インドの音の原理には哲学的な階層性があって、それによれば、太鼓はシャブダとしての高位に位置付けられる。シャブダとは天空・虚空アーカーシャの特性であり、それは聴覚とかかわる。虚空アーカーシャは原初の空洞であって、そこからは二種の音が導き出される。その第一はアナーハタ・ナーダすなわち「打たれざる音」で、これはヨーガ行者にしか感知されない。第二のアハタ・ナーダは普通の人々によっても聴覚を通じて感知され、ここからは二つの「ヴァルナ」範疇に分かれる流れが発生する。一つは言語、もう一つは音楽の発生に通ずるものである。音楽のヴァルナは一定の上昇音・下降音からなる確たる音の流れ(ラーガ)によって具体化し、言語のヴァルナは本質的な母音と子音のなす音素から、発話上の音節が発生する。最後の段階では、スワラすなわち「音」として確立したものは、音楽にあっては音符・音階となり、言語の場合は母音と子音、その結合たる音節のさらなる組み合わせによって、十全に意味と象徴性をもった発話行為となるのである。
南インド、ケーララ州のティミラ
北東インド、マニプル州のプン
(18)チョウに用いられる大形ドールの一種
■打たれざる音■
要するにインドの太鼓とその音に関する原初的音響は、まずは何らかのかたちでの空隙・穿孔が必要であるということ、次いでその空隙を覆う叩打面としての膜面、最後にこの膜面を振動させるための打撃―以上の三つがその構成要素でなければならない。しかしこれらの三要素は、「シャブダ理論」からすれば、実はほとんど意味をなさない。すなわちこの宇宙界の音は人の作り出したものではないため、空隙もそれを覆う膜面も、それを打つことすらも必要がない。原初の音は当初から永遠に、「気」(アーカーシャ、エーテル)の形でこの世のはじめ以来人類の誕生よりも早く存在していた。またアナーハタ・ナーダが「打たれざる音」であるならば、そもそも膜面も、それを打つ行為も必要でなくなる。字宙の大気は、常に空隙の内部でアーカーシャとしてすでに動いているからである。
しかし、それが人の手になるものであるならば、得ようとする音は、空隙・膜面・打撃の三要素が、この順序でもって揃わなければ出現することがない。その過程は、宇宙の音アナーハタ・ナーダの場合のちょうど逆である。この因果、すなわち行為とその結果の逆転は、人生のはかなさを突く「空」観にも通ずるものと捉えられよう。
太鼓には、このような種々の象徴性が多々累積している。この象徴性は人智や経験の埒外であるため、その理解のためにはわれわれは、それを人間のレベルにまで引き降ろしてくる必要がある。いやむしろ、人にはこのような象徴性を、人の地平で活性化することのできる能力と独創力があるはずなのだ。太鼓を活性化するとは、音の創造のドラマを演ずることにほかならないが、ただしそれは、あくまでも人のレベルでのことである。実際、インドの自然観、世界観と深くかかわる音の本質からすれば、誰しもが太鼓を打つことを排除できない。インドの太鼓の形態や音質の多様性は、そこに発しているのである。
協力=オビジット・チャタルジー(Abhijit Chatterjee)
小西正捷(こにしまさとし)立教大学教授
◎写真=(7)佐藤宗太郎撮影、その他はすべて小西正捷撮影
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