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― 子ども家庭支援(12) ―
子ども理解と子育て支援
〜子どものつぶやきに耳を傾けて〜
こどもの城 保育研究開発部 山田 道子
 前回まではこどもの城の保育研究開発部で行なっている「子ども家庭支援プログラム」の主な実践プログラムを紹介してきました。最終回の今回は子どもたちのつぶやきから家庭支援を考えてみたいと思います。こどもの城の保育には一歳児から五歳児までの子どもたちが参加しています。集団に入ることで子どもたちはいろいろな家族や家庭があることを知り、生活スタイルも一様ではないことを肌で感じとり学びます。
 
家族や家庭に関する子どものつぶやき
 「今度、田舎へいくんだ、ママのお父さんとお母さんいる、でも、おばあちゃんは糖尿病でいつも注射するの、A子、見ちゃうんだ、お腹とか、足のももとか、痛いときと痛くない時とあるんだよ、A子、おばあちゃんにガンバっていうんだよ」
 朝の入室と同時に保育者に話し始めた四歳児のA子ちゃん、それを後ろで聞いていた五歳児のBちゃんが言いました。
 「ボクのお母さんオッパイ手術した、ちょっとだけにして下さいと七夕にお願いした、そしたら、お願いかなえてくれたよ」と。
 聞き捨てならないつぶやきもあります。
 「パパはいつもシットウ(出張)と会社なの、おうちでメメと怒るの」と絵を描きながらボソボソとつぶやいていた二歳児のH子ちゃん。両親は離婚の話になっていました。
 「ジージー、お腹切って死んだんだ」と給食を食べながら四歳児のEちゃん。
 「もう、会えないってことだよね」と向かい側の席のDちゃん。
 「死ぬって悲しいことよね」と五歳児のWちゃんが静かにいいました。
 明るい話題もいっぱいあります。
 「うち、今日ホテルヘ行くんだ、中華料理だよ、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、おばちゃん、人数はそのくらい」と三歳児のTちゃん。
 次の日「ホテルではなく中華料理屋さんいった、ふかひれのごはんが入ったやつ食べた」と報告に来ました。一人っ子のTちゃんは両家の祖父母にとってもたった一人の孫。
 「ママ、お茶漬けばかりたべるのよ」と三歳児のF子ちゃん。
 「栄養ないじゃない」と友達のY子ちゃん。
 F子ちゃんの母親は妊娠して悪阻がひどくなっていたのです。
 「お父さんと赤ちゃんとUちゃんとお風呂に入るの、赤ちゃん泣くの、お風呂嫌いだから」
 「M子はパパとママとみんなで入る」など、二歳児のほほえましい会話も聞かれます。父親は何かと子どもの気になる存在のようです。
 「S子のパパ、しょうちしないようってゴキブリを新聞でこうやったよ」といきなり言い出した二歳児のKちゃんに周囲の子どもたちもびっくり。
 三歳児のままごと遊びなどはその子の家庭がそのまま映し出されます。
 「わたしは、きれいなお母さん、いつも元気なお母さんよ」
 「わたしは、ちっちゃいお母さん」
 「C子ちゃんのお母さんやさしいね、いつもやさしい」と言っているRちゃんは「ママは怒ってばかり」とつぶやきました。Rちゃんの母親は赤ちゃんが生まれて家事と育児で疲れはてていました。ままごと遊びは続きます。
 「お父さん、一生懸命そうじするのよ」
 「うちのパパもそうじするわ」と忙しそうに動き出します。
 保育者が「すみません、赤ちゃんはいないんですか」と尋ねました。
 「赤ちゃんはきらいだわ、犬がいいわ」とR子ちゃん。
 また、泣いている小さい子をみて「あの子うるさいわねー」とぶつぶつ。
 
