■病気の体験は恩寵でもある
さて, 1792年にメーヌ・ド・ビランという哲学者が次のように言っています。
「悩まない時には, 人は自分自身をほとんど考えない。病気あるいは反省の習慣が我々のなかに下りてゆくことを我々に強いることが必要だ。自分が存在していることを感ずるのはほとんど健康でない人だけだ。健康な人は, 哲学者でさえも, 生命とは何かを探求するよりも, 生を享楽することに没頭する。それらの人達は自分が存在していることに驚くことはほとんどない。健康は我々を我々の外の事物に連れゆき, 病気は我々を我々のなかに連れ出す」(『日記−1792〜1817年』澤瀉久敬訳)。つまり, 自分について, あるいはいのちということを考えるのは, 病気になったときだというのです。
みなさんにクイズをお出ししましょう。この絵には人間が隠されているのですが, どこに隠れているのでしょう。心理学の教科書にあるものです(図6)。健康な人は, この絵を見ても何も見えていないのです。ところが病んでみますと, 自分がわかってくる, 自分が見えてくる。そして, いったん見えますと, つまり病気を経験しますと, その人はたいへんな収穫を得ることになるのです。私が医師としていろいろとものを考えるようになったのは, 結核で8ヵ月間トイレにも行けない状態を体験したからです。大学を1年間休学しましたが, それによって病む人のベッドサイドで診察をするときに, よくその人の心を読み, 共感を抱くことができるようになりました。それは私が病んだ経験をもつからです。
図6 何に見えますか?
さて, この絵に隠されていたのは, キリストの顔のようなひげを生やした男性の上半身です。健康なときにはこの絵を見ても, 人の顔には見えないのです。病気になって, 自分の内面を見直して, はじめて顔が見えてきます。
ルネ・デュボスという医学者の『人間と適応』という著書には, 「健康な状態とか, 病気の状態というものは, 環境からの挑戦に適応しようと対処する努力に, 生物が成功したか失敗したかの表現である」とあります。
病気というのは, つまり何か病気があるというよりも, 適応の仕方が病気であるというのです。結婚して違う環境に入ったときに, そこに適応することができるか, 適応できないと病気になることがあります。私たちは, 適応の技をどうすれば獲得することができるのでしょうか。
「健康を, 完全無欠な不動のものとして理想化したものではなく, 個体が環境にうまく適応する状態を重視し, その意味で健康をきわめてダイナミックにとらえた定義である。体内の血液や組織内外の体液がいつもpH=7.4という生体の生活上でいちばん好都合な状況で調節させるようなバッファーの仕組みによって保たれていることが, 一つの健康のシンボルである」―この言葉はルネ・デュボスが先の著書で述べています。酸性のものを食べても体の中でバッファーによって上手に調節することができるから, 体の酸―アルカリのバランスはちょうどいいところに保たれるのです。体の機構がバランスをとるようになっているので, 外敵が入ってもバッファーで止めることができるし, ストレスもやり過ごすことができる。このバッファーを上手に活用できるかどうかが, 本当に健康であるかどうかということを意味しています。
別の言い方をしてみましょう。
「健康とは静かな状態ではなく, 嵐の中を進む船のように, その環境の変化を予測し, どう舵をとり, どう船の荷を調節して航海すべきかを考える船としての人間の巧みな調節機構こそが動的健康論とみなされよう」。これも同じくルネ・デュボスの言葉です。嵐に遭遇したら, 錨を降ろしてその嵐をやりすごすのか, あるいはスピードを上げて走り抜けるのかをその時々の状況に応じて判断する。そのときの船長の判断によって船は沈没するか否かが決まるのです。
これにもう一つ付け加えておきましょう。
「健康というものには, 外へ向かうからだの健康と同時に, 内に向かう心の健康があり, 後者の大切さがややもすれば忘れがちである。
心が健康であるためには, 肉体が健康であることが望ましいのはもちろんである。肉体が病むと心がうずき, 食欲もなくなり, 生きる気力を失う。しかし, 肉体の健康には限度がある。
肉体の健康がいろいろな原因で失われても, 人間の心の中に内的な生きる上での充実感があれば, それは肉体の欠陥を補って余りあるものとなるかもしれない。そのような場合は, 私たちは孤独ではなく, 寂しくもなく, またからだは病人でも, その苦しみに耐えうる力が与えられる」。
どのような状態になっても耐えうる力が与えられていれば, 私たちはゆったりとした生涯を終えることができるのです。
■加齢と生活習慣病
人間の健康が障害されるのには社会病理学的な分類によると4つのタイプがあります。1つは, 先天性(遺伝子)の病気, 2つは環境不良または汚染によってつくられる病気(環境病), 3つは貧困または未開発における欠乏生(貧困病), そして4つ目が個人の悪い生活習慣によって起こる病気(生活習慣病)です。私たちは医薬によって病気を治す以外に, このような方面でも手を打たなければならないのです。上記のうち, 私たちがいちばん端的にかかわることができるのは4番目の習慣を変えることです。上手に自分の習慣を変えることによって, 年をとることに成功することです。
上手に年をとることを英語では“Successful Aging”といいます。それには自分の生活習慣がかなりの決定権をもっています。この研究はこれからますます盛んになっていくことでしょう。
では, 自分でつくることのできる環境にはどういうものがあるでしょうか。自分の生活の仕方(住居, 食事, 運動), 交わる人の選択(出会い, グループ, 社会), あるいは生きる内容(生き甲斐), このようなことを勉強しながら, あるいはボランティアをやりながら, 日々を生きるかということです。このような精神的・社会的な環境は全部自分でつくるものなのです。
私たちが健やかになるためにビタミン剤を飲んだり, あちこちの医師にかかったりすることではなしに, このような環境を自分でつくることに努力しなければならないのです。食べることももちろん環境とかかわっています。パンダは笹しか食べません。コアラはユーカリの葉しか食べません。そこにあるものを食べて生きられる。それはおそらく神の配剤でしょう。人間だけですよ, 何でも食べるのは。だから病気をするのです。そういう意味では私たちは選択して食べることを人間の知恵で考えなければならないのです。何でも食べられるということは, 間違ったものを食べることにもなります。
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