――現代いろは考「か」――
介護は子に
日曜日の朝、さして広くもない我が家の玄関に宅急便で二面のお筝と三味線が届けられた。田舎に住む姉が老人ホームに入ることになり、家財道具を整理することになったためである。
話はそれより三か月前にさかのぼる。「わたしね、老人ホームに入ることになったの」と姉から電話をもらった時は「えっ、なんで」と私は心底驚いた。姉と老人ホームがその時までなかなか結びつかなかったからである。年に一、二回しか会うことがない年の離れた姉妹だったが、私は姉はまだまだ元気だとばかり思っていたのである。
電話の姉は明るい声で「ねえ、グランドピアノもいらないかしら」という。姉は元々は音楽教師で、定年を前に教師を辞めてからは病気がちの義兄の看病をしながら静かに暮らしていた。一人娘は遠くに嫁ぎ、しかも相手もひとり息子だったため、子どもの世話にははじめからなれないと夫婦は思っていたようだ。
しかし、この一、二年で姉自身も身体の不調を覚えるようになり、このままでは夫婦とも大変なことになると思い老人ホームに入ることを決心したのだという。電話口での姉はさばさばした口調だったが、家の中をかたづけるのは年のせいもあるのかほんとにくたびれると嘆いていた。
私は休みを利用して姉の家に行ってみた。一年前の母の法事以来会うことのなかった姉は、ハッとするほど顔は青白くやせ細っていた。
「なんだかいくら食べても体重が増えないし、お医者さんでいろいろ検査もしたけれど、体はどこも悪くないとおっしゃるのよ」と姉は言った。「わたし、少し鬱かげんかもしれないわね」とも姉は言って、義兄も入退院を繰り返すようになり、その疲れもでてきているかもしれないと言った。
一人娘は心配して、一緒に住もうといってくれるが婿さんの両親も年老いているし、もともとそのつもりはないのだけれど、と言いながらもなんとなくその顔は淋しそうだった。そして、自分が倒れたらこの家はどうなるのか、と思うと居ても立ってもいられなくなるという。
結局、散々悩んだ挙句に、少し元気な今のうちに家や少しの家作を整理して、老人ホームに入ることに心が決まったのだという。
ひとり娘の子どもから「両親を老人ホームに入れて申し訳ない」と泣かれた時は、さすがに姉夫婦も胸がつまり親子で涙したという。姉夫婦は桜の季節に弟の車で老人ホームに引っ越していった。田舎から帰った私はなぜかしばらくは落ち着かない思いの毎日だった。
ある日のんびりと新聞を広げていたら「介護は子に」急減、「最後は自宅で」五一パーセントという、内閣府のまとめた高齢者の意識調査が目に飛び込んできた。自分の介護を子どもやその配偶者に頼みたい、と考えているお年寄りが大幅に減っているというのである。さもありなんと思いながら、お年寄りが身内に頼みたくてもできない現実、また子どもが親を看たくても、ひとりの子どもでは無理な状況が起きていることを私もしみじみと実感している。
「ところでお母さん、お琴と三味線をいつから始めるの、もう六月なんだけど」とわが家の娘はうるさく私をせめたてている。
(山道)
写真:佐賀県鹿島市・旭ヶ岡保育園
奇禍は奇貨
中高年の皆様、車の走行中、突然、ウインカー(方向指示器)が出なくなったご経験はお持ちですか。
車やバイクの運転歴は、ウン十年。これまでそんな体験は皆無。勿論、そんな心配すらもしたことがない。ウインカーなんて、いわば水や空気のような存在。そんな珍事が、先週末に、これ又珍しいことに日頃の留守がちのお詫びにと家内と親戚の親子の四人組での草津一泊旅行を目論んだ際に、起こった。「宿」は、行きつけのおそば屋さんで知り合った方に、世話をして頂き、ゲッツ。
前日の金曜日には、ラジオやテレビは台風四号の上陸と大雨との予報を大々的に報道。五月の台風上陸も珍しいとの予報士さんの話も、「なんて付いていないな。なんでだろうー」と恨めしく思いつつ、次の日は予定通り出発。