生活スタイルが多様になっていることを思わせる子どものつぶやき
 再び三歳児のままごと遊びから。
 「さあ、みんなでごはんを食べにいきましょう」とファミリーレストランに見立てたコーナーヘ出掛けます。
 「わたし、ごはん買ってくるわ」「そうだ、お水も買ってくるわ」という子も。
 保育者が「おなかが空いたのでごはんを食べさせて下さい」と言うと、
 「はい、今チンしますからちょっと待ってください」
 「あのう、お洗濯はしないのでしょうか」と保育者。
 
 
 「これに、入れておいてください」と洗濯機とおぼしき段ボウル箱を指さしました。
 子どもたちは洗濯物を干すしぐさもたたむこともしなくなりました。
 住宅事情がらみのつぶやきもあります。
 「お部屋、ドンドンするといけないよ、ママ、ものすごく怒るよ、下の人に言われるって」
 「N子のうちはマンションなの、だからお魚焼けないの、煙が出るでしょう」
 「M子っちもそう」と三歳児の二人。
 「オイ、お前いい家に住んでるなー、いいなー」とハムスターのかごが新しくなったのをみての五歳児のCちゃん。両親も狭くなった家を早く何とかしたいと常々言っています。
 「Pちゃんのうち新しいおうちになった、先生たちきていいよ、エレベーターのおうち、四階だよ」とうれしそうにいってくれる子もいます。
 トイレも各家庭では改善が進んでいるようです。
 「座るところ、なんか冷たいね」「お水がシューと出ないの」(ウオッシュレット)
 「センセイのおうちにはあったかい、プーと風がくるやつとかないの」などいろいろ子どもは言います。
 「せんせい、押入れってなあに」
 「お布団とか入れておくところよ」
 「お布団はベットでしょう」と四歳児に言われました。
 「ボク、おうちで一番早起きなんだ、次はお兄ちゃん、いつも牛乳飲んでママが起きるのを待ってるんだ」と三歳児のSちゃん、仕事で夜が遅い両親を気遣っています。
 「ボクのパパ、黒い髪になってよかった、黄色い髪、嫌いだった、臭いしさ」茶髪をやめた父親に安心した四歳児のHちゃんがそう言いながらニコニコ顔で父親とやってきました。この他、まだまだいろいろありますが、とりわけ車社会の中で、子どもが歩くことが少なくなっていることが気になります。五歳になっても集団で並んで歩くことがうまくできない子も珍らしくありません。自宅からこどもの城まで往復が車(電車やバスではなく)と言う家庭も目立ちます。都会とはいえ親子で歩きながら季節を感じることはまだまだ探せばたくさん見つけられるのになあと思ってしまいます。
 親の生活リズムに合わせざるを得ない子どもたちの健康が懸念されます。
 
 保育士資格の法定化を契機として保育士には保護者からの相談を受け入れる等の新たな業務が加わったり、改めて保育の専門性と質が問われたりするようになりました。
 子どもと共に保育の現場にいる保育士にとっては、これまで以上の重い任務と感じることもあるかと思います。しかしながら、子どもと一緒にいることは毎日が発見であり、成長していく過程に立ち会う喜びは大きいものです。しかも、一人一人全部違う子どもたちとの出会いです。保育士の原点は子どもをしっかりと観察してかかわりを持ち、発達の援助をすることにありますが、子どもの発する何気ない一言一言にもさまざまな意味が込められていることがあります。子どもをより深く理解してこそ子育て中の親のよきパートナーになれるのではないでしょうか。(終)
 
 
 
親たちは早期教育をどう考えるか
保育園を考える親の会
 「幼保一元化」に関する報道などで、「教育」が幼稚園の専門領域のように言われることもあって、保育園の「教育」や専門性について、いろんな意見が聞こえてきます。最近の保育園を考える親の会のメーリングリストでは、こんな意見や情報がかわされました。
 
