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―素敵な話の道しるべ(78)―
日本語は論理的でないか
「わかりません」はダメよ
 
 
日本体育大学 名誉教授 川本 信幹
(かわもと・のぶよし)広島県竹原市生まれ。中学・高校教諭を経て、日本体育大学教養科教授。定年退職後は日本語学研究所研究主管。国語学・国語教育学専攻。著書に『21世紀を生きぬく日本語力』『言葉遣いの常識』などがある。
 
日本語は論理的でないか
 ちょっと難しい問題から話を始めることになります。
 これは今に始まったことではありませんが、日本語は、外国語(主として西欧系の言語)に比べると論理的でないと言う人があります。
 論理的とはどういうことかという問題もありますが、単純に「筋道だっている、つじつまが合っている」といった程度に考えておきましょう。
 日本語が論理的でないといわれる一つの例を挙げましょう。
 今晩はちょっと栄養を付けようとレストランに入ります。
「お客さま、何になさいますか」
という店員の問いに対して、あなたはなんと答えますか。
 たいていの人は、
「ぼくは、ステーキだ」
といったふうに答えるのではないでしょうか。
 これは厳密に言うと「ぼく」イクオール「ステーキ」ということになりますから、つじつまが合っていません。
「ぼくは、ステーキにします」
と言うべきでしょう。
 わずか一つの例から判断するのは危険ですが、こうしてみると「日本語は論理的でない」というのは間違いで、「日本語の使い方が論理的でない」と言うべきなのでしょう。
 
「わかりません」はダメよ
 そうなんです。日本語は、使い方によって、論理的であったり、論理的でなかったりするのです。
 だから、最近では、日本語が論理的でないのではなく、日本人が論理的にものを考えることができないから、それが表現に表れるのであると考える人が多くなっています。
 私は、中学校・高等学校・大学で四十八年間も国語(大学では「文章表現法」)を教え続けています。
 その中で、いつも心がけてきたことに、子どもたちに論理的な思考力を身に付けさせる。論理的に表現させるの二つがあります。そのごく初歩的な注意の一つを紹介しましょう。
 それは、先生に何か質問されたとき「わからない、わかりません」を安易に使わないということです。
 例えば、先生が、
「この漢字はなんと読みますか」
と聞いたとき、かなりの子どもが、
「わかりません」
と答えます。
 先生のほうも別に聞きとがめるでもなく、次の生徒を指名します。
 私はこういう場合、生徒に次のような注意を与えます。
「漢字の読みを聞いているのだから『わかりません』と答えるのはおかしくないかね」と。
 言われた生徒は、一瞬私の真意を量りかねて、きょとんとしています。
 私は続けます。
「漢字の読みというのは、知識の問題だろう。だから、なんと答えればいいんだ?」
「あっ、そうか。『知りません』とか『読めません』と言えばいいんだ」
と、生徒も目が覚めるのです。
 もう一つ、例を挙げましょう。
 私が聞きます。
「昨日、辞書を引いてくるように言っておいた『論理的』の意味を説明してごらん」
 指名された生徒。
「わかりません」
 この答えも論理的ではありません。
「あれ、変だな。『わかりません』でいいのかな。この場合、なんと答えればいいのかなあ」
と、答えを生徒に預けます。
 生徒から出てきた答えは、次のようです。
「調べてありません」
「辞書を引きませんでした」
「説明できません」
 仲間のこういう答えで、生徒たちも納得です。
 論理的というとひどく難しいことのように考えるけれども、このような単純なところから理解させていけばよいのです。
 
「わかりません」が使えるのは?
 何度も使い古した手ですが、前記のようなやりとりをする機会があったときには、次のような勉強をさせます。
 「ちょっと余計なことを言うが、『わかりません』と答えていいのはどういう場合だろうか、例を挙げてごらん」
 私の求めに応じて、手が挙がる。
 「はい、川上君」
 ≪川上君の挙げたやりとり≫
 「おまえの親父は何考えてるんだ?」
 「わかりません」
 「次、川中さん」
 ≪川中さんの挙げたやりとり≫
 「こらっ、ここにいたずら書きをしたのはだれだ」
 「わかりません」
 「次は川下君」
 ≪川下君の挙げたやりとり≫
 「明日は晴れるかしら」
 「わかりませんねぇ」
 実は、ここに挙げたのは、四十年前のノートに記録してあった、中学三年生の回答例ばかりです。
 中学生でもばかにできません。自分で考えさせれば、このような例を出せるのです。
 念のために国語辞典で「わかる」という言葉の意味を調べてみましょう。
 近年、いろいろ悪口を言われている『広辞苑』という辞典には、次のように書いてあります。
 
