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 一度目の冬は、帆綱にしがみつき、鍋や釜に押し潰されまいと、必死でもがいた日々だったが、この冬はかなり余裕を持っていた。
 凪のつづく夏場は、荷積みと荷揚げの際の船待ち以外に身体を休める時間はない。
 秋風が玄界灘に白波を立て始め、空の紺碧にブラックブルーが滲み込んで来るころ、灘の名物、“アオギタ”が吹き荒れる日がつづく。西日本の船乗り仲間の中に、“可愛い子には正月八月船乗りさすな”と言う諺がある。旧暦月のこと。
 一日吹けば、デッキから立ち上がり九ヒロ余りのマストの全てが、その谷間に隠れてしまうか、とさえ思える程のうねりが起ち上がる。うねりが少しおさまった頃に、うねりの方向に逆らった風が吹く。
 玄海灘の三角波は、石炭を満載した木造船の航行を安易には許さない。
 崎戸炭鉱を出港した船は、平戸の瀬戸を落とす(通過)ところまでは、季節風の範囲では、航行を拒否されることは殆どなかった。
 広瀬磯の潮を読み、時間を調整しながら航行して来た船は、競り合った岩礁の東の先に、歴史が培った伊予の船方の技を持ってしても容易には受付ない海の面構えを見る。
 “アオギタ”は名の通り北風だが、時折東よりに吹きつける。
 空船で下る時は、持てる帆を全て張り、追い風に任せて、
 「エンジンを止めとけよ。油がもったいない・・また人間の油に替えて来るか。兄公」
 帆走航行に郷愁著しい船長とボースンは、そう言って異常に興奮し、饒舌になったが、船足が深くなる上りの航海は、ただでさえうねりに苦しむ。その上この時期の風は向風。左舷斜め前から覆い被さって来る波は、舳先を持ち上げさすまいとするかのように、押さえ込む。突っ込んで行く船は、次に浮かび上がることを保証されるものではなかった。
 呼子の港まで辿り着くか、引き返すか、船長の判断ひとつで航海の効率が大きく左右される。呼子で風待ちすれば、少しうねりがおさまると夜中から明け方にかけて風の止む、朝凪の間に、せめて風の抵抗だけでも避けて玄海灘を落とすことが出来る。
 それでも予想より早く吹き出した北風に、舳先を圧し返され、相ノ島の沖浦に逃げ込むことも度々ある。
 呼子にしろ、その他の島陰にしろ、風待ちの船懸かりは、船長以外の船員たちには絶好の骨休みだった。
 顔馴染みの船が近所に“もやった”時は、どれかの船に博奕好きの連中が集まって、徹夜のご開帳が始まる。
 どの船のカシキも嫌がった。石炭を“ふかし”(大形の七輪で石炭を燃やし残り火を作る、コークスの火になる)彼らの暖房を確保してやらねばならない。
 いつの頃からか、周吉の船が居る限りは、必ずお決まりの様に集まって来る。
 どうせ付き合いを逃れられないのならば、嫌な素振りを見せずに、お勤めをしようと腹を決めた。積み荷のトン数×距離で算出支給されている潤滑油を、エンジンの性能のよさも有ってだが、航海毎に、幾らかずつ食い出していた。漁師の村落を訪ねて、焼酎、スルメ、目差しなどと交換して来るのは、もっぱら周吉の仕事だった。
 客の注文でスルメを焼き、焼酎の燗をする。
 胴立ちして、儲けた者は、気前良くチップをくれる。負けて落ち込んでいる客に無料ですすめる周吉の行動に、えらく感じ入ってくれる連中もいた。
 その日は無報酬でも、何時か返って来ることを幾度か識らされた。
 船主の配慮もあったが、余って来るマシン油で周吉が仕込んで来る食料によって、他の船に比べ、事情は掛け離れて良かった。
 食料の管理を全面に任された周吉は、それなりに小ざかしく動いた。
 波止浜港で積み込む一航海分の食料は、どこまでも一航海を単位としたものだった。
 多少の融通は効いたが、水揚げの状態次第で、船主指定の業者から仕入れるのに船長は弱気になる。食料統制下の配給量も、石炭の輸送高に応じた割増はあったが、全員が満足出来るものではない。
 アルコール類は、尚更のこと。周吉の存在が認められる、唯一の作業域だった。
 「葡萄や梨をどうやって飯にするのじゃ」
 船主の家の仕切り婆さんに言われたが、周吉が大阪の桜島で僅かの米と交換して来たクリームとヘアーネットで、仕入れに以後一切口を挟まなくなった。
 晩酌に不自由しなくなった事で、船長はじめ酒好きの連中の、拳骨とビンタは少し減ったものの相変わらずだったが、油と食料に関しては周吉任せになっていた。
 玄海灘の離島で仕入れた船内消費分以外の乾しスルメや、葛で連なった目差しの半分を波止浜港の浜通りにある交換会の親父に頼んで米と替えてもらう。残りの干物と米を京阪神の港で船に漕ぎ着けて来る“にごや”に売るか、顔なじみの交換会に行ける時には、そこで交換を頼んだ。
 化粧品が荷物にならず、波止浜や離島の漁村に持ち帰っても一番人気よく捌けることもよくわかって来た。ヘアピンからボタンまで運んだ。化粧品を波止浜で半分米に替える。
 離島に立ち寄れそうもない時には、炭鉱島の行きつけの店が取引相手になる。
 先方の条件に任せていても、往復一航海で最初仕入れ額の十倍以上になった。
 風待ちで船懸かりの間は周吉にとって、船の中で一番充実している時間だった。
 遊郭で一泊するのに、白米二升もあればお釣がくる。商売に精出す周吉にセーラーやボースンなどは、全面的に協力した。
 苦い顔はしていたが、船長も機関長も焼酎は機嫌よく飲んでいたし、シイラの刺し身に舌つずみを打っていた。
 配給のマシン油も、燃料重油も、食い残すと全て自分たちに帰って来ると思えば、励みになるのか、仕舞い込んでいた、ジップや艫の帆も引っ張り出して、空船の時は少々の向かい風でも帆走で“まぎり”を打ち始めた。
 薄らいでいた帆走の感覚を思い出したのか、
 「ローリングが少のうて楽じゃないか」
 そう言って、操帆に嬉々とするボースンに機関場の者も協力を惜しまなかった。
 左舷が風下になった時は、厨房室の窓から柄杓で海水が汲めた。
 「次の“うてかえし”は何時頃になる?」
 飯を炊く前に、まずブリッジヘ尋ねに上がらねばならない。竈で炊く飯は、帆走で傾斜した角度に添い釜の中で斜めに炊き上がる。
 ちょうど吹きあがった時と、斜航している船が、風受けの舷を変える“うてかえし”がかち合ったら、釜の中は、大変な事になる。
 通称“ふっちんめし”の出来上がりだ。
 通常の航行の時も、沸き立つ寸前に、一度かき回して米を浮き上がらす必要があった。
 エンジンの震動で、釜の底に米が沈滞して吹き上がりを妨げる。“ふっちんめし”の出来上がりで、拳骨数発の生産につながる。







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