教えて!保育園の早期教育
 子どもはゼロ歳から二歳(三歳の誕生日)までを預かる保育園に預けて働いています。家庭的な雰囲気で食事も手作り、園庭もあり理想的な環境です。
 しかし、都の認証保育所になってから保育内容が変わりました。特に「知育」に力を入れだし、以前の保育内容とはがらっと変わってしまいました。曜日ごとに課題が決まっていて「ことば」「数」「色形」などのプログラムが計画保育として組み込まれており、さらに驚いたのが「英語」でした。もちろん歌や踊りを取り入れて楽しく英語に親しめるような感じですが、わが家では「早期幼児教育」を求めない立場でしてこのまま教育の熱が加熱してしまうのがこわいのですが、園に申立てするにも、どのような感じで伝えたら良いか悩めるところです。
 以前は「わらべ歌」や昔の遊びを取り入れていて、私としては英語をやるよりも、そうした遊びや手遊びからだを使った遊びを多くしてもらいたいのですが、「保育園の幼稚園化」の流れがあるのでしょうか?
 子どもには国際人になってもらいたいとは思いますが、親が英語を使ってないと身に付くのは難しいとかネイティブでない人の発音を身につけるのはよくないといった意見も聞きます。他の園ではこういう「知育」教育はどのような感じでしょうか?教えていただけましたら幸いです。
 
下手なことしてもらっても・・・
 うちの公立保育所では、プログラムに基づいた知育らしきものは皆無です。私も早期幼児教育は求めませんが、来年、小学校にあがるので、文字や数など少しは取り組んでくれたらいいのに、と思っています。
 しかし、もし今の保育所のスタッフのままで英語を導入するとしたら、断固反対します。時間の無駄あるいは弊害になると思うからです。最近は、幼児向けの英語教室も盛んですが、通わせている知人の話では、ほとんど意味がないけれど、自分が英語で挫折したから、お金を払って週に一度通わせているだけで、なんとなく安心するということでした。日本の英語教育のまずさは中学校、高校ですでに指摘されているのに、さらにその害を広げることもないのに、と思います。
 英語はコミュニケーションツールにすぎないので、その言葉を使って伝えたい内容がなければ仕方ないと思います。まず、自分の頭で考え、自分の意見をもち、コミュニケーションの方法を身につけることが、まず大切ではないかと思います。
 綺麗な発音はネイティブでないと、まず教えられないでしょう。それに、発音はいいに越したことはないでしょうが、綺麗な言葉を話すことより、内容のあることを話すほうが将来ずっと役に立つのでは?
 そういう意味では、野放図に見える保育所のような過ごし方のほうが、かえって自主性が育つかも、などと思うこともあります。
 
「特色を出す」という方向性がね〜
 (早期教育導入が)認証保育所になったことと関係あるのかどうかはちょっと知りたいですね。うちも、第三者評価とかのからみがあって「他からの目」を意識するように年々なっているんですが、そのような緊張感がよいほうに向かうとも限らないような危惧を持っています。
 もちろん、早期教育が認証保育所の条件になっていたりすることはないでしょうが、特色を出そうとしたとか、きちんとした内容で保育をしていることをわかりやすくしようとした結果かもしれません。
 うちの子どもが通う園は、知育派ではまったくなく、かといって幼児の文字教育を避ける派でもなく、ふつう(!?)です。年中さんのとき、クレヨンでいろんな線を描くワークをやっていたり、年長ではひらがなのワークもやっていたことがあります。私としては別にそういうことをしてほしかったわけではないのですが・・・。先生によれば、たまたまお手紙ごっことかがはやったクラスで、字の読み方や書き方を聞かれることが多かったので用意したとのことでした。そういえば上の子のときはひらがなワークはなかったと思います。なりゆきなんでしょうかね。
 外部から先生を呼んで「造形教室」「体育」などの枠を設けているところは幼稚園的といわれてますね。
 
