波の音で目がさめた。いつのまにかねむったみたいだった。二段ベッドから下をのぞくと、父さんも母さんもすっかりねむっている。ふと窓辺をみたぼくは、「あっ」っと声をあげた。机の上においたケージが空だったんだ。
ももがいない!なぜかケージがあいている。ぼくはとび起きた。はしごをおりてケージをもういちどのぞきこむ。やっぱりいない。
「母さん、母さんってば」
母さんをゆすったけれど、ぐっすりとねむりこんでいて、反応しない。
「父さん、ももが」
「ぐう」
父さんなんか、いびきで返事だ。
「もも、ももちゃん」
机の上、下、ベットの下ものぞきこむ。でもいない。はいつくばってさがしていると、ろう下の光がうすく部屋にさしこんでいるのに気がついた。
ドアがあいている!
最後に入って来たのは父さんだ。よっぱらった父さんがドアを閉め忘れたんだ。
じゃあ、ももは。
考えて、背中がひやりとした。外に逃げたんだ。
ぼくはパジャマのまま部屋にとびだした。
「もも、もも」
一階のろう下、トイレ、ホール。名前をよびながらさがした。談話室でテレビを見ていたお兄さんにきいてみたが知らないという。売店はもう閉まっていて、係の人はいない。
階段をのぼって二階のマッサージ室、風呂場、ゲームセンターまで、一通りさがしてみたがいない。
「まさか、デッキかも」
ぼくは、デッキにとびだした。
少し風が強くなっていた。しめっぽい潮風が海を走ってくるのが見えるようだった。
ぼくはこしをかがめて歩きながら、ももをさがした。
「もも、もも」
さっき、ぼくらがいた後ろのデッキから、船室の横の通路に回る。自分の部屋の前をとおったとき窓をのぞいたが、ケージはやっぱり空っぽのままだった。階段をのぼって、二階のデッキもさがしてみた。いない。どこにもいない。ももが消えてしまった。
「まさか」
ぼくは海をのぞきこんだ。真夜中の海はゆるくうねっている。見ているとひきこまれそうになる。ぶきみな黒いゼリーみたいだ。ももは海に落っこちちゃったんじゃないだろうか。このおそろしいゼリーにのみこまれちゃったんじゃないだろうか。
そんなばかな。ぼくは頭を強くふった。おそろしい考えをふりきるように、海に背中をむけた。
ボーッ。
とつぜん、風をやぶるような音がひびいた。船がきてきをならしたんだ。じっさいに船の上で聞くきてきの音はすごい迫力だった。
そのときだった。何か小さなかたまりがぼくの足元をすりぬけるのを感じた。
「あっ、もも」
たしかにももだった。ももが猛スピードでかけぬけていった。ぼくはあわてて追いかけた。階段をおりていくももを追って、転がるようにおりた。
一階のデッキについても、ももはとまらなかった。よほどむてきにびっくりしたのだろう。ぼくの声なんか聞こえないみたいだった。
ももがやっと止まったのは、船尾のデッキの手すりから、一段さがった平たい屋根の上だった。浮袋や救命ボートが置いてあって立ち入り禁止の札がかかっている。
ももは、そこでやっと気づいたようにあたりをきょろきょろと見渡して、身をちぢめるようにしている。デッキのうすい明かりに照らされて、小さな体がやっと見える。手すりさえ乗りこえれば、簡単に行けそうだ。
「よし、もも。そこでおとなしくまっていろよ」
ぼくは手すりをのりこえた。階段の一段分に見えた段差はわりと大きくて、ぼくは足をいっぱいいっぱいにのばして、屋根の上におりた。ももをおどろかさないようにゆっくりすすむ。
「もも、おいで」
ふるえているももに手をのばすと、ももはおとなしく手のひらに乗ってきた。
「もも、よかったね」
ぼくは両手でももをなでた。
「動くな!」
とつぜん大きな声がした。顔をあげると、手すりのむこうにストロングさんがいた。ずいぶん遠くに見える。そう思ったらはっとした。
そういえば、足がやけにつめたい。足もとを見ると、水たまりができている。波が立つたび、しぶきが船の上まで上がって来ていたのだ。
ぎょっとしてあたりを見回す。どす黒い海がすぐそばにあった。ぼくはいつのまにか、船尾のぎりぎりのところまできていたのだ。
こわい。足ががくがくと音をたてた。
