お構い召されるな。銀の甲を冠らずといえども、礼譲は厚くすべし。お先に歌われたし。」と答える。このような状況下で、ある時は礼譲された銀の甲を冠っていない年長者が先に歌うこととなったり、あるいは銀の甲を冠る若い者から歌うこともある。しかしながら、中には謙虚さを欠く若者もいて、銀の甲を冠っていない年長者を見ると、断りもなく勝手に歌い出したりする。祝賀の客が歌い終わると、銀の甲を取り、地面に置くのである。
 この他、夜を徹して行われた歌会は、前庭に敷かれている石が見える夜が明ける時(mikayatovato(ミカヴァトヴァト)に終了。ミヴァライ・ア・タオは先ず招待した他村の客に朝食を振る舞う。それから招待した他村の客及び同村の人々に、茎が付いている礼芋を三つずつ分け与える。礼芋三つの分配が終わると、陳列している礼芋を全て卸して、予め計算した他村の客数及び同村の人に分配する人数に合わせて、均等に水芋を分配して前庭におく。その後他村の祝賀客と同村の人々はめいめいその水芋を取りに行くのである。次に豚肉または山羊肉を細かく切り分け、水芋同様に他村の祝賀客及び同村の人々に分け与える礼肉(tekeh(トゥクワー))とする。一方つぶした肉の一部は直ちに茄で上げ、五片の肉が、同じく茄で上げた水芋と共に、銀の甲を冠り或いは∞字型金板の胸飾りをつけて、昨日の午後のminikanikat歌会に出席した他村の祝賀客に、昼食のお菜として振る舞われる。昼食の分配が終わると、礼肉tekehを祝賀客と同村の人々に分け与える。
 しかし、午後のminikanikatの歌会に参加しなかった者には昼食を全く振る舞われないのである。以上のことから、部族の礼式に参加する際には、銀の甲と∞文字型金板の胸飾りが儀式上極めて重要な位置を占めていることが見て取れるのである。
 
(5)
イラタイ村の大きい銀の甲を冠ったsiyapen awomaが舟の進水儀式に招かれ、礼主ミヴァライ・ア・タオのイモロッド村のsiyapen jyavokahawと鼻をすりあわせる挨拶を行っている
 
四、銀の甲と∞字型金板の胸飾りの物語
 筆者のインフォーマントが所有する銀の甲と∞字型金板の胸飾りについて、以下にいくつかの物語を紹介する。
(一)siyapen jyazikna(シャプン ジャリクナ)の物語
 イモロッド村のsira do avak(シラ ド アヴァック)リネージのsiyapen jyazikna(シャプン ジャリクナ)には三人の兄弟があった。すなわちsiyaman jilming, siyaman makezas, siyaman mapengay(シャマン ジルミン シャマン マクラス シャマン マプガイ)である。彼らの父親siyaman ngaveveh(シャマン ガブブウー)が死んだ後、銀の甲は解体され、三人の兄弟で二枚ずつの銀板にして分け合った。現在siyapen jyazikna(シャプン ジャリクナ)が三板の銀板を所持している。((7))他村の式典に招待され、客となる時に、彼はこの三板の銀板を胸に掛け儀式に参加する。こうすることによって、銀の甲を冠った客と同じ賓客になれるのである。彼が掛けている胸飾りは下方の二層の部分が父親から継承した物であり、一番上の一層は彼の伯父siminaman menehed(シミナマン ムヌウッル)が世を去った時に、父方の従兄弟siyaman yabo no zipos(シヤマン ヤポ ノ リポス)とsi soakay(シ ソアカイ)が幼少のため、siyapen jyaziknaが手伝いに行った際に贈られた物である。ヤミ族の習俗に倣い、葬儀を行う家は埋葬の手伝いに来た者に必ず謝礼の品物を贈らねばならない。これらの品物には青いガラス珠(mazaponay(マラポナイ))や銀の甲を解体して取った銀板(libdan na volangat(リブダン ナ ヴォラガット))、または∞字型金板の胸飾りを指の爪大に切り取った銀板alikey a gizit da ovay(アリクイ ア ジリット ダ オヴァイ)が含まれている。
 これより後、siyapen jyaziknaは再び他の銀板を手に入れることがなく、他人に銀の甲を打ってもらうこともできなかったので、この三板をずっと保存してきたのである。
 