(1)きっぱりと離れる。別々になる。
(2)事の筋道がはっきりする。了解される。合点がゆく。理解できる。
(3)明らかになる。判断する。
(4)世情に通じて頑固なことを言わない。
 
 (1)は、文語の「別る」の意味ですから、ここでは関係ありません。
 川上君の挙げた例は、まさしく(2)に当たります。
 川中さんと川下君の挙げた例は、(3)に当たるでしょう。
 (4)は、「あの先生は話がわかる」といった具合に使うものですから、ここには当たりません。
 こうしてみると、生徒たちの答えはしかるべき国語辞典によってその正しさが証明されているのです。
 
「どちらでも」はないでしょ
 論理的でない表現としてよく取り上げられる例をもう一つ挙げましょう。
「お茶にしますか、コーヒーにしますか」と聞かれて、「どちらでも」と答える人が少なくありません。
 この「どちらでも」は、この言葉そのものが曖昧なのではなくて、答える人の考え方が曖昧で、論理性に欠けているのです。
 子どもに向かって、「今晩のご飯はハンバーグにする? カレーライスにする?」と聞いておいて、子どもが「どっちでもいいや」と答えると、むっときて「どっちでもいいってことはないでしょ」と大声を上げるお母さんがいます。
 子どもは親の鏡ですから、子どもを叱るだけではすみません。ここは冷静に「よく考えてから、どちらかに決めなさい」とでも言わなければなりません。
 今回は少しばかりの例しか挙げられませんでしたが、以上のように考えてみても「日本語が論理的であるかないか」ではなくて、「日本語の使い方が論理的であるかないか」「日本語の使い手の考え方が論理的であるかないか」の問題であることがお分かりでしょう。
 一つ一つは小さなことですが、「塵も積もれば山となる」です。小さい頃から論理的に考え、論理的に表現をする訓練を積み重ねていけば、やがて日本語を論理的に使いこなすことができるようになるに違いありません。
 子どもだけではありません。親もいい加減な表現で子どもを誤魔化していてはいけません。
 小さな子どもだからといってもばかにできません。子どもは直感で、大人の論理の曖昧さをずばり突いてくることがあります。
 そういう場合に、きちんと論理的に反応してやることで、次第に子どもたちのものの考え方の中に論理性が育っていくのです。
 
 
 