以前、絶句した経験が・・・
 私が実際に見に行ったことのある駅型保育園では「二歳児の算数」や「五歳児の作文」「中国語」「英語」などがあり、絶句したことがあります。
 よく「小学校に入ったときに困るので、保育園でも少しくらいは文字や数字も教えてほしい・・・」という声も聞きますが、保育所保育指針を忠実に実行していれば、それは幼稚園学習指導要領を網羅しているので、公立幼稚園なみの幼児教育は行われているはずなんですが。しかも「公立」なら。
 本来は年中、年長児は生活の中で、先生たちの言葉かけの中で「時計」を見たり、かるたやお手紙ごっこなどで「文字」に触れたり。「数」の概念にもふれたりすると思います。
 もう卒園した上の子の場合は、ひらがなのワークはないけど、小学校に入るまでに自分の名前が書けるようにしていたようです。下の子はまだ年中なので、そのレベル(?)には達していません。もちろん!「英語」や「中国語」「算数」はありません。
 上の息子のときにクラスでビートルズが流行り(息子が流行らせた!?)、みんなで英語のCDを聞いたことはあったようです。
 ただ、こうした「保育園の教育力」を、就任してから半年もたつのに知らなかった「保育園担当の」課長がいる自治体もあります。「幼稚園の教育を受けさせたいという保護者の方もいますから幼保一元化を」なんて、言っちゃうんですから。
 
教育を望む親もふえているみたい
 私のところも公立園ですが、(年長クラスでは)年明けにお昼寝がなくなると同時に文字ワークを使った「ひらがな練習」が始まります。名前くらいは書ける、数字くらいは読める程度です。
 娘が一年生になった年に指導要領が改定され、最初は「あら?簡単」と、思ってみていましたが(鉛筆を持ってジグザグを書くとか、数字も十までしかやらない)、二学期になったとたんに漢字やら百までの足し引き算やら、とにかくスピードが速かった。正直言って、すでにこの時点で「落ちこぼれ」を製造しているのかと思いました。いいのか悪いのかは別として、わが家では「聞かれない限り教えない」ことにしています。だから、聞かれれば噛み砕いて説明するけど教えることは全部塾にお任せです。娘の一年生を見ていた母としては、(下の子は)少しでも最初の苦労は和らげてあげたいなあ〜というのが本音です。
 ちなみに保育園では、安全に遊んでくれればそれでよし! です。それでもやっぱり「教育」を望む保護者はとても増えているんでしょうね。
 
知育モノはいっさいだめというのも・・・
 うちは認可の駅型保育園です。無認可の頃から月に二回英会話教室から先生が来ています。大きい子が中心のようですが、時間を少しずらして小さい子も対象にしているようで、ゼロ歳の時からおんぶされたりしながら参加(?)しています。
 私は早期教育にはどちらかといえば反対ですが(漢字や計算が一年や二年早くできたからって、ねえ・・・)、といって一切知育モノはダメ!ということもないので、今まで特に意識したことはありませんでした。逆に既製の玩具やテレビを一切禁止する「自然な育児」とかもやりすぎのように思うし・・・。ちょうど言葉を覚え始める時なので、「こんにちは」と一緒に「ハロー」も覚えるくらい毒にも(薬にも?)ならないでしょう、という感じです。リンゴを指差して、「アポー」とか言うのなんか、ほほえましい「芸」のレベル。「出来ぐあい」を評価されたり、子どものストレスにならない、遊びの範疇でたまにやる程度であれば、まあ適当に・・・という心境です。
 強いていえば、園庭が隣のビルの屋上という環境なので、英語の予定があると晴れた日でも(小さい子のクラスでは)散歩の時間がなくなってしまうのが難点といえば難点です・・・。
 
うちの小学校はのんびりムード
 長女が三月まで通っていた保育所(公立)では、三歳児クラスから月刊誌をとっていました。同じようにシールをはったり、若干の工作がなされたりしている程度でしたが、たまにはみんなで読んだりしていたみたいです。
 うちの長女も一年生になって、何度か授業参観に行きましたが、「え〜、こんなに丁寧に教えてもらえるの?」というくらいゆったりとした授業を受けていました。ひらがなも数字も一文字ずつ勉強していましたし、実際に保育所で字を教えてくれることはありませんでしたが、まったく問題ありませんでした(年長児の後半に「お手紙ごっこ」が流行り、子どもたちが「これはどう書くの?」と先生に聞いて教えてもらっていたことはあったようです)。
 ちなみに隣の学区の小学校は勉強、勉強で一年生でも夜十時くらいまでかかるような量の宿題が出て、夏休みに子どもたちは補習、保護者には「家庭学習講習会」なるものが行われ、運動会もその競技のそのほとんどが練習のいらない「徒競走」「リレー」の類いだったとのこと。
 どちらがいいかは一概には言えませんが、うちの長女に関しては、勉強も比較的きちんと教えてもらえて、季節の行事も学校一丸となって取り組んでいる学校でよかったね、と夫と話をしています。
 
