四
「人間切るのも、大根切るのもたいして変わりはない。血が出るか、出ないかの違いだけのことじゃ。ああ声もなあ」
そう言って、まだ栄養失調の後遺症の名残を表情の皮膚に見せているナンバンの繁さんが、日頃の柔和さにはつなげようのない、深く沈んだ、死臭さえ思わす時がある。
ふと我に還ったかのように、表情を無理に変えて、白く濁った左目も一緒に笑う。
一才年下の“せいやん”は、同じ条件の中で生きて来たのに、底抜けに明るい。
繁さんは、“せいやん”の回復と言うか、変わり身の早さについて行けないもどかしさを覚えた。それは今始まったことでもない。
飲料水さえ充分になかった、収容所の暮らしの中でも、“せいやん”の生活力に救われた所が、多分にあった。監視灯の明かりに誘われて体を痙攣させながら地に落ちた、蜻蛉や蝉を拾い集めて来て、寝床の中で食えと勧めてくれたのも“せいやん”だった。
蝉より蜻蛉の方が食い応えがあると言って、歩行さえ覚束なくなっていた繁さんに、
「一緒に帰ろう・・兵隊でもないのに何でこがいなとこで死なにゃあならんのじゃ」
そう言って無理に食わした。
手製の銛を造って、監視兵を買収し、作業中でも海に潜っていた。獲物の半分は、インドネシアの監視員に上納させられた。それでも一日浜に出れば、繁さんはじめ一緒に赤道を越えて来た、船の仲間たち五人の腹を少しは満たしてくれた。
北九州の若松港で、繁さんたちの船が、乗組員ぐるみで軍隊に徴集された。
数え年十六と十五才の二人を、船から降ろして、波止浜に帰そうと、福井船長は、係官にしつこく迫ったが、たいして差のない少年が死にに行ってるのだと、申し出は受付られなかった。若い士官は手を上げたが、跛を引く船長にその訳を聞いていた年上の兵隊が、押し止どめた。上海事変で打ち砕かれた船長の左足の踵の肉は、ほとんどない。
申し訳なさに涙ぐみさへして、話す船長に繁さんと、せいやんは、はしゃいで見せた。
真っ黒になって、石炭を運んでいるより、どうせ行く所は南洋だろうし、行ってみたいと、二人で頼み込んだ。
噂と、推測の範囲だが、百艘近い船団が平戸の瀬戸を通過したらしい。
船倉に積まれた荷物の詮索は許されなかった。乗り込んで来た一人の警備兵は、小銃を重そうに提げていた。しばらくして本人の自己紹介で知れたことだが、半年前まで大阪で表具屋をやっていたとのこと。
ブリッジの屋根に、木製で弾の要らない機関銃が据え付けられた。
「こがいな小船に魚雷を使うとれるか。そこが軍のねらいだろ。撃たれやせん」
繁さんの伯父に当たる甲板長が、潜水艦の攻撃に脅える船員たちに、最もらしい論を並べていた。一隻の大形船だと、攻撃されたら一度に全てを失う。百隻に分積すれば生き残る確率が高くなるだろう。それらが木造の小形船を徴集した理由だとも言ったが、もはや大形船のないのも理由だったろう。
甲板長の推測が外れていたことを思い知らされるのに長い時間は必要なかった。
五島列島の島影が、寒月を背にまだ黒々と迫って見える海域で、船団の中央部分から火の手が上がった。
船団の真ん中に浮上して来た潜水艦は、射撃訓練をするかのように、周囲の船に機関砲の連射を浴びせ、護衛艦が回航して来た頃には、周辺にその気配さえも見せていない。
船足の違いで、船団から落伍する船も出て来る。意識して離れるものもいた。福井船長もその一人だった。船団から大きく逸れて、単独航行をつづけた。
基隆で燃料と食料を補給したあと、各船長は目的地を指示された。「天運を祈る」と言われたが、まさに、誰もがそう思う。