他責の発想!
 数回にわたって、このコーナーに様々なことをイニシャルEで投稿させていただいたが、今回を一区切りとしたい。今回は制度論はあえて控えて、基本的な事柄について考えていることの苦言。
 我々保育園の経営者は、社会から認められたれっきとした事業家であり、その規模の大小にかかわらず一つの法人組織をも担う経営者である。しかし、戦後からの福祉事業の変遷の中で、我々は経営者なのか運営者なのか管理者なのか・・・立場が確立されていないのではなかろうか。
 先般、小学校のPTA総会での出来事である。校長先生が「これからは、学校経営、また、クラス経営というものをしっかりと考えていかなければならない」と発言した。するとある保護者から、「学校経営ということを校長先生は言われたが、それはどういう意味なのか、むしろ運営というほうが正しいのではないか」との発言である。校長先生は決してコストダウンとか、利益とかいう考え方のもとに「経営」という言葉を使ったのではない。教員も今までのような状態ではなく、様々な部分から評価される時代が来るだろうし、学校自体もそれぞれの学校の目指す方向や具体的な指導計画を立てなければならなくなっており、そういった意味での学校経営をしなければならない、との意味であったように思う。
 「経営」と「運営」の違いは、端的に言えば、常に変革するかしないか・・・「運営」は、極論するならばその時代時代、その時々をこなしていけば目的は達成されるのかもしれない。しかし、「経営」というものは、よく言われる「人」「物」「金」「情報」「時間」といったものを常に考え、これからの事業をどう先取りして時代に合った形で社会に提供できるかということを考えなければならない。保育園も「経営」なのか「運営」なのかという議論がいまだに起こっている。しかし、冒頭申し上げたように、保育園経営者は社会から認められた事業家であり、一つの法人組織を担う・・・正に「経営者」ではないか。
 既にご存知かと思うが、「他責の発想」ということが言われる。(人は転ぶと坂のせいにする。→坂がなければ石のせいにする。→石がなければ靴のせいにする。→人はなかなか転んだことを自分のせいにはしない。)他責の発想の行き着くところに、職員にも同じことが言える。(仕事がキツイ。利用者の不満が多い。ロクな人材がいない。→分かっていながら誰も言わない。こんな設備じゃしょうがない。伸びようという意欲がないなー。→ゴマすりが多すぎるんだ。うちの理念はなんだったのかなー。要するに素質が無いんだ。→要するに言える雰囲気じゃない。誰も本気で考えていない。採用が悪いからいい人材が集まらない。→→→→→みんなトップが悪いんだ、どうにもならん。)この他責の発想を持っている限りにおいては結果として問題は一向に解決していかない。
 制度論は記さないと書いたが・・・運営費の一般財源化等の話・・・この六月号が発行される頃は、どういう状態になっているかわからないが、「本当に大変なんですよ!首の皮一枚の状態なんですよ!」と言い続けても、ほとんどのメンバーが、妙な安心感を持っている。私自身、反対のための反対ばかりをするつもりはないが、それは、今一〇〇かゼロかの話が出てきているので正面切って反対せざるを得ない。今、危機感というものを全然感じていない会員の方々へ、この原稿をご覧になっておられるかどうかも定かではないが・・・いざ物事が起こった時に、経営者である以上、「他責の発想」だけはやめていただきたい。
(夢井 仁・フリーライター) E
 
 
 
誌上研修「人材育成」(18)
「保育と人生」を豊かに生きるヒント集 第88回
「変化に強い自分」になるノウハウ
人材開発コンサルタント
塩川正人
 ダーウィンは「生き残る種は、強い生物や賢い生物でなく、変化に強い種である」と言っています。保育園も今、激変の中にあり「いかに変化するか」が最大のテーマといっても過言でないと思います。
 私のなりわいとするコンサルタントの仕事は「チェンジエージェント」(変化を支援する仕事)です。この「変化の最先端に立つ人」は誰でしょうか?
 私は失業者だと思います。なぜなら失業者は、今までの自分を変えて「新しい自分」に生まれ変わらないと「新しい仕事」につけませんから。
 そして私は今「変化する人」失業者のための「再就職スクール」を運営しています。保育士として皆様の「自分の変化」を考えるヒントが、失業者の意識と行動の中から沢山学べると思います。例えば次のような点です。
(1)変化は「自己分析」から始まる。自己分析とは、自分の強み(長所)と弱み(短所)。自分のスキル(知識・技能・経験・資格)を明確にする。
(2)変化に先立って、自分の人生理念(信念)を明確にする。
(3)自分の価値観(生きる支えとなっている考え方)を明確にする。
(4)自分のキャリア(仕事の経歴)と実績を明確にする。
(5)「新しい自分」をアピールするための「セールスポイント」を明確にする。
(6)これから取り組みたいこと(キャリアアップ・スキルアップ計画)を、具体的に、明確にする。
(7)新しく変化した自分を「面接」の場で明確にし、面接官に認められて採用になる。
 などなど失業者が再就職のために取り組むことは山のようにあります。
 私の「再就職スクール」の理念は「人は二度生まれる」です。今までの自分の殻を破り、新しい自分に生まれ変わる絶好のチャンスが再就職の時と考えるからです。
 今「保育職」という(天職)に恵まれている皆さんですが、保育環境はますます厳しくなっています。一度自分を失業状態と同じ「白紙」にしてみませんか。そして再就職する気持になって「生まれ変わった自分」になってみませんか。
 「変化に強い自分」これこそ困難な時代を生きるノウハウです。
 先に紹介した(1)から(7)をご自分にあてはめ「生まれ変わった自分」を明確にすることを提案します。







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