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6. タンザニア
6-1 概要
6-1-1 一般事情
(1)面積:94.5万km2
(2)人口:3,520万人
(3)首都:ダルエスサラーム
(4)言語:スワヒリ語(国語)、英語(公用語)
(5)宗教:イスラム教(31%)、キリスト教(25%)、伝統宗教(44%)
 
6-1-2 政治体制
(1)政体:共和制
(2)元首:ムカパ大統領
(3)議会:一院制(295議席、任期5年)
(4)政府:スマイエ首相
(5)略史:
 1881年ドイツ領、1920年英国委任統治領となる。1961年に独立。1962年共和制に移行。1964年タンガニーカ・ザンジバルを合邦、タンザニア連合共和国が成立する。1985〜1995年ムウィニ大統領、1995年以降ムカパ大統領が2選。
(6)内政:
 1961年の独立、1964年の合邦以降、ニエレレ大統領(当時)を中心とした強力な指導力により内政は安定。アルーシャ宣言によるアフリカ型社会主義を追及したが経済は悪化、1985年にムウィニ大統領に政権の座を譲る。1986年以降、構造調整、経済自由化を推進し、一定の成果を上げている。1992年に複数政党制を導入、1995年の複数政党制初の選挙で現ムカパ大統領が選出され、2000年の選挙でも再選された。
 1995年と2000年の選挙でザンジバルにおいて政治的対立が生じ、2000年には死者、タンザニア初の難民が発生する事態が生じた。
(7)外交政策:
 非同盟政策を基調としつつ、アフリカの統一と未解放地域の独立を強く唱え、アフリカ統一機構(OAU)、国連等の国際場裡においてリーダーシップを発揮した。近隣諸国との関係は良好であり、コンゴ(民)紛争を中心とした太湖地域情勢の安定化、ブルンジ問題の解決に向け尽力している。ケニア、ウガンダとの三国間協力を推進しており、1999年11月、東アフリカ共同体(EAC)設立条約が署名され2001年1月に正式に発足。また南部アフリカ開発共同体(SADC)のメンバーで、2003年8月より議長国となっている。
 
