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海洋文学賞部門佳作受賞作品
 
鳰(かいつぶり)の詩
 
田邉 盛(たなべ・せい)
本名=田邉 盛仁。一九三四年生まれ。配管業。
一九五八年「ぶちのめされても」婦人生活懸賞小説一席入賞。翌年「船方一代」家の光懸賞長編連載小説二次選考通過も都合にて以後絶筆。大阪府岸和田市在住。
 
 
 潮止まりの入江には、さざ波さえ見えぬ。
 潮に希釈され消えて行く鼻血を眺めているのも阿呆らしくなり、水面に揺らぐ自分の顔にしかめ面をしてみる。無理に涙を絞って、悲しみの感情をひこずり上げてみた。
 そうしないと、この場の感情の辻褄をあわせ様がなかった。
 海兵団で大関角力を取っていたことを、事有るごとに自慢している船長の牛殺しは、部下の新兵で訓練されていて、的確で破壊力がすさまじい。ただ一発鼻先に決まっただけでこめかみと後頭部に鈍痛が走り、鼻の奥がきな臭くなった途端、鼻孔いっぱいに血が噴き出して来る。
 長崎の島炭鉱から、京阪神に石炭を運ぶ機帆船の“かしき”(飯炊き)の仕事のなかに船番と言う厄介な一項があった。
 空船の時は海岸通りの岸壁に艫(とも)着け出来たが、満船の上りの途中に寄港した時は、船足が深くて接岸出来ない。
 入り江の沖の来島に近い辺りに、投錨して船繋りするのが常だった。
 高輪半島の突端に有る波止浜港が、周吉の乗っている第三恵海丸の船籍港だった。
 航海の上り下りの途中、殆どのようにこの港に帰港する。
 船主の所に航海の報告に行った船長がもらって来る一升瓶の合成酒を、周吉以外の六人で分けて飲み、それぞれの実家に一泊のため帰って行く。
 上陸するのも、帰船するのも、伝馬舟での送り迎えは、“かしき”の仕事だった。
 上陸は、殆ど一緒に揚がったが、帰って来るのは一人、ひとりまちまちに伝馬での迎えを呼ぶ。
 明日までは誰も帰って来ないと思い、初秋の潮の香に酔って艫のデッキで、ぐっすりと眠り込んでいた。
 航海中“かしき”の睡眠時間は殆どない。午前六時のワッチ交替のため、寝ている三人の朝飯を五時半までに調える。
 四時半過ぎからの作業開始だった。
 全員の食事が終わって、片付け洗い物を済ますとデッキ全域、船長室、機関長室、胴の間の船室の掃除。全ての掃除が終わらぬうちに、昼飯の支度。昼飯の後片付けが終わると夕食の仕込み。一息つく間もなく、ブリッジにあがり、
 「舵を持たせてください」
 頭を下げてラット(舵)を握らせてもらう。
 コンパス(羅針盤)の指示に添っているつもりが知らぬまに逸れてしまう。
 航跡が蛇行する。
 「魚雷を避けとるのか!」
 罵声と同時に、長柄のキセルが頭に振り下ろされる。
 夕食後、夜中の交替時に出す粥の支度を終えると、機関室へ降りて行く。
 油の焼ける匂い。単調な焼き玉のエンジン音は、疲れた体に襲いかかって来る睡魔に、一層拍車をかけるものだった。
 荷積みのため炭鉱の港で待機する間も、遊郭へひやかしに行った連中が全員還って来るまで不寝番がつづく。
 荷揚げを待つ港でも同じことだった。
 唯一、ぐっすりと眠れるのは、波止浜に帰港して、みんなが実家に帰っているあいだだけだった。
 深い熟睡の底からひきずり起こされた周吉は、すぐには状況が判断出来なかった。
 明日の昼前まで帰船する筈のなかった船長が、来島通いの渡海舟から怒鳴っていた。
 太陽が高輪山脈の稜線を焼きはじめ、夕まずめの気足るさが入江全体に漂っていた。
 船長を迎えた伝馬から、渡海舟が離れて行き人目がなくなると、いきなり鼻の頭に牛殺しのパンチが飛んで来た。
 「今日は誰も還って来んと思ったから」
 「馬鹿もん!言い訳するな。船番とゆうたら寝ることか、盗人が来てめし食うて行っても知らんと寝てるつもりか」
 鼻血が横に飛んだ。
 船長のビンタは、周吉の顔の半分以上を熱くした。
 少し薄らぐ意識の底で、退社時間か、造船所のスピーカーから入江一杯に流れている歌声に合わせて、歌っていた。
 “星の流れに身を占って・・・こんな女にだれがした”女性歌手のその歌は、職工たちの退社時の音楽には、あまり相応しくはないがと、前月の帰港の時も思った。
 そう思いながらも、繰り返し放送されるのを心待ちしているところもあった。
 船長の瞳に一瞬、狼狽と悲しみの混じった色がよぎったのが見えたように思えた。
 丸を四角と言われても、抗弁も言い訳も許されなかった、自身の過去えの悔しさの鬱積(うっせき)を、拡げられた鼻孔から吐き出す荒い息で、かき消そうと焦っていた。
 父親がボースン(甲板長)で乗っている船に、小学校六年生の夏休みに遊び気分で乗り込み、そのまま佐世保の海兵団に入隊するまで、自分の意志の外で十代が過ぎ去った。
 “かしき”の仕事に耐え、海兵団のしごきにも耐えしのいだ。
 除隊することもなく下士官になり、操船の技術を買われたところもあったが、成績の優秀を認められ(本人はそう思い切っている)鮮魚の搬送船を改造した監視艇の艇長になった。十人余りの部下だったが、一度出港すると、そこは自分だけの王国かと、さえ思えた。やっと掴んだ安住の世界が突然崩れた。終戦の大詔を境に、妻や子や老いた両親の存在を如実に意識しなければならなかった。
 出港、入港の都度、船主から出される振る舞い酒に酔うと必ず出て来る、乗り組員たちの戦中記談を聴かされていた周吉は、船長の苛立ちの心境が判るような気がした。
 一カ月振りに帰ったわが家に、給料を置くだけで一夜も身を置くことなく帰船して来た船長が気の毒にさえ思えた。
 伝馬舟の胴の間の簀板に染み付いた血を洗い終わった頃鼻血も、涙も乾いていた。
 頬の腫れた顔が、差し始めた潮に揺らぐ水面で笑っている。
 