関越道から上信越道を雨や霧の中を進み、松井田も過ぎた頃から、「これでは軽井沢、浅間山麓や白根山辺りは、何も見えないだろう。」と考えている中、カミさんが「善光寺の七年ぶりの御開帳は確か今日まで。善光寺に行けないかしら。」と提案。親戚のものも「一度も善光寺に行ったことがないし、七年後に来れるか分からないので、是非行きたい。」とのこと。長野まで、あと約一〇〇km、時速八○kmでも一時間半たらず。雨足も少なくなったことから、「雨に引かれて善光寺も一興。よっしゃ」と方針変更。
しばし走るうち、「ウインカーの点滅を知らせるランプと音がない」のに、何気なしに気付いた。「あれー」と思いつつ、後続車両がいないのを見計らい、十数回トライ。これまで、追越し車線に入ったり、進路を移動した筈で、脇の下から汗じっとり。冷や冷やしながらも、須坂長野東インターを下り、早速にガソリンスタンドに寄った。暇そうにしていた若い店員が寄って来て、事情を話すと、「ガソリン注入ではない」と分るや、心なしかそっけなく、それでも「ディーラーに行かないと直らない」趣旨と、ディーラーの所在場所を教えて貰った。不慣れな市内で、そのディーラーに行き着くまでに、何回か人に道筋の教えを問うた。教えられた道筋の「左折」に悦び、「右折」に落胆。勿論、ハザードランプを点滅させての恐る恐るの走行。窓から右手を出し、効果を疑いつつ、昔バイクでやっていた「右手」で、左右の意思表示。やっとこさで、ディーラーに到着した。
すぐに店員さんがチェックしてくれたが、何と正常に動くではありませんか。狐につままれた感じがしたが、それでもホッとした。店員さんの「善光寺周辺は駐車場を捜すのは大変だし、車を此処においてタクシーで行かれる方が無難ですよ。何ならタクシーをお呼びしますよ。」のお話しに、直ぐ様ゲッツ。タクシーは直ぐに来て、地元のベテランでないととても行けないような脇道をミズスマシ(そう言えば、長野オリンピックの話題となった迷言)の如く、スイスイ。あっという間に善光寺の本堂の脇に到着。本当に、ラッキー。土地不案内の者の駐車場を探し探しでは、とても行き着けない時間に到着。お陰で、前立本尊と「善の綱」で結ばれた「御柱」(大回向柱)に右手を添え「自分を含めた家族の健康や○○○(秘密)」を祈願し、本堂を参拝。参拝後は、お寺の前のソバ屋で戸隠蕎麦を食べて、善光寺を後にした。
再び、タクシーでディーラーにリターン。ウインカーを再度確かめ、高速道路に乗り、一路、その日の宿のある草津温泉に向かった。晴れていれば、「娘のスキーでのフランチャイズの菅平を通り、鬼押出し、白根を通って、草津温泉とダイナミックに行こうか。」と思ってはいたが、月並みに小諸で高速を下り、十八号線を通り、雨で益々冴えた色をなした新緑の軽井沢の樹々の間を抜け、草津温泉に到着。湯畑の前の老舗の旅館に、予定の十八時前にはチェックイン。
草津温泉以降の行動は紙面の都合が許さないので、詳細には書けないので残念。およそ三十年前にスキーでお邪魔しただけの草津だったが、天候の関係でじっくりと宿の付近を散策できた。お陰で、「湯もみ」のショーや著名な俳優の美術館も見学。草津温泉の「いわれ」も学習できた。草津は、文字通り「草津よいとこ、一度はおいで」でした。
帰路の車中では、一同、台風のことやウインカーのことはすっかり忘れ、「御開帳も見られたし、温泉も良かったし、美味しいものも食べたし、楽しかった。」と盛んに感謝された。
いずれも台風やウインカーの故障が無ければ、経験出来ない話ばかり。置かれている状況が悪くても、考え様次第。「禍(奇禍)転じて福(奇貨)となす」、こんな格言が身に染みて思い知らされた休日でした。
(S・O)13
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