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おもろみひやしと太鼓・・・高梨一美
■オモロとひやし[拍子]■
 オモロは、琉球王国が海外貿易によって繁栄を極めた古琉球の時代、おもに一六世紀に、首里の宮廷を中心に祭祀や儀礼の場でうたわれた祭式歌謡である。『おもろさうし』全二二巻に一五五四首が集められている(1))
 
(1)
沖縄本島の国頭村比地では、女性祭司による神送迎儀礼、ウンジャミが行われる。村の神女の神遊びである
[渡辺良正撮影]
 
(2)
太鼓を打ちクェーナをうたう祭司たち。国頭村比地のウンジャミ
[1983年筆者撮影]
 
 古琉球の時代の末に琉球を訪れた僧袋中は、聖域に守護の神になって出現した女性祭司たちが手にミゲーン(薄)をもち、オモロをうたって神遊びをしたこと、また王宮の庭で三〇本余りの大小の傘を立て、鼓を打ってオモロをうたったことを記録している(『琉球神道記』巻五、袋中は一六〇三〜一六〇六年琉球に滞在)。
 オモロは実際にどのようにうたい舞われたのだろうか。楽を奏で、それに合わせてうたい舞うもの、すなわち芸能としてのオモロを「ひやし」という語を鍵にして検討してみたい。最古の辞書『混効験集』によれば「ひやし」は拍子のことで(2))、オモロ奏楽にとって特別の意義を持っていた。用例は多くないが、史料中に「おもろみひやし」もしくは「みひやし」とあるのが、オモロ奏楽を儀礼として捉えた場合の名称だったかと思われる。語構成は”オモロ+御+ひやし(拍子)”である。
 昔日ニハ、聖上、撞御格子戸ノ玉座ニ出御ノ時、間間、オモロミヒヤシトテ仕タル由。
 (『琉球国由来記』巻一 8、朝拝御規式〈一七一三年成立〉)
 朝拝は毎年正月朔日・一五日に国王が北京を遙拝した後、玉座に就いて官人の拝礼を受ける代表的な王権儀礼であった。近世には中国的な色彩が強かったが昔は国王が玉座に出御すると間々「おもろみひやし」を行ったという。これだけでは内容が解らないが、同時期の文献に、「みひやし」という規式(儀式)が実際に地方で行われていたという記録がある。
 毎年、麦の二祭、稲の二祭、並柴指の時、のろくもい、あふりやへ御殿へ出、按司出合ハれ、火神の前へ段々祭礼有之。みひやしと云規式有之也。
 但、稲の大祭に、此御殿ニハ鼓撃始、のろハ方々祭所へ返る也。
(『女官御双紙』下巻、今帰仁あふりやゑの条〈一七〇六年頃成立〉)
 北部の拠点今帰仁城を治めていた向姓具志川家は王家の一族で、オモロと深い関わりがあった。家伝によれば、初代が今帰仁按司として現地に派遣された時、尚真王から『おもろさうし』を賜った。城の祭祀を司る「今帰仁あふりやゑ」を一族の女性から出したが、古くは大きな祭祀には首里からオモロ勢頭(オモロ歌唱を職とする官人)が派遣され、現地の歌唱者とともに儀礼に当たったという(3))。一八世紀初頭『女官御双紙』の当時にはそうした大規模な儀礼は廃れていたが、麦や稲の収穫祭など重要な祭祀の時、周辺の村のノロたちがあふりやゑ御殿に集まって「みひやし」という儀式を行ったという。具体的には鼓を打ってオモロを謡ったと推測される。
 「おもろみひやし」または「みひやし」という儀式名は、オモロと「ひやし」の不可分な関係を示唆しているだろう。







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