6-1-3 経済
 タンザニアの独立以来の経済発展の動向は次の4局面で示すことができる。
(1)植民地市場経済(強い規制・統制経済)から社会主義的計画・統制経済への移行
 1960年代初期から1967年のアリュウシャ宣言とそれに続く社会主義的国家主導型の経済開発は1973年までは比較的順調な成長期であった。1967〜73年では、年平均GDP成長率は56%、一人当りGNPは2.5%で増加しており、輸出・輸入もそれぞれ年当り6%で増加していた。インフレ率は一桁に押さえられていた。この原因としては、世界経済が未だに第2次大戦後の「黄金期」的拡張過程にあり、またニエレレ元大統領の開発理念に対する世界的共感からタンザニアは世界銀行やスカンジナビア諸国からの多くの援助を受けていたことが考えられる。
(2)社会主義的計画経済の破綻
 1974〜84年の10年間において、計画的・強制的集村化による農業開発は農村経済を疲弊せしめ、基幹産業国有化政策と輸入代替工業化の失敗が明らかになり、再度のオイルショックの影響と先進国の経済不況による輸出の不振とが重なり、GDP成長率が加速的なマイナスに転じた。一人当たりGDPの年平均成長率は1974〜78年にはマイナス0.9%、1979〜81年にはマイナス1.1%、1982〜84年にはさらにマイナス2.9%となった。他方、この期間のインフレ率は15%から31%へと高騰し、とくに1984年には過去最高の36%に達した。実質家計所得は1970年代初めと比較して1984年には半減したといわれる。
(3)市場経済への移行模索
 1986年7月に新政権が誕生し1986〜88年経済復興計画(ERP)を作成し、国際通貨基金(IMF)のコンディショナリティーを受け入れて開始した構造調整計画の結果、GDPに占める財政収支赤字の比率が1980年の11.4%から1988年の6.0%にまで縮小した。IMFから6,420万SDR、世界銀行から1億ドルの融資を得るに至った。また1986年9月のパリクラブでも債権国から7億ドルの債務繰延べを認められた。1986〜87年の2年間にGDP成長率は4%に回復し、一人当たりGDPの成長率も0.7%というわずかながらもプラスに転じた。インフレ率も低下傾向に転じていた。ERPはその後ERP-2として継続され、この間に1989年には経済社会行動計画(ESAP)が策定された。
 1989〜93年には構造調整がかなりの成果をあげ、タンザニアはその実施の成功例と称賛された。特に農産物流通の自由化、農産物価格の政府統制撤廃、為替レートの単一化、貿易の自由化等の改革に尽力した。GDP成長率は1989年に7%を越えたがその後1990〜92年には3%に低下し、1993年には6%以上に回復した。対GDP財政収支の赤字比率は1990年初頭には約3%にまで低下した。しかし経常収支赤字の対GDP比率は1986年の2.7%から1989年には9.0%に増加、1993年にはさらに12%程度に増加した。インフレ率も15%という目標は実現できなかったが(1991年を除く)20〜22%台になった。製造業部門にはかなりの問題が残された。1990年と1991年には貿易自由化による国内産業への圧迫、1993年には旱魃による水位低下のために電力供給が減少・不規則になり、製造業の成長率は2.5%に留まった。
 1992年に国営部門改革委員会(PSRC)を設けて国営企業の改組に着手し、1993年末までに20の国営企業払下げを実施し、1993〜94年に128企業の民間化を計画したが計画通りには進展していない。また、政府雇用改革として1992〜93年に1万人の雇用削減を実施した。1993〜94年にはさらに2万人の雇用削減が計画され、3年間で計5万人の削減が予定された。解雇手当資金の調達や解雇労働者の再雇用の難しさが深刻な失業問題ともからんで社会問題化してきている。
(4)移行過程の危機:経済行政能力の不足
 1994年に至りドナーとタンザニア政府との関係は再び危機的状況に直面した。その最大の原因は財政収支赤字の増加であった。GDPに対する歳入の割合は1988年の19.5%から1991年にかけて23.5%と着実に微増し続けたが、1992年には一挙に16.8%に落ち込んだ。他方、GDPに対する歳出の比率は1991年の26.4%から1992年には30.8%に増大した。その結果、財政赤字の対GDP比率は1991年の3%から1992年には14%に激増した。1994年度もこの傾向が続いた。歳入の赤字を借入で補填したために政府債務は1993年度末の938億シリングから1994年6月末には1,257億シリングに増加した。またインフレ率は1994年10月には37%にまで高まり、輸出の不振は著しく、貿易赤字は1994年には7億8,200ドルに拡大した。輸出稼得額は輸入のわずか3分の1を充たすのみであった。貿易収支、経常収支、国際収支のすべてが著しく悪化していた。
 ドナーの輸入支援援助に対する見返り資金積み立ての遅延は長年の懸念となっており、歳入不足による見返り資金の不透明な流用がからんでタンザニア政府の財政赤字の増大が改めて問題化した。さらに歳入欠陥の原因が歳入管理の失敗、脱税の横行、税の減免措置の拡大、及び歳出管理能力の欠陥によるものであることが明らかになるにともない、世界銀行・国際通貨基金(IMF)はESAPに対する構造調整融資を“凍結”し、他の主要ドナーもノン・プロジェクト融資を延期する事態となった。かくして構造調整の優等生とみなされたタンザニアとドナーとの関係は危機的状況になった。
 現在GDP成長率は2000年度5.1%、2001年度5.7%と順調であり、一人当たりGNPも1997年の210ドルから1999年250ドル、2000年270ドルと順調に推移している。財政は歳出超過であるが、貧困削減戦略ペーパー(PRSP: Poverty Reduction Strategy Paper)の策定を終え、ドナーの協力を得つつ、その実施に取り組んでいる。
 主要産業は、農業でGDPの約50%を占める(メイズ、キャッサバ、米、豆類、コーヒー、綿花等)。また、規模は小さいが、鉱業では金やダイヤモンド生産、工業ではサイザル麻・タバコ等、農産物加工がある。観光業も年々伸びており、有望視されている。
 タンザニア政府は、生産部門の民営化を進めており、国営工場の殆どをその対象としている。一方、中小企業については、雇用機会の創出、所得機会の向上、ひいては貧困緩和や地域格差の是正に大きな役割を果たすものとして、今後にますます期待がかけられている。タンザニアの中小工業振興の歴史は新しくない。1964年の独立以来、政府は中小企業の振興に力を注ぎ、1973年には中小工業開発公社(SIDO)を設立した。SIDOは、タンザニアの中小企業の振興のために技術サービス、経営指導、技術訓練サービス、クレジットサービスを提供し、各州に工業団地を設置・運営、さらには工業共同組合の設立・運営指導を行ってきた。SIDOのこのような役割と機能、全国に張り巡らせたネットワークは、中小工業振興の一つのモデルとして途上国各国からの視察が多い。但し、最近の公社・公団の民営化により、SIDOもその対象となり、今後SIDO本部はもちろん、各州にある地方支部並びに工業団地は、政府からの財政的支援が少なくなってきている。この意味からも、タンザニアの中小企業は、かつてのような低廉なサービスをSIDOに期待できなくなる。いづれにしても、中小工業に対してGDPや雇用への貢献の面から今後ますます期待が高まっていくことは確かである。
 
