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―レポート―
幼稚園の窓から(42)
片岡 進
「月刊・私立幼稚園」
編集長
教育制度の見直しではまだまだ外国に見習うことがある
カナダとアメリカの教育事情
 十一月末から十二月初めに相次いで外国人講師による幼児教育セミナーが開かれました。ひとつはNPO法人・青少年国際教育促進協会(坪谷郁子理事長)が主催した「カナダにおける最先端の幼児教育」と題するワークショップで、埼玉、名古屋、大阪、東京で開催されました。もうひとつは東京都私立幼稚園連合会・宗教法人協議会(亀井宗淳幹事長=足立区・福寿院幼稚園)と(社)日本仏教保育協会(上村映雄理事長=中野区・ほぜんじ幼稚園)が共催した「アメリカにおける公教育と政教分離」と題する講演会で、東京の私学会館で開催されました。
 カナダの講師はロズリン・ドクトロウ女史(教育学博士)。オンタリオ州の教育制度や幼児教育プログラムを立て直した中心人物です。「子ども達一人ひとりの個性をいかすクラスルームマネージメント」というサブタイトルがあり、学級崩壊や幼保二元行政の問題を抱える日本の教育関係者には示唆の多い内容でした。
 小学校で学級崩壊が起きるのは、幼保二元制度もさることながら、個々の幼稚園・保育園の間で教育内容の差が大きすぎるためだと言われています。十数年前のカナダでも同じ問題が指摘され、幼稚園に明確な統一教育ルールを持ち込むことで、それまでの個性尊重教育を生かしながら解決をはかってきました。
 また、幼稚園の費用をすべて公費負担とし(保護者負担はゼロ)、保育園に預けられる三〜五歳の子は、保育士と一緒に保育園から幼稚園に行き、幼稚園から保育園に帰ってくる形で双方の役割・機能をはっきりさせました。どちらも、しっかりケジメをつける明快な方法です。なし崩しに融合させていく日本流のやり方とは馴染まない部分もありますが、こういう方式があるのを学んでおくことは意味が大きいと言えます。
 アメリカの講師は全米科学教育センター所長のユージニー・スコット女史(教育学博士)。こちらは「アメリカ国民の約半分は、聖書の記述どおり地球と人間は神が創造したものと信じており、そのため生物進化論を学校教育にもちこむのに非常に慎重である」という日本人には信じられない実情が克明に報告されました。しかしこのことはアメリカという国と国民性を理解する上では重要な要素であり、教育のあり方をめぐって日本でもいろいろな部分で対極的な意見がある状況を顧みる契機にもなるものです。
 またアメリカの講演会は逐次通訳ではなく、講師の話に合わせて日本語版の説明映像が動く字幕スーパー方式が採用され、大事なポイントと質疑応答に通訳が介在する時間有効活用の進行が図られました。
 ということで非常に有意義な研修だったのですが、残念なことに両方とも参加者が驚くほど少なかったのです。「今さら外国のことを学ぶこともないだろう」「外国は外国、日本は日本だよ」「何でも外国と比べたがる人間は嫌いだ」という“ひとりよがり”な感覚が幼児教育界にも浸透してきたのかもしれません。
 ほかの人、ほかの国がやっていることを真摯に見つめ、参考になることを積極的に取り入れて自らのシステムを改革し磨きをかけてきた日本民族の良き伝統が薄れてきたと言えます。しかし、このふたつの研修を見ただけでも、少なくとも教育の面ではまだまだ外国のことを勉強すべきことを痛感させられました。きっと世界のどの国を見ても、見習うことはあるのだと思います。日本民族の伝統に目覚め、こうした研修がもっと盛んになることを期待したいものです。
 
 
 
