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 一番最後に桟橋から周吉を呼んだのは、いつでも一番先に帰船するボースンだった。
 「どうした、その顔」
 朝から帰って来る一人一人に尋ねられた。
 「ちょっと、船長さんに・・」
 「まだどづかれるような事をやっとるのか、もう一年過ぎたじゃろう。いつまでとろくさいのじゃ、なにをやった?」
 そう言うボースンが、何時でも一番多く周吉の頭に拳骨を振り下ろしていた。今も、当初から比べるとかなり回数は減ったが誰よりも先に手が出る。
 其れなりの言い分を持ってはいた。
 ボースンの母親と周吉の祖父が知り合いで恵海丸に世話をしたのがボースンだった。
 「ほかの者に殴られる前に俺が殴ってやっているんじゃ・・痛ないようにの」
 言ってる割りには、その日折々で、かなりきつい時もあった。
 かなり後になって、酔ったボースンの口から直接聞いたことだが、周吉の母とボースンは異母兄弟の可能性があるらしい。
 昨日の経緯は、誰にも詳しくは言っていなかったが、始めてボースンに話した。
 「そうか気の毒に・・」
 (え!まさか俺にそんな気使いを)と思ったが、矢張り周吉の思い過ごしだった。
 「船長は、かあちゃんに赤旗振られたな」
 ボースンの言葉の意味が、近頃では判るくらい結構耳年増になっていた。
 関門の瀬戸にかかると操舵は、周吉の仕事の範疇からはなれる。瀬戸の潮流は、時間調整をして逆潮(さかしお)を避けて通るが、それでも新米の操舵手にラットを握ることをゆるさない。
 ここを通過する時、毎度のように誰かに言われることがある。
 「今頃魚に食われてしもて、骨か砂になっているやろナ」
 言われるまでもなく、周吉には忘れることの出来ない瀬戸での正月の一日だった。
 北西の風の吹き込む瀬戸は、西の灘から押し込んで来るうねりの上にもう一つ波が逆立っていた。
 夏の海から始まった周吉の航海は、罵声と拳骨に耐えさえすれば快適そのものだった。
 満腹感に酔いながら、潮風に嬲られて(なぶられて)日蔭のデッキで眠る。エンジン音と夏の小波の揺れは、心地よい子守歌だった。
 潮風に秋の飛沫が混じるようになった頃から周吉の生活は大きく変わってきた。
 想像もしなかった、玄海灘の大浪、炊事だけで済まされない一日の仕事、疲労は極限状態に来ていた。
 下関の海運局に新年の年賀を持って行くため、長崎に下る途中、岸壁に接岸する手間を省き沖の浪の中に投錨した。
 船主から預かった米俵を積み込み、船長を送るため艫に吊り下げた伝馬を降ろした。乗り込んだ周吉は、初めての恐怖を味わった。
 うねりの谷底に入ったら本船が見えなくなる。天辺にたつと、三角波のあおりで櫓臍(ろせい)がはずされる。
 二度目にはずされた櫓臍を建て直した時、周吉の伝馬は本船が夕暮れに霞んで見えかねる辺りまで流されていた。
 瀬戸の東の海で立ち上がる大浪は、周吉に死を意識させるに十分の様相だった。
 周吉はうねりと、風に逆らって本船に還ろうとすることを断念した。
 少し岸辺に停泊している、数隻の外国船のブイに流れ着こうと決めて、波と風に任せて少しでも岸に近づくことに努めた。
 外海の大浪が一層眼前に迫って来る。
 飛沫に濡れて冷えきった体に、脂汗がながれる。並んだ外国船の最後尾から二隻目のアンカーチエンにやっとの思いで漕ぎつけた。
 伝馬の舳綱(みよしづな)を鎖に繋いだ。
 高い外国船の舳先で、アンカー番の船員が何か喚いたが、周吉は聴かぬ振りをした。
 闇が迫ったが、此処から動くまいと心に決めて、一層念入りに綱をとり直した。
 暗くなったうねりの向こうからサーチライトの明かりが二条、左右に交錯しながら近づいて来た。水上警察の巡視艇に曳航されて、本船に還ったのは夜中近くだった。
 冷たさに殆ど感覚を失った頭や頬に、お迎えの拳骨やビンタがつづいた。
 歯の根が合わぬ震えは、怖さと寒さのせいだけではなかった。叩かれた頬に、温もりを覚え始めた頃、鳩尾辺りにも熱いものが渦巻いて来て、一層震えが増した。
 「外国船の船員が小便かけやがった。風で飛び散って頭の上には降って来んやった」
 「鉄砲で撃たれんでよかったんや。何処の国の船か知らんが、他所の国に来たときは普通アンカー番は拳銃を持っておる筈じゃ、占領されとる国やぞ、撃たれても、何処にも言うて行くとこはないのじゃぞ」
 船長の声は、周吉をどぎまぎさすほど喉に引っ掛かっていた。
 「明日、出頭せよだと。始末書だけで済めばええが・・米俵を見られたからのう、言い訳を考えてくれよ。没収されたら困る。お前のせいじゃぞ、航海は一日遅れるし」
 今一度拳骨が振り下ろされた。
 「何も積んでなかったと言えば・・」
 「そがいなことが通る話か・・」
 周吉の提案に、拳骨と一緒の返事が返って来る。ナンバン(機関手)のしげさんが、余計なことを言うな、と、目配せしていた。
 「いや。意外とそれは言い得ているかもしれませんで。警察とは、そんなもんやで」
 現行犯でなければ、証拠を求める。それもない事だし、後はこちらの自己申告だけの話であって、知らぬ、と、言い張れば通るのと違うか。乗組員の中で、唯一、警察との付き合いに詳しいボースンの意見に、全員が納得して、船長と周吉に、そう勧めた。
 結局何の咎めだてもなかった。
 戦記談を聞くかぎりには、豪傑を思わせる船長が、意外と小さく見えた。
 死の恐怖も初めてだったが、こんな姿の大人の裏側を見たのも初めてのことだった。
 「そりゃあそうと、船長。あんた手旗が大層達者らしいのう。海軍か」
 一応の事情を聴いたあと、年配の事務官が、懐かし気に話かけた。
 「ええ、信号兵あがりで」船長の顔色が平常に戻った。
 「佐世保か?」
 「先輩ですか?えらいご迷惑をおかけしまして」
 言葉程恐縮の様子は見えなかった。
「ええんじゃよ。俺らはこれが仕事じゃけに。それにしても兄公、よう助かったのう、船長のお陰じゃぞ、お前ら若いもんが死に急ぎしたらあかん。大事に生きにゃあ。折角生き残ったんじゃないか。石炭を運ぶ事がどがいに大事なことか、よおうわかっとるのか、兄公!この船長に仕込んでもろて、ええ船方になれよ」
 俺も海兵団だと言ったその事務官は、周吉の頭をひとつ叩いて、後は船長との話に入って行った。







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