護衛艦の姿を見失ってすぐ、船長はマストの日章旗を降ろさせ、木製の機関砲は取り外され釜の下の薪になった。監視兵は黙って見ていた。エンジンを止め、帆走をつづける。
「行きつく先も地獄なら、逃げて帰るのも地獄行き。波の中におる今がいっちの極楽かもしれんのう」甲板長と船長が、基隆で仕入れた高梁焼酎の酔いが回ると、決まりのせりふだった。台湾の山並みがうねりの向こうに消えてから、七日目、友船の最後の一隻も見えなくなった。外洋航海の経験などまるでない船が、必死で友船を求めて追走していたのかも。船長は意識してそれらを振り切った。
どこまでも単独航を望んだ。風と波に任せた航行ではあったが、コンパスは南にとっていた。食料と水を、ボースンが煩く管理した。
船長が船倉の荷物を見ると言い出す。
表具屋の二等兵は、それだけは、と拒絶していたが、高梁焼酎と、“ケンビキ”で釣り上げた鰹の刺し身で、籠絡(ろうらく)された。
食い物の弱味もあったが、船長の言葉が、彼の行動を全て決定付けた。
「船の中では、船頭が隊長じゃ。いや司令官じゃ、お前らを殺さずに、身内のもとへ連れて帰るのが俺の一番の仕事なんじゃ。品物も判らずに運ぶ船頭が何処におる。そがいなのさばったことを言うとるから敗け戦をせにゃあならんのじゃよ。積み荷次第で船の遣り方もあるんじゃ。生きて帰ってかあちゃんをもういっぺん抱きたかったらそがいな鉄砲は海にほり込んでしまえ。その服も捨てい。最後の責任は、俺がとる」
もし、弾薬や火薬だったら、放棄する。それらがこちらの軍に渡せる保証は何もない。
敵の手に渡れば、命をかけて何をしたことになると思う。その上、銃撃でもされたら、沈まなくてもよいものでも、皆殺しになる。
誰の意見も聞き入れぬ語調だった。
国の為、参戦していると、純粋に思っている若い二人には、どうしても納得出来ない話だが、抗議の術は見あたらない。
武器も弾薬もなかった。これから行こうとする辺りでは、あまり必要もなかろうかと思える厚手の衣服と、毛布が殆どで、数箱の桃の缶詰と石鹸が積まれていた。
「道理で足の入らん荷いじゃと思うた」
命懸けで運ぶ程の物かい。
「これで気軽になったと言うもんじゃ」
皆、それぞれの思いはあったろうが、桃缶の甘みに酔うていた。若い二人は、説明のつかない涙と一緒に汁を啜り(すすり)込んでいた。
到着地も違ったが、荷受けをするべき者は何処にも見当たらない。こちらから意識して避けたきらいもないではないが。
燃料の許すあいだ、島陰の磯浦を巡った。
カヌーで漕ぎ着けて来る現住民に、毛布と石鹸は受け入れられ、食品と交換した。
品物の是非を言わねば、六人の腹を満たすに足りた。
やがて、オランダ軍に指揮されたインドネシアの監視艇に拿捕される。
その時しげさんは父親に隠して持ち出していた村上家伝来の日本刀を手放した。
ボースンは、初期の劣悪極まる収容所の生活とマラリヤの熱に耐え切れず、せいやんの勧める魚を口にすることもなく逝った。表具屋の二等兵は、開聞岳が見えて来たとき、リバ艇のデッキで福井船長に抱き着いて泣いた。
赤道前後の暴風圏の航海も南下の時は、吐瀉(としゃ)するものがなくなり、胃液に赤いものが混じるまで吐いたが、今回は、支給されたカンメンポを他人の分までかじっていた。
「無事に帰ったら、もう二度と船には乗らんとこよ、船に乗ってさえなかったらこがいなしんどいめはせずにすんだのに」
繁さんとせいやんは誓い合った。
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