毒にも薬にもならないのなら・・・
 英語の早期教育という点でいえば、今話題のイマージョン方式(英語で国語以外の授業を行う)による授業が群馬県太田市の公立小学校で始まります。カナダでは基本的に同様にフランス語を意図的に習得させています。公用語が複数なのも大変なんですね。
 そのような意味では月に五回程度の小学校の英語教育も同様で、それならば基礎学力の定着に時間を割いたほうが・・・という意見も頷けます。日本人が近い将来、英語圏での仕事、生活を想定して教育に取り組んでいくのか、これは長期的かつ国家的な判断(?)が必要ですね。
 その上でもやはり、母語での学習習得が出来なくては本末転倒なのは言うまでもないです。子どもの教育は非常に商業主義的に利用されていますので、公的な場所ではきちんとした方針や目的をもって欲しいと思います。
 毒にも薬にもならないのなら(?)、早期教育ではなくて、子どもたちが本当に楽しめることや、生活の中で時間や数、文字を身につけさせるような工夫した保育をしてほしいと思います。
 
私は積極的になれないな〜
 小学校入学以前に英語教育などの早期教育を施すことには、積極的になれません。私もまずは母国語で「考える力」を育てることが第一と思っています。国語以外の教科を英語でやったところで、それに対応する日本語は身につくのだろうか、と疑問に思います。
 ただ、週に一回でも小学校で英語に接することで、中学校で英語の授業に抵抗なく入っていけるのであれば、それはそれでOKかな、と思います。私は決して小学校の英語の授業でぺらぺらになるとは思っていませんし、発音が良くなることも期待していません。子どもが英語に興味をもってくれて、また偏見のない(少ない)ときに日本人以外の人と接して、いろんな人がいるんだ、と思ってくれればそれで十分だと思っています。
 うちの息子は、毎朝NHK教育TVの「英語であそぼ」をみて、“Nice to meet you”とか言ってるかと思うと、その後の「にほんごであそぼ」をみて「ややこしやー」とかやってます。そんな様子をみると、子どもは英語も日本語も、どちらも同じように「おもしろいことば」と思っているのかな、と思います。「英語、英語」と構えてしまうのは、大人のほうかもしれません。
 
まとめ(普光院)
 幼児期はすべてのことを遊びを通して学んでいくという子ども観は、幼児教育や発達心理学の専門家の方の間では当然のこととして語られていますし、少し前までは世間でも「子どもがのびのび遊ぶこと」が大切にされてきました。
 ところが、「学級崩壊」騒ぎや、学習指導要領の改定を機にした「学力低下」論争が、親たちの不安に火をつけた観があります。そうなると、商業的な教育サービスはあの手この手でニーズを掘り起こしにかかります。
 多くの親たちは「ふつうでいいのよ」と言いますが、何が「ふつう」なのかがわからなくなっている状況もあります。少子化で子どもが少なくなり、子ども像が抽象的になっていることも災いしています。
 保育園は、比較的「ふつう」の子どもの生活が温存されているところだと思うのですが、その保育園までが不自然な「売り」づくりにまきこまれてほしくないと私は考えています。
 ただ一方では、教育的観点があまりにも薄い保育園があるのも確かです。遊びや生活の中で自然に文字や数にふれられるような環境づくりは保育園でも工夫してほしいというのが、多くの親たちの願いだと思います。
(保育園を考える親の会代表 普光院亜紀)
 
