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 厳流島に砂浜がない。終戦から五年目の今も二せきの八八計画造船の残骸が乗り上げたままだった。どちらも艫半分が欠落している。上げ潮、下げ潮の盛りには、島のどちらかの先端で潮が砕けていた。
 「吉川英治は適当な嘘を書いたのかなあ」
 周吉の言葉に、軽い拳骨をくれながら、繁さんの兄の機関長が答えた。
 「理屈を言うな。その時分には砂浜があったかもしれん。反対の話が、あの彦島が昔は本当に島だった。今は地つづきやろう、時間が経てばなにでも様変わりするもんじゃよ」
 海峡の潮流が変わったからだと言う。
 明治からこちら幾度か馬関の瀬戸は浚渫されたらしい。誰も確実な資料のもとで見聞したわけではない。船舶の大型化もあったが、軍艦の通過が必要になった国策で、当然そうなった筈だと、全員の意見が纏まった(まとまった)。
 今度の下り航海の時もいた。つがいの黒い水鳥は、磯際の瀬波に、一切の抵抗を忘れた風にその身を委ねていた。
 島影さえ見えぬ沖のうねりの中でも、同じ鳥に出会う。西の波頭が入り陽を飲み込んでしまい、やがて、舞う雪の影さえ見せぬ闇が迫って来る時分、周吉は彼らのねどこを案じる。「鳰(かいつぶり)には此処がねどこじゃないか。“波に浮寝のかもめ鳥”て言うけど本当に波の上で寝るのはこいつらじゃよ」
 ボースンは、他人(ひと)の寝所まで心配するなと、その日何度目かの拳骨を周吉の頭に置きながら、意外に思える程沈み込んだ声で眩いた。
 「卵を波の上でかえすわけはないわなあ・・やっ張りおかにあがることはある筈や。こがいなとこまで泳いで来るのかの」
 「知るかい!馬鹿もん・・あいつらに聞いてみい」周吉の頭はもう一度拳骨をもらった。
 「何で・・こがいな沖まで出て来んでも食うて行けるじゃろうに」心底そう思った。
 「お前も何でこがいな沖で暮らすのじゃ。どおせ食うて行けるだけのことじゃないか」
 そう言って、煙草を詰め替えたボースンの長柄のキセルがラットを握っている周吉の頭のそばまで来たが、船長の言葉が止めた。
 「兄公だけじゃないわのう。皆似たものじゃよ“おか”によう住めん奴らが船方じゃ。鹿やんもそうと違うのかい。都合何回“おか上がり”したのかい」
 泣きべそにさえ見える。ボースンの表情は感情の辻褄を合わすのに手間取っていることを笑える程如実に見せていた。
 まだ火の残っているキセルの雁首を、この時期沖では、はや肌寒い半袖シャツの袖口に当てて来た。熱さの度合いを告げる悲鳴を上げるか、堪えて無視するべきか、瞬間迷うたが
周吉は、無視することにした。
 “おか”の常の社会から隔絶され、取り残されて行く生活に焦りを覚え、誰もが一度や二度は船を降りて見る。
 一番長く“おか”にいたのは、堺の刑務所にいた間だったと、酒の当たりが少し多い時に幾度かボースンが、中の生活を面白く酒の肴にしていた。
 丸二年余りの船暮らしでも、周吉もそんな焦りと戸惑いの感情を帰郷の度に味わった。
 バッテリー延命のため、ラジオは船長が聞く気象通報だけ。それも航海中のこと。
 機関長が持っている蓄音機が、唯一外界との媒体だった。
 「お前かて、あの時・・馬関で流された後、降りようと思ったじゃろ」
 ボースンの突き上げに、周吉は頷くより術がなかった。あの時だけではなかった。
 「それでも、また船に帰って来た」
 近頃は、航跡の蛇行が殆どなくなったと、自己満足しながら、ラットに背をもたして、ボースンの言葉にもう一度頷いて見せる。
 「沖の波の中が、いっち安堵出来る処なわけか。それも磯影も見えん沖のさなかほど落ち着くのよなあ」
 船長の言葉は実感が満ちていると思った。
 幾日振りかに上陸すると、しばらく足元が覚束ない感じがして、腰でバランスをとって歩くようなことがある。船員や水兵たちが岸壁や桟橋で見せる一種独特の歩行姿勢を、周吉は子供心に、気取りやがってと思っていたが、そうではないことを知った。
 何か、動いていないものを踏み締める、戸惑いと、加えて気恥ずかしさの感情さえ伴っていた。船長の祖父が、“おか”では杖を突いて歩きかねていたのに、船に帰ると船縁の差板の上を、しかも波の中でふらつきもせずに歩いていたと、幾度も聞かされていた。
 身体までが、波の上でしか生きられないような構造に組み換えられるのか、と周吉は苛立ちをいっそう募らす。







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