 敗戦から三年目の真夏。
 砂埃の舞上がる塩田の中の道を、祖父と並んで駅から歩いてきた。
 磯の香が一段ときつくなって来た辺りに、古墳跡かと思える鎮守の森がある。
 リンを鳴らしながらやってきたアイスキャンデー屋を呼び止めて、祖父が始めて周吉の前で財布を開いた。
 木陰の敷石に腰をおろし、氷菓をしゃぶりながら祖父は、なにか言葉を探していた。
 二本買って貰った周吉は、溶けて滴るのを気にして左右交互になめながら、祖父が何も言わなくてもいいのに、と思っていた。
 「あ痛あー歯にしみる・・・」
 口を抑えた祖父の手の指は、皺の目尻を拭っていた。
 「お前はずーと優等生で来たんじゃ。何をしても他人(ひと)に負けるこたあない。力じゃて強い、角力も年上(うえ)のもんにも負けるこたあなかった」
 また言ってると思ったが、祖父の安堵の杖を取り外す気はなかった。
 しかしそんな自慢は、これから先の生活に何の、気休めにもならない事だと、周吉にはおぼろ気に感じられていた。
 祖父は船主の前でも同じことを言った。
 「十四にしちゃあええ骨組みしとるじゃないか。ちょっとの間塩辛いめし食ったら、ええ船方になるわい」
 船主の言葉に祖父は、ただ腰をまげるだけだった。
 「今の時期どがいなもんでも腹一杯食わして貰えるとこなんかないですけん」
 「ちっと麦は入っとるが、おかしなもんは食わしやせんよ」
 祖父は、言葉の走り過ぎにただ恐縮して、一層腰を落とす。
 「腹一杯食わしてくれるんじゃて、盛きりめしじゃないんじゃて」
 ここ幾日かの間に何十回も、祖父から聞かされた言葉だった。
 「他所の船は盛きりめしらしいが、うちはそがいなしみったれたことはせん、腹が減ってはろくな仕事ができるかい」
 小学校四年の時から“かしき”をはじめ、石炭船三隻の船持ちになった船主の声は、小柄な体に似合わず胴太い力があった。
 船に帰る船長の漕ぐ伝馬舟に乗って、祖父はまた同じように孫の自慢話をひとしきり並べたてていた。瞬間だが、船長の眉間に不快の影が走ったのが、周吉にはよく判った。
 「たいしたもんはないが、平常俺らが食うとるもんじゃ、お爺さんも食うて行きや」
 船長の指示で若いセーラーが出してくれた胡瓜の漬物と茶漬けの膳に、船員たちと向かいあった祖父は、大仰に旨さを告げていた。明日から孫が空腹を知らずに過ごせることに安堵しきった祖父は、手に持ったカンカラ帽子を数珠繰りし、幾度も幾度も、乗組員に頭を下げながら帰って行った。







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