「動くなよ。そこで待ってろ」
言われなくても、体がまるで動かなかったぼくはももをだいたまま、立ちすくんでいた。
ストロングさんは、ひらりと手すりをこえ段差をひとまたぎした。のっしのっしとこちらに近づくと、大きなこぶしをごつんと一つぼくの頭におみまいした。
「あいたっ」
ぼくは悲鳴をあげた。
「海をなめるな。一枚板の下は地獄だぞ」
ストロングさんが低い声で言った。その声はものすごく真剣で、ぼくは歯をがたつかせながらうなずいた。
それからひょいとぼくをかつぐとデッキにもどった。
ちょうど、父さんと母さんが飛び出してきた。二人の顔を見ると、自然に両目からなみだがほとばしりでた。
ストロングさんにたすけてもらったことを言おうとしたけど、口がふがふがあくだけで言葉にはならなかった。そんなぼくにストロングさんは、目配せをした。なんにも言うなといってるようだった。
母さんがぼくをだきしめた。母さんもつられるようになきはじめた。ぼくもただ泣きじゃくった。まるで目のおくに海があるんじゃないかと思うくらいだった。なみだがどんどん出てとまらないんだ。
「父さんだって、光太に転校ばかりさせるのはつらいんだ。ごめんな光太」
父さんまでちょっと見当外れなことを言って泣きはじめた。
ストロングさんが首をひねった。
「こりゃ、秋風が涙の穴をここらに運んできたかな」
泣きながら父さんが聞いた。
「涙の穴ってなんですか?」
「海には涙の流れこむ穴がいくつかあるらしいんだな。そのポイントに入ると、とにかく泣けて泣けてしょうがない。おれにも何度か経験がある。こらえてたことが、とめどなく涙になって出てくるんだ。小さい頃親父が話してくれたことは、ほんとだと思った」
ストロングさんの声も涙声になった。
「死んだ親父が教えてくれたんだ。海には涙の穴がある。海の男はそこで泣くもんだ。だから男らしいのさ。陸の上では涙は見せない。海においてくるんだってね。すばらしい親父だったよ。男の中の男だったさ。だからおれは、海を選んだんだ。せまいリングよりもでっかい海で生きたかったんだ」
ストロングさんはおいおい泣きはじめた。
「おれだって転勤ばっかりしたくないさ。人を将棋のこまみたいに動かしやがって」
父さんも涙声をはりあげた。
「私だって引越しばかりはいやよ。せっかくお友達ができてもすぐにお別れだもの」
母さんも泣いている。
ぼくもなみだ声をはりあげた。
「優斗ー、ももは大事に育てるからなー」
手の中でももも、きゅーきゅーと声をたてた。
みんなで声をあげてないた。海がごうごうと鳴っていた。まるで、涙をすいとってくれるみたいに。
次の日の朝。
だれかが窓をどんどんとたたく音で目がさめた。顔をあげて目をこすると、窓でストロングさんがにっと歯をむきだして笑っていた。もうデッキにいるらしい。
ぼくも起き出した。父さんも母さんもまだぐっすりとねむっている。ももも、ケージの中で気持ちよさそうにうずくまっている。
デッキに出てみた。
「おはよう。ぼうず。そろそろお日さんがのぼるぞ」
ストロングさんは、デッキをウォーキングしながら、海をゆびさした。
「うわあ、すっごい」
朝日がのぼるのを見るのは、はじめてだった。うすいオレンジ色の光が海からもれだしている。海は太陽が生まれるのを待っているみたいにしずかだ。光の粉をふりまいたみたいに、きらきら光っている。
「そら、四国が見えたぞ」
今度は朝日と反対の方をゆびさした。うっすらと陸が見えてきた。少しずつ朝日がさして、ぼんやり明るく見えてきた。
「あれが、ぼうずの住む町だ。おれはもう一泊して明日は東京だ。元気でな」
ストロングさんがぼくの頭をぐりぐりとなでた。昨日げんこつされたところが、まだいたい。しかたないさ。もとプロレスラーのげんこつだもの。
それでもぼくはなぜか不思議とすっきりとした気分だった。ぐんぐん陸が近づいてくる。岸の風景がはっきりしてくるのを、ぼくはじっと見つめた。
朝一番の潮風が気持ちよかった。
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