太田 象
青年部のOBたち
 先日、ある人に誘われて、社会福祉法人関係者との懇親会に出席した。
 いらしていた方々は、保育所を経営する社会福祉法人の関係者であったが、名刺を交換しながら、皆、どこかで見かけた顔だなと気になって仕方がなかった。
 話題がはずんで、ふと日本保育協会の話に及んだところで、謎がとけた。そう、皆日本保育協会青年部のOBだったのだ。
 何年か前、筆者は、日本保育協会青年部の全国大会のシンポジウムでパネリストを務めたことがあり、そのときに現役(青年部としての)で活躍されていた方々であった。
 あれから何年経ったことだろう。そのころは、まだ、法律改正の前、措置制度、措置費の時代であったと思う。大会の前の晩、夜通し議論をしている彼らの中に分け入って、話を聞いたことを記憶している。
 契約制度への移行はもちろん、当時まだ実施されていなかった保育の世界への企業の参入や保育所間の競争は当然という議論であった。バウチャー制を唱える論者もいた。
 当時感じた青年部の印象を率直に言おう。
 民間保育所(社会福祉法人)の業界団体としては、随分と先鋭な考え方だなと反面、彼らには、何か、背負っているものの重みというものが感じられなかった。
 青年部といえば、二世が多い集まり。親(理事長)の代に保育所をおこして、彼ら自身は、事務局長とか、副園長という肩書きが多かったように思う。
 経営責任の重みを背負った上での自由闊達な議論であれば、なお力強いのにと思った。今の青年部はどんな様子なのであろうか。
 
☆ ☆ ☆
 
 来年度予算では、いよいよ公立保育所の運営費が一般財源化されると聞く。高コストでサービス水準が劣るといわれていた公立保育所も、今後は民間委託の進展や幼稚園との関係などとあいまって、様変わりしていくことだろう。
 激動する保育界の中で、創業者の苦労、資産を受け継いだ二世達が、生硬さを払拭し、しかも、あの日の夜のような先鋭な感覚を失わずに新しい保育所づくりに貢献されることを願う。
 
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―トピックス―
 
食育調査会が中間取りまとめ
 「食育調査会」(武部勤会長、宮腰光寛事務局長)は、平成十四年十一月に自民党政務調査会に設置された。平成十五年度における食育の推進にむけた重点施策等について検討を行っており、平成十五年六月に中間取りまとめを決定し、小泉総理と意見交換。さらに官房長官、厚労大臣、農水大臣、食品安全担当大臣等に要請を行った。取りまとめの中で、「食育は人間力を養う柱」であり、国民の心と身体の健康を増進し、豊かな人間性と健康な食生活を目指すものであり、「食育に関わる実践的な活動を国民運動として展開していくべき」としている。
 
 
 
電話のマナー
 
 
嘉悦大学短期大学部助教授 古閑 博美
家庭で教えた電話のマナー
 電話は、現代人にとって必需品です。日常的に使うものであればこそ、使い方にマナーが問われます。今や、携帯電話やPHSも含め、電話のない家を探すほうが困難であり、一家に一台どころか、ひとり一台の時代に突入しようとしています。
 学生に、家に固定電話が入ったさい、母から電話の使い方を注意されたという話をすると、「へえー、けっこう、うるさいこと言われてたんだ」「なんでそんなに気を遣わなきゃいけないの」といった顔をします。子どものころ、私が受けた注意は、つぎのようなことです。
(1)かかってきた電話には、ていねいに応対する。
(2)本当に必要なとき以外、電話はかけない。
(3)長電話はしない。
(4)夜九時過ぎの電話はしない。
 四十代前半の同僚にこの話をしたところ、笑われるかと思いましたら「ぼくもそんなようなことでした。ですから、子どものころからこちらから電話はめったにしませんでしたし、ましてや長電話することはほとんどなく、学生時代、友人からの電話で、世の中にはこんなに長電話する人もいるんだ、と思ったほどです。あいつは話を聞いてくれると思われてかけてきたようですが、今でも、自分から頻繁に電話することはありません」と話してくれました。
 (1)の、ていねいに応対するとは、電話をとったら「はい。○○です(でございます)」と答える、受け手以外にかかってきた電話なら「少々、お待ちください。ただいま、父(母・兄・・・)と代わります」「どちらさまですか。○○の代わりにご用件を承ります」と言って用件をメモする、知らない人からの電話には「私ではわからないので、のちほどお願いします」と言って切る、といったことなどです。
 子どもだけで、夜、留守番しているときは、家族とわかる電話連絡以外には出ないように、というのも厳しく言われたことのひとつです。相手にもよりますが、無用心だからです。
 (4)の、夜九時を過ぎたら電話をしないようにとは、夜分の電話は、病人が出た、病気が悪化した、危篤、死亡など、緊急事態やよくないことを受け手に予感させるからという理由でした。私が子どものころは、一般家庭への夜の電話はよほどの用事でなければかけなかったものです。夜更かしや昼夜逆転の生活をする人が増えた今日では、このようなことを言う人も知る人も減ったようです。
 電話口の応対がていねいだと気持ちがいいものです。朝早い電話には「朝早くから申し訳ございません」、夜遅い場合には「夜分に遅く失礼いたします」などといったことばを添えるとゆかしく響きます。こちらの都合で相手を電話口まで呼ぶのを恐縮して「お呼びたてして申し訳ございません」と言う人もいます。こんなふうに言われると、忙しいときでもつぎのことばを聞こうという気持ちにさせられませんか。
 
