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――素敵な話の道しるべ(80)――
私を音楽嫌いにした一言
「あんたダメね」でダメージ
 
 
日本体育大学
名誉教授
川本信幹
(かわもと・のぶよし)広島県竹原市生まれ。中学・高校教諭を経て、日本体育大学教養科教授。定年退職後は日本語学研究所研究主管。国語学・国語教育学専攻。著書に『21世紀を生きぬく日本語力』『言葉遣いの常識』などがある。
 
「あんたダメね」でダメージ
 これも昔々のお話です。
 私が小学校五年生の時、担任の男の先生に代わって、音楽は若い女の先生が担当していました。
 当時の我が家には、犬のマークの付いたビクターの蓄音機がありました。もちろん、手巻のゼンマイ式です。
 レコードも随分あったのですが、コレクションは、父の好んだ広沢虎造などの浪花節、母の趣味の箏曲のレコードばかりでした。
 ここに童謡のレコードでもあれば、私の音楽にかかわる運命も随分変わったのですが、残念ながら一枚もありませんでした。
 小学校五年生で習った歌では「我は海の子」が最も印象に残っています。それもよい印象ではなく、悪い印象なのです。
 学校の授業ですから、当然テストがあります。一学期の終わり頃に、学期中に習った歌を一人一人歌わされるのです。
 なんと、そのとき歌わされたのが、「我は海の子」でした。私は、まじめに歌ったつもりでしたが、歌い終わっての先生の表情には、あわれみの気分が満ちていました。
 先生の口から放たれた批評の言葉には、猛毒が仕込まれていました。
 「あんた、ダメねー」
 この言葉が、私の音楽に関する運命を変えたのです。歌を歌うことが楽しくなくなったのです。それ以後、音楽の時間になると憂鬱な気分になり、どんな歌も大きな声を出して歌うことはありませんでした。
 
癒えぬ「あんたダメね」後遺症
 私の音楽暗黒時代は、敗戦を挟んでその後五年間続きました。紀元節の歌も天長節の歌も、教練(戦争の訓練)の時間に歌わされる軍歌も先生や上級生に叱られない程度に口をぱくぱくするだけでした。
 昭和三十五年、新制高校の二年生の時、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業したばかりの若い女の先生が赴任してきました。
 当時、音楽は選択でしたが、悪童どもは先生の美貌に惹かれてどっと音楽室に押し寄せたのです。恥ずかしながら私もその一人でした。
 この選択音楽の一時間めの授業で、悪童どもは、あっと驚きました。
 「さあ、皆で楽しく歌いましょう」
と言って、先生が弾き始めたのは、なんと当時大流行していた「青い山脈」の前奏でした。
 悪童どもは奮い立ちました。音楽室のガラスがびりびりと共鳴したのを、私は今も記憶しています。
 「あーら、ずいぶん大きな声が出るわねー」
 先生は「いい声が出るわねー」と言ったわけではありません。しかし、悪童たちは、褒められたと勘違いしていい気分になってしまいました。先生にすっかり乗せられてしまったのです。
 一年間で、何曲習ったでしょうか。「お菓子と娘」を始めとする橋本国彦の歌曲(後年知ったのですが、橋本国彦は女先生の恩師だったのです)を、田舎の悪童たちが楽しそうに歌うのです。「お菓子の好きなパリ娘、二人揃えばいそいそと、角の菓子屋ヘボンジュール」なんぞとむくつけき兄いたちが歌ったのですから、愉快でしょう。
 シューベルトのセレナーデ、ドリゴのセレナーデ、ベートーベンの第九交響曲の歓喜の歌などなど、今でもその歌詞が口をついて出てきます。
 自分のことを棚に上げて言うならば悪童たちの歌唱力は誠に拙劣で、一部の者を除いては、聞くに堪えないほどのものでした。しかし、女先生は、決して叱らなかったし、悪童たちが不愉快に思うような批評は絶対に口にしませんでした。
 方法だけの問題ではなく、この先生はきっと善意の人だったのでしょう。性善説を信じていらっしゃったのかも知れません。
 教育を成功させるには、子供を褒めなければいけない。私が、後年教師になったとき、この先生の指導法を自分の方法にしたのは、自然の成り行きでした。
 でも、私の脳裏には、小学校の音楽の先生の「あんたダメねー」という言葉がいまだに消えていません。
 だから、人前で歌を歌うのは苦手です。むろんカラオケなどへは一度も足を運んだことがありません。
 