(6)
大きな銀の甲を持って、イモロッド村の舟の進水儀式に参加したイラタイ村のsiyapen yongosen
 
(7)
銀の甲用の銀板三枚を大事に保管しているイモロッド村のsiyapen jyazikna
 
(二)siyaman poyopoyan(シャマン ポヨポヤン)兄弟の物語
 イモロッド村のsira do ranom(シラ ド ラヌン)リネージのsiminaman panigen(シミナマン パニグン)には九層の銀板を連ねて作った銀の甲がある。彼には三人の子供があり、長子はsiyaman poyopoyan(シャマン ポヨポヤン)、第二子はsiminapen maniwan(シミナブン マニワン)、第三子がsiyaman jyavokahaw(シャマン ジャブカオ)である。siminaman panigenが世を去った時、この銀の甲は解体され、三人の息子達に、一人三板ずつ送られた。三板の銀板を得たこの兄弟にはそれぞれ違った物語がある。
 siyaman poyopoyanと同村のsiyapen misako(シャプン ミサコ)の兄siminaman rawain(シミナマン ラワイン)婿養子に入った後離婚した前の岳父siminaman mangato(シミナマン マガト)siyapen ngavat(シヤプン ガヴァト)((2)(3)(4))の異母兄simina mora(シミナ モラ)の埋葬を手伝った時、それぞれ一層の銀板を手に入れた。その外、彼は再婚したイラタイ村の妻の父siminaman kaosomozan(シミナマン カソムラン)の埋葬を手伝った時、更に一層の銀板を得た。従って全部で四層の銀板を所有していることになる。その後siyaman poyopoyanはこれらの贈られた四層に加えて、父親より受け継いだ三層を加えて、七層の銀の甲を打った。
 siminapen maniwanはsira do ingato(シラー ド イガトゥ)リネージのsiyaman mangsen(シャマン マゲスン)の家へ婿養子に入った。その妻はsinan jiyaveay(シナン ジャブアイ)である。siyaman mangsenはイモロッド村の銀の甲を打つ鍛冶屋であった。(鹿野忠雄・瀬川孝吉 一九五六 An Illustrated Ethnography of Formosan Aborigines' p.400に紹介されている)。後にsiminapen maniwanは岳父の非常に大きい銀の甲を継承した。最近siminapen maniwanも世を去ったとき、七人の親戚が埋葬を手伝いに来た。
 埋葬者に謝礼を配る習俗に倣って、上記の銀の甲、あるいは∞字型金板の胸飾りは、本来、解体・分配しなければならなかった。しかし、弟siyaman jyavokahawの申し出により、これらをそのままの形で保存するということになり、流通貨幣(台湾元)で謝礼の品物の代替としたのである。
 siyaman jyavokahawはsira do rarahan(シラ ド ララハン)リネージのsiminaman mkazo(シミナマン マカロ)の家へ婿養子に入った。岳父が死去した後、siyaman jyavokahawが岳父の銀の甲を継承した。そして、自分の父親より受け継いだ三板の銀板を加えて、中くらいの銀の甲を作った。
 以上のことから、銀の甲も解体される運命にあることがわかる。第一に、自分の父親が亡くなった後、銀の甲は兄弟達に分け与えられる。女性には継承の権利がない。第二に、他人の埋葬を手伝った時に、銀板が贈られる。通常このような贈答の形では、銀の甲の眼の孔のより下の部分から銀板が分配される。眼孔を含んだ層以上の部位は残される。従って、銀の甲は分配されて少なくなったり、委託して打ってもらって大きくなったりするので、大小不揃いの銀の甲が存在するのである。
(三)siyapen mangavat(シヤプン アガヴァット)の物語
 siyapen mangavatの現在所有する銀の甲と∞字型金板の胸飾りは父親のsiminaman mora(シミナマン モア)より受け継いだ物である。siminaman moraが冠っていたこの銀の甲と∞字型金板の胸飾りはかつて鹿野忠雄により撮影され、その後『東南亜細亜民族學先史學研究(第一巻)の中の「比島の金文化と其の北進」二〇ページに掲載される。siyapen mangavatの祖父siminaman jyagawat(シミナマン ジヤガワット)は五板の∞字型金板の胸飾りを所有し、後に他人と争い、一板は相手側に賠償として与えられた。そして残り四板は五人の子供で継承したのである。長子はsiminaman padengein(シミナマン パルグイン)、第二子はsiminaman jiming(シミナマン ジミイン)、第三子はsiminaman nganaen(シミナマン ガナウン)第四子はsiminaman mora(シミナマン モラ)、第五子はsiminaman kolalaen(シミナマン コララウン)である。四つの∞字型金板の胸飾りを五つに分けなければならず、既に切られて分配されてしまったため、各入が取得せる金板胸飾りは不完全な形となってしまったのである。前述の鹿野忠雄が撮影した図のsiminaman moraが右胸の第二板の形が半円形(既に不完全な∞字型)となっているのは、siminaman jyagwatより継承したことによる。siminaman moraが死去した時、二人の息子simina moraとsiyapen mangavatは彼の財産を継承した。simina moraはsiyapen ngavatの妻の姉を娶り、二人の子供を産んだ。その後この二人は離婚し、暫くして妻と子供は相次いで死亡した。まもなくsimina moraも身籠った。simina moraが身籠ったとき、埋葬の手伝いに来たのはsiyapen poyopoyan(シャプン ポヨポヤン)とsiyapen laonas(シャプン ラオナス)である。従って、この両名がsiyapen mangavat家より一層の銀板を手に入れた。siyapen mangavatの銀の甲は小さくなり、その後ずっとそのままの状態で保存されてきており、それ以後銀の甲の大小に変更は加えられていない。
 現在siyapen mangavatが身に付けている胸飾りは、父親より継承した物(六塊の大小不揃いの銅製∞字型胸飾り及び1/2の金製∞字型胸飾り)の他、自らが台東に赴き打ってきた一塊の∞字型金板胸飾りで、または、アミ族から買ってきた中国大陸の銅製の垂れである。







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