*「保育園を考える親の会」は保育園に子どもを預けて働く親のネットワーク。情報交換、支え合い、学び合いの活動をしている。
 
 
 
現代いろは考「く」
くうねるところ、すむところ
 アメリカでBSE感染牛がみつかり、牛肉の輸入禁止措置がとられ、牛丼チェーン店をはじめとする外食産業で大きな騒ぎとなった。アメリカ産牛肉を材料としているものをメニューからはずすところもあれば、オーストラリア産だから安心ですと訴えたり、メニューが消えてしまう前に食べておこうとする人が増えたり・・・。代替メニューで唐揚げなどの鳥肉メニューを考えていたら、今度はタイや中国で鳥インフルエンザ騒ぎ、タイ産・中国産の鳥肉が輸入禁止になってしまった。
 外食産業にとっては、踏んだり蹴ったりの事態が続いているが、日本の「食」が、いかに外国頼りかということを実感させられた。
 食料自給率の算出方法はいくつかあるそうだが、どの算出方法でも日本の食料自給率は他の先進国に比べて低いという。食料は外国頼みで、外国からの食料が入ってこなくなると、日本は餓死してしまうのである。アメリカ産牛肉、タイ産鳥肉という、限られた地域からの、限られた食品の輸入が止まるだけで社会問題になるくらいだから、押して知るべしである。
 「畜産」「農産」という言葉があるように、農業も家畜を育てるのも「産業」である。工業製品を製造・販売する「産業」と同じなのである。だからこそ、生産性をあげるために、化学肥料や抗生物質を大量に使用したり、最近では遺伝子組み換えの作物が作られたりするのだろう。人間という精密機械に補給するエネルギー ――つまり燃料を作り出すのかのように。BSEやインフルエンザも、このような背景と無縁ではあるまい。
 一方で「食文化」という言葉がある。食べることは、単に人間が体を動かすためのエネルギーを補給することではなく、人間の精神性と結びついた「文化」であるというのである。日本国内でも、世界の各地でも、その土地に根ざした「食文化」があり、季節のうつろいや生活習慣と結びついた料理法、食べ方がある。
 最近「スローフード」という言葉を耳にする。「ファーストフード」の対となる言葉。画一的な味で大量生産・大量消費される、ハンバーガーなどのチェーン店で出される食べ物ではなく、地元の旬の食材を自分で調理して食べようという動きである。いわゆる「顔が見える」ものを食べようという動きである。
 私たち人間は、地球という惑星に生息している。トラやライオンなどの猛獣のように力は強くないが、知恵を働かせることで地球上の生物の最上位に位置している。自然の恵みを受けてつつましく生きるだけではあきたらず、欲のおもむくまま自然(地球)を破壊してまでも、肥大し続けている。このことに対するアンチテーゼとして「スローフード」という動きが起こったのではなかろうか。その考え方の根底には、食をとおして、人間の生き方を見つめ直そうという意図がうかがえる。それは、食が人間の暮らしに密接に結びついていることの証。やはり、食は文化なのである。
 「食育」という言葉も使われている。「食」の「教育」。栄養を摂取するという、どちらかというとエネルギーを補給するという発想から、食べる意味を文化的・社会的見直そうというのである。
 今回、私たちの食べ物がいかに外国に頼っているかが分かった今、日本人の食を考え直すよい機会かもしれない。ちょっと輸入が途絶えるだけで、これだけの騒ぎになるのだから。最近のスーパーマーケットの生鮮品売り場に並べられている食品を見ると、価格のほかに産地名が書かれている。干物などの加工品は、原産地名と加工地の両方が書かれている。世界中から日本に食料が流れ込んできているのが実感できる。
 「くうねるところ、すむところ、パイポパイポの・・・」寿限無ではないが、やっぱり「くう」のが一番大切。「食料安保」などと大げさに言わなくても、自分のところで食べるぶんくらい、自分のところでどうにかしたい。「くう」ことが、文化の根源にあると考えるのは、くいしんぼうのたわ言か。
(えびす)







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