電話にまつわるTPO
 携帯や固定電話の使い方、機能は多様化しています。今では、会社などは別として、自宅にかかってきた電話の場合、相手が名乗らないと受け手も返事をせずに切ったり、安全対策から、登録番号以外の電話には出ないといったりしたことも行なわれています。このようなことからも、電話によるコミュニケーションのしかたは変化していると言えます。
 就寝時も携帯電話をはなさない人がいますが、それを一概に責めることはできません。そうすることで、安心して眠れるということもあるからです。
 毎年、ゼミ生が確定すると連絡網を作成していますが、携帯電話を持っていない学生はこの数年皆無です。高校生、いや、小・中学生も携帯電話を使う姿が日常的風景となった日本で、電話のマナー、特に、携帯電話のマナーが模索されています。授業や試験の開始にあたり、「携帯電話の電源を切りなさい」という指示からはじめる教員は少なくありません。
 公共の乗り物などでは「携帯電話をお持ちの方は、マナーモードに切り替え、通話はご遠慮ください」「優先席近くでは電源をお切りください」といったアナウンスを流しています。ざまざまな場面で、身近な生活のである、電話の使い方の啓蒙に努める姿があります。
 
レストランの電話応対から
 ある有名レストランに、昼食の予約をしようと電話をしたときのことです。グルメにも評判のレストランでしたから、わくわくしながら番号を押すと、女性のはつらつとした声が響いてきました。
 「毎度、ありがとうございます。○○でございます。」
 あらっ、感じがいいわ、と出足は上々です。「何月何日、何名でお昼を予約したいのですが」と言うと、「少々、お待ちくださいませ」との返事です。「はい」と答えて受話器を耳にあてていましたが、しばらく待っても、保留中の音楽が聞こえてくるばかりです。同じメロディーの繰り返しを何度聞いたかわかりません。途中で切ってしまおうかと思ったほどです。
 しかし、生来の好奇心から、私は、なぜこんなに待たされるのだろうとその理由を知りたくなり、相手が出るのをじっと待ちました。やっと聞こえてきた声は、最初と同じように明るく、応対は「お待たせしました。ご用件を承ります」とていねいでしたが、相手を長く待たせたという意識のかけらさえも感じられないものでした。
 私は、「予約をするためにお電話したわけですが、ずいぶん待たされました。そちらではどういう状況だったのですか」と聞き返しました。すると「ただいま、お客様がご清算のためレジにいらっしゃいましたので、その応対をしていました」と屈託のない声です。彼女は、私からの電話を受けた途端、お客がレジに来たので、その間、電話を保留にして目の前の客に対応していたというわけです。
 レジに来たお客は、計算を待って自分の財布からお金を取り出し、お釣りなどを受け取ったあと、見送られてよい気分で店を出たことでしょう。あるいは、カードを使って清算していたのかもしれません。その間、電話をかけた側は放置されていたことになります。私は「責任者の方とお話したいので、お呼びいただけますか」と言い、この電話応対について責任者に話しました。予約する気は、とうに萎えていました。
 このような事態に対処するマニュアルが、店側になかったのかもしれません。あるいは、このような場合にどう対処すればよいかわからない気が利かない担当者に出会ったのが不運ということになるのでしょうか。どちらにしても、このレストランは、電話応対のまずさから一人以上のお客を逃したことになります。
 これには、後日談があります。数か月後、電話応対はどう変わっているかと思い、もう一度そのレストランに予約の電話を入れてみました。少人数で記念の会食をしたいので個室を、と依頼すると「どのような記念の会でしょうか。お誕生日ですと、そのようにお支度いたします」と、てきぱきと懇切です。今度は予約を入れ、食事を楽しみました。
 おとなであっても電話応対はなかなか難しいものです。ある会社に電話し「○○部長はいらっしゃいますか」と聞くと、「今、部長はいらっしゃいません」と返ってきたこともあります。電話が格段に普及した社会ですが、電話応対がスマートで魅力的といえる人は案外少ないものです。
 普段から、ことば遣いを磨くことを心掛け、仕事に精通するのが、それを助けるのではないでしょうか。場所や時間を選ばないで電話をする習慣を持つ現代人が増えた今こそ、電話のマナーに知恵をしぼることが求められているようです。
 
