住まいの祖型
主屋の海側、地下住居を見下ろす位置に作られる前庭アオロッドもヤミ族の重要な生活空間である。ここは海と視覚的につながった見晴しのよい空間で、背もたれ石がおかれ、飛魚漁期には、魚を干す架台をたてる場所としても使われる。日中は屋根のついた涼み台の方が快適だが、夜、背もたれ石によりかかって天を仰げば、満天の星空が広がり、海からの涼風が頬をかすめることになるだろう。月明かりが眼下の海に反射し、波にゆらぐ様子をみることができるかもしれない。住まいが地下式であるために可能になった独特の開放的な集落空間である。前庭アオロッドは、日常的な社交の場でもあり、ミヴァライ儀礼では来客と主人とが歌で問答する歌会の舞台にもなる。((6))
(4)トラントウッドに展示されたタロイモ
(5)チナンバダン
(人口が四つの家)の後室ドバアイで行われる儀礼的な歌会(イモロッド村) |
(6)アオロッドでおこなわれる歌会
(7)
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トラントウッドからみた 主屋バアイ(左)と副屋マカラン(中央) |
主屋にはいるためには、この前庭アオロッドの山側に設けられた階段を使って、地下の前庭トラントウッドに降りることになる。((4)(7))扇状地は水はけがよいので竪穴に雨水はたまりにくいが、通常、前庭トラントウッドには排水口を設け、海側に水が抜けるように工夫する。前庭トラントウッドに立つと、家は竪穴住居というより、敷地の周辺に高い石垣を積んだ住まいのようにみえる。副屋もこの位置から見ると、立派な高床建築である。平地式住居と高倉の組み合わせというのは、東南アジア、東アジアでしばしばみかける形式だが、ヤミ族の特異な住まいのかたちも、それを出発点として考えることができそうである。
ヤミ族の伝える口碑伝承では、かつて集落はより内陸の山の中や丘の上に作られていた。当時の農耕の中心は、アワやヤマイモなどの山の畑作でタロイモの水田は一部に限られていたと思われる。山の地形や敷地周辺の樹木によって台風の威力は弱められるから、住まいは地下式にする必要はなかった。やがて海岸に近い平坦地、扇状地の水田が増え、農耕の中心が水田のタロイモや畑のサツマイモにかわると、集落も扇状地につくられるようになったのであろう。台風の直撃を避けるために地下式住居が工夫されるのも、このときである。本来アワの穀倉であったマカランは、主屋を補完する建物として、居室に変化していったのであろう。
このように扇状地の開発が進んだ背景として、蘭嶼が周辺の島々から孤立することになった歴史があることを指摘することができる。それまで交易、抗争、移住など、長い交流の歴史があった南方のバタン諸島がスペインの支配下に入ると、蘭嶼は、千人から二千人規模の孤立した社会となり、ヤミ族としてのアイデンティティを高めていくことになるのである。婚姻で結びついた小集団は、抗争を忌避するシステムを発展させ、平和を指向する文化を生み出した。より生産の安定するタロイモ水田の開発は蘭嶼では主として開放的な扇状地上でおこなわれることになるが、それは、こうした抗争の減少した社会が成立したことで可能になったのではないだろうか。
アジアの古層の住まい
秋田の埋没家屋には、竪穴の他にも、いくつかの注目すべき点がある。柱は、通常の角柱や円柱ではなく、板状につくられている。このような五平(ごひら)の柱は、対馬の倉などにはみられるが、日本の木造建築ではほとんど忘れられた存在である。しかし、東南アジアの伝統的な住まいにはしばしばみかけるもので、ヤミ族の住居にも使われている。三角形の断面の棟木も今では珍しいものだが、古墳時代の埴輪家などにみられ、日本の古層の建築技術の一つであった。これもヤミ族の住まいに使われている。((3))
こうした一致は、偶然のものではなく、アジアの古い建築技術の伝統に由来すると考えるべきであろう。住まいは、時には劇的な、不連続の変化をすることもあるが、このように、おそらくは数千年に及ぶであろう伝統が根強くかたちに残ることも少なくない。地下式住居によって、海とつながる独特の景観の集落を創造したヤミ族であるが、その住まいには、こうした長い伝統のかたちが伝えられているのである。
・・・〈学習院女子大学教授〉
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