■患者の訴えと医師の対応
昨日私が聖路加国際病院で診た患者さんは, 有料で1時間かけて診ました。その方は, 「私は5年間医師にかかっていますが, その間聴診器を当てられたことはありませんでした」と言うのです。高血圧症の方でした。大勢が病院に行きすぎるので, 医師はていねいに診る時間がないので3分診療にならざるを得ません。診察する医師は忙しそうにしていますから, 患者さんは言いたいことも言えないというのです。
そういうような医療では意味がないでしょう。やはり, 医師にかかったときには, 医師の側にも余裕があって, 時間をかけてじっくり診察して, それに見合う収入が病院や医師にないと, 経営は困難になってしまいます。何か検査をしないと収入にならないというのが現行の健康保険制度です。検査をしないでも30分話しているうちに, この人のむかつきは何が原因なのか, どうしてめまいがするのかなどと, 医師は患者からの言葉によって健康状態を確認することが必要なのです。患者さんが「フラフラします」と言うと, すぐに脳のMRI(磁気共鳴画像装置)をとるように指示されたりするのですが, MRIをとっても原因が明らかにならないことが多いのです。そういう場合に, 医師は, 「MRIでも異常はないのだから, 何ともないですよ」と言うのですが, 当人がフラフラして気持ちが悪いと言うのですから, 医師が「心配ない」「どこも悪くない」と言うのは間違いなのです。もっといい器械が発明されれば異常が出現するかもしれないのですが, 何といっても人間の脳のほうが敏感なのですから, その異常を当人は感じているのに, それを「何でもありません」と言うのでは, 患者さんは不服でしょう。具合が悪いから医師のところに行ったのに, 「何ともありません」と言うのですから。まだ器械はそこまで発達してはいないのです。
■目覚ましい医学の発達
さて, 30年前に私たちがこの財団で仕事を始めたときといまとでは, 違うところは何でしょうか(表1)。いまは生前に診断がつけられます。生まれる赤ちゃんが男か女か, 奇形があるかどうかということが生前に診断できる遺伝子医学が発達しました。そして, 予防医学が発達し, これだけのお酒を飲みつづければどうなるかという予知医学も発達してきました。このまま行きますと谷に落ちますよという警告を医師は患者に与えることができるのです。そしてまた, リハビリテーション医学が非常に発達しました。臓器移植も可能になりました。
ところが, 老年医学は少し立ち遅れていました。ことに痴呆についてはそうでした。どれくらいの人が痴呆になるかといいますと, 統計上では, 80歳以上になると5人に1人は痴呆になります。これは先天的に痴呆の遺伝子を持っているからです。それをいま調べることができるのです。私たちは, 「新老人の会」の会員から自主的な申し出をされた方を対象にして, 痴呆の遺伝子や動脈硬化の程度などを調べているのですが, その遺伝子があるにもかかわらず, 痴呆にならない人もいるのです。それから, そういう遺伝子がない人でも痴呆になる人もあるということがだんだんわかってきました。
表1 拡大する医学の領域
私たち「新老人の会」では, 10年間の目標で, 悪い遺伝子を眠らせる環境はどういうものか, あるいはよい遺伝子を目覚めさせる環境とはどういうものかなど, 遺伝子と環境との兼ね合いがどうなっているかという研究を2年前から始めたところです。10年たたないとこの結果は出ないのですから, 私は101歳になってしまいます。それでは時間がかかりすぎるというので, 5年後に中間報告をして, 大体こういう方向でいくのだということがわかってから私も永遠の眠りに入りたいと思うのです。
さて, 老化の研究は遅れていたのですが, 年をとったらからだが弱くなるのは当たり前だ, ひ弱になるのは当然のことだと誰もが考えていたのです。しかし, 75歳になっていても, いままで発掘できなかったよい遺伝子は確かにあるのです。それまでチャンスがなかったから, その遺伝子を使えなかったのです。そういう意味では, これからの老人の医学は, もっとプロダクティブによいものを引き出そうとするものでなければなりません。せっかくよいものを持っていても, それが発揮できなかったのです。そして, それとは逆に, 悪い遺伝子を眠らせる方法はないかということも研究しなければなりません。
よい環境に入れると, よい遺伝子を目覚めさせ, 悪い遺伝子を眠らせたままにしておくという可能性があるということを, アメリカでは「マッカーサー研究」というプロジェクトで研究を進めているRowe博士ほかの研究グループが少しずつそのデータを発表しています。日本はそういう研究が非常に遅れていました。幸い, 私の著書『生き方上手』(ユーリーグ社発行)がミリオンセラーになったので, その印税を当てて研究ができるようになりました。
また, 30年前には日本ではホスピスについても全然考えられてはいませんでした。英国のロンドン郊外でシシリー・ソンダース医師が近代的ホスピスを開設したのは1967年でした。私たちがこの財団を始めたときには考えられなかったことでしたが, 私たちも10年前の1993年に日本で最初の独立型ホスピス“ピースハウス”を神奈川県中井町のゴルフ場の中に開設することができました。
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