 
 
遊びは身を助ける
 「黒を白と言いくるめる」言動があちこちで目立つようになってきた今日このごろ、世界中が思考を停止してしまったかのような気がしてならない。ものが豊かになり、ちょっとやそっとのことでは自分の生活に直接影響しなくなったことも関係しているかもしれない。「あっしには、かかわりのないことでござんす」というわけ。
 「明日は我が身」と、もう少し想像力を働かせ、「あの人は、そう言っているけれど、それは違うんじゃないの」と自分の考えをはっきりと持って、口に出して言わなければ、ほんの一握りの人たちの考えで、不本意な行動をとらざるを得なくなり、気がついたら破滅ということになりかねない。
 「人間は考える葦である」と言ったのは哲学者パスカル。こんな世の中だからこそ、「考える」ことを考えてみたらどうだろうか。人間らしく。というわけで、「下手な考え休むに似たる」。正月休みに「下手な考え」に挑戦してみよう。しっちゃかめっちゃかな三段論法に取り組んでみる。
 芸人の世界に「遊びは芸の肥やし」という言葉があるそうな。この場合の遊びは、主に「飲む、打つ、買う」という、世間的にはかんばしくない遊びを差すのだが、これを一般的な遊びに曲解してしまおう。そして、もう一つのことわざ「芸は身を助ける」と結びつけてみる。その結果がどうなるかと言うと、「遊びは身を助ける」ということになるのである。遊びで得たものが、なにか困ったときに役に立つということ。的を射たことわざのように思えませんか?
 遊びという言葉は、実に幅広い。飲む・打つ・買うも遊びに含まれるし、家族でのお出かけ、ショッピング、趣味のスポーツや音楽、絵画、文芸、そして子どもたちのむじゃきな遊びなどなど、人間の生活のあらゆる場面で年齢や性別を問わずいろいろな遊びがある。仕事以外のものすべてを、遊びと考えていいのかもしれない。
 子どもの「遊び」の重要性は、さまざまなところで、さまざまに語られている。遊びを通して人やものとの出会い、社会性や協調性などを身に付け成長していく―等々である。ところが、これらのことは、学校という特殊な環境で「学ぶ」こととは違って、日常生活のなかで自然に身に付けるため、多くの場合「身に付けた」「成長した」という自覚がない。そのため、軽くみられる傾向にある。いわく「遊んでいないで勉強しなさい」。
 勉強ばかりして育つと、どうなるか。学校での勉強は、成績をつけなければならないため、どうしても評価しなければならない。それも客観性を持たせるため、計数的に。となると、○か×かの明確な判定ができる方法にたよることになる。あいまいな状態では評価できないからだ。
 このような教育を受けた子どもたちが、世の中のことがすべて、○か×かで判断できると考えるようになっても不思議はない。○でも×でもない中間的なものが無くなってしまうのである。だから、答えが一様でない事態に直面すると、困惑する。一つの設問に対して、正答は一つである、という教育を受けてきたのだから、当然と言えば当然のことである。
 ところが、現実はそう簡単に割り切れるものではない。よって立つところが異なれば、考えも異なり、それを否定することは相手の人格すら否定することにもなる。互いに理解しあって、共存する道を探すためにも、「割り切れない」ことを克服しなければならない。それが多様な価値観の中で生きるために必要なことではないだろうか。
 子どもの遊びの多くは、多様さを受け入れる奥深さを持っている。例えば、年少の弟や妹を遊びの仲間に加えざるを得ないときの「ミソッカス」、隣町のルールを「郷に入っては郷に従え」とすなおに受け入れる度量、予期せぬ場面に出会ったときにみんなで相談して新しいルールを作る柔軟性などなど。遊びをとおしてこそ身に付けることができる、人間として生きていくための大切な事柄ではなかろうか。だから、「遊びが身を助ける」ことになるはずである―と思う。
(えびす)







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