主要経済指標(EIU2003年見通し)
(1)GDP: 94億米ドル
(2)実質GDP成長率:5.2%
(3)国民一人当たりGDP: 270米ドル
(4)物価上昇率:4.6%(年平均)
(5)失業率:不明
(6)国際収支:
・輸出総額:11億米ドル
・輸入総額:16億米ドル
・経常収支:5億米ドルの赤字
(7)主要貿易品目
・輸出:鉱物、カシューナッツ、コーヒー、工業製品、綿花、紅茶
・輸入:消費材、産業資材、一般機械、輸送機械、石油
(8)主要貿易相手国
・輸出:インド、英国、日本、ドイツ、オランダ
・輸入:日本、南アフリカ、英国、米国、ケニア
(9)外貨準備高:38億5,000万米ドル(金を除く)
(10)対外債務:161億米ドル
(11)債務返済比率:47.6%
(12)通貨:タンザニア・シリング(T.shs)、1米ドル=1,049T.shs
 
日本との経済関係
(1)対日貿易(2000年)
対日輸出:71.3億円
対日輸入:49.11億円
(2)主要品目
対日輸出:コーヒー豆、白身魚、胡麻、繊維製品、蜜ろう
対日輸入:自動車、機械製品、鉄製品等
(3)日本からの直接投資
19件、21.86億円(1999年までの累計)
松下電器
 
6-2 海事事情
6-2-1 港湾
 タンザニアの主要港はDar es Salaam、Mtwara、Tanga、Zanzibarの4港である。これらの主要港は、The Tanzania Harbour Authority(THA)により管理・運営されている。
 
ダルエスサラーム Dar es Salaam港
 同港は首都圏に位置し、以下の施設を備えている;
・水深のある一般貨物船用ターミナル:8投錨地(年間250万トン)
・コンテナ・ターミナル:3投錨地(年間120,000TEUs*を処理)
・anchorages: 8投錨地
・穀物ターミナル
・巨大タンカー用の防波堤
・貨物センター
 このうちコンテナ・ターミナルは、the Tanzania International Container Terminal Serviceが運営している。
*TEUs: 20フィート(20フィートの長さの貨物コンテナ)に相当する単位
 
Mtwara港
 同港は1948〜1954年にかけて水深のある岸壁が創設された。年間40万メートルトン(1メートルトン=1,000キログラム)の貨物が処理できる。
 
 タンザニアの港を通過する貨物の4分の1が近隣諸国−ザンビア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダ、コンゴ民主共和国−行き(から)である。
 THAは1997年から2,400万ドルをかけて港の近代化プログラムをすすめた。2000年9月には、Philippines-led ConsortiumとThe Tanzania International Container Terminal Serviceの間でコンテナ・ターミナルの10年間にわたる管理契約が成立した。
 
タンザニアのコンテナー取扱量
  TEUs 2001 TEUs 2000 TEUs 1999 2000-2001の
増減(%)
1999-2000の
増減(%)
タンザニア 135,632 133,660 106,304 1.5 25.7
世界全体 236,698,406 231,689,448 195,261,458 2.2 18.7







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