大学生もおだてれば・・・
 あまり上品な表現ではないので人前では使えませんが、「豚もおだてりゃ木に登る」という慣用句があります。品がないので一般の国語辞典には採録されていません。しかし、我が国で一番大きな国語辞典である日本国語大辞典にはきちんと取り上げられ、「どんな愚か者でも、まわりからちやほやされると、何かを仕出かすものである」と説明してあります。
 豚を愚か者の象徴として扱っていいのかどうか問題のあるところでしょうが、豚でさえおだてれば何でもするわけですから、理性・判断力のある人間ならもっとおだてに乗るのではないでしょうか。
 私は、一九五五年以来四十八年教壇に立ち続けております。
 その間、ずっと生徒・学生の言動を否定的にとらえることのないよう心がけてきました。
 言うまでもなく、小学校の音楽の先生に「あんたダメねー」と言われてすっかり音楽嫌いになったことを教訓にしているわけです。
 私の教室やグランドでのキーワードは「褒める」と「おだてる」でした。いや、「でした」ではなく「です」と言わなければなりません。大学生を教えるようになってからも「褒める・おだてる」の方法を徹底的に使っているからです。
 いくつか具体的な事例を紹介しましょう。
 私は、日本体育大学に勤務していたときは「国語表現法」を担当していました。現在は宇都宮にある帝京大学理工学部で「文章表現法」という講座を担当しています。いずれも学生に文章の書き方を教える科目ですから、毎時間説明文や小論文を書かせては、採点して返すという作業を繰り返してきました。
 作文ですから、評価をしなければなりません。私は、いつも四段階程度の評価ですませています。
 Aが標準的な評価です。これは学期の評価を出すときに7点に置き換えます。
 Bは、半分くらいしか書けなかった場合です。しかし、私に乗せられるとなんとなく三分の二くらいの升目を大抵の学生が埋めてしまいます。これは5点に置き換えます。
 C・Dという評価はありません。その代わり、標準以上の作品には、Aを丸で囲んだ符号を付け「スーパーA」と称するのです。これは9点に置き換えます。
 おもしろいことに、一度この「スーパーA」をとった学生は、気分をよくして二度・三度とよい作品を書くのです。今現在担当している学生の中には十三回作品を書いて、七回「スーパーA」を獲得した者がいます。
 片面が千二百字の原稿用紙を使っていますが、表がいっぱいになって裏を半分以上埋めてしまう学生がしばしばいます。内容が非常にしっかりしていれば、二重丸付のAとし、これを「トリプルA」と称します。スーパーAの常連が狙うのがこれです。これは十点に置き換えます。
 それでも、書けない学生はいます。まだ時間はたっぷりあるのに「もう書けないから提出していいですか」と白旗を挙げる学生がいます。
 そういう学生に、私は「これだけしか書けないのか」とは絶対に言いません。
 すでに書いている部分のなかからヒントを探して、「こういうことが書けるんじゃないか」と助言します。そうしてやれば「それでも書けません」と逃げる学生はまずいません。
 さらにその学生が何行かを書き加えて提出するときには、「なんだ、随分書いたな。手がかりさえあればこんなに書けるじゃあないか」と褒めてやります。そういう学生は二度と泣き言を言わなくなります。
 今回は、褒めること・おだてることについて書きましたが、育児を含めて教育の中では厳しく叱ることも必要です。「あんたダメねー」という言葉は子供に絶望感を与えただけで、叱ったことになっていません。あの時、音楽の先生は川本君になんて言えばよかったのでしょう。







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