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 昭和三十三年の元旦を灼熱の赤道で祝い、一月二十二日、吹雪の大西風に震えながらポートランドに再び入港した。
 
 昭和三十三年一月十五日、カナダ、バンクーバーに入港。北緯四十四度、アリュウシャン列島北端に近い位置である。メキシコ暖流の影響とバンクーバー島が冬の大西風の衝立になっているので予想外に暖かく感じたが、入港部署の一航坂本は、船首で寒風に曝され肌を突き刺す寒さに身を震わせた。
 冬将軍に容赦なく首根っ子を抑えられてはいたが、クリュウは至って陽気な気分に浸っていた。次航がバンクーバー/東京の大麦輸送と決まり、半年振りに日本の土地が踏めるとあって、嬉しい夢を先取りして見ていたからである。
 身もすくむ阿修羅の海が牙を剥いて待ち構えているのに後生楽なことだが、だからこそ板子一枚に命を預ける船乗り稼業を続けていられるのだろう。
 然し船長桑原は欧州北米を始め世界の主要航路を究めたベテランで、冬場の太平洋も熟知し、海難事故の頻発する荒天航海を冷静に見据えていた。
 風速二十メートルを超す大西風と、マストを凌ぐ怒濤が日本まで続く冬場の北太平洋は、何処を行っても老朽宝洋丸の安全を保証してくれる処はない。
 北緯四十五度線を行く大圏航路は最短距離だが、最悪の暴風圏で、新鋭船でも時に重大な海難事故を起す。この時期、老朽の宝洋丸にとっては殆ど自殺行為の危険さえある。
 桑原は最も危険性の低い北緯三十度線を西航するコースを選定し、航程五千五百海里、宝洋丸の低馬力から荒天時速力五節と踏み、航海日数四十五日と予想した。四十五日をベースに、機関長金房は相応の燃料を、一航坂本は清水を確保し、積荷トン数を決定、事務長高木は食料の手配に万全を期した。
 清水確保を優先して積載トンを試算した坂本は、ミニマム保証を割りかねないと知ったが、これがやがて出港手仕舞で苦労の種となった。
 
 肝心の集荷が遅れていて、代理店が一週間の沖待ちを連絡してきた。船の無稼働も残念だし、早く帰りたいクリュウは焦らされたが、代理店は船艙掃除の話を持ち込んで来た。
 「沖待ちしている間に船倉を掃除したらどうですか? 着岸してしまうと本船は陸上関係の仕事には一切手を出せない決まりになっていて、沖待ちはチャンスなんですが。費用も最低四千ドルはセーブ出来る筈です」
 四千ドルは円換算百万円を遥かに超す大金である。ドルは当時貴重な外貨で、クリュウの前借りは厳しく制限され、ネスコーヒーか古着位しか土産に買えなかった頃である。
 然しこの寒空で、全身水浸しの一日がかりの全艙洗浄は、健康管理の面で問題がありそうだ。
 坂本は、先ずは船長、士官そして甲板長と話し合った。
 外貨獲得は日本復興の重要国策の一つと、船員たちは冬の荒行も甘受して健気にも水洗いを決定したが、桑原は念の為にと代理店に確認した。
 「代理店さん、清掃組合に対し問題は無いと考えていいのかな?」
 「前例はあります。何かありましたら名刺にある事務所に寄越して下さい。問題ありません。」
 この確認を取った上で、清掃組合員と名乗る少し風体の崩れた二人の男に対して、船長は毅然と応対し、ウイスキー一本を土産に引き取らせたのだった。
 
 防寒衣、合羽で身を固め、海水を浴びながらの洗浄作業を中甲板から開始した。
 寒さに抗し、半ば夢中で鉛粉を流すのだが手足が凍えて萎え感覚が無くなる。熱いお茶と薬罐(やかん)で暖を取りながらの作業だった。
 下艙ではビルジウエルがしばしば詰まり、下半身を浸しての排水で感覚が失せ震えが来た。
 頻繁の交代、交代でやっと凌ぎ、終わるや直ぐに風呂に飛び込み、ようやく人心地を取り戻したが、夕食時に酒で更なる暖を取ったのは云うまでもない。
 清掃検査もOK、全艙には荷崩れ防止柵が組まれ、目張りも終了し待望の荷役かと思った矢先、また一週間待たされることになった。
 焦らされた上、懐も乏しく、ストレスが溜まった若い衆三人がボンド(免税)のウイスキーで舞い上がり、引き込み線の貨車の屋根を奇声をあげて飛び回った挙句、警察に挙げられるという不始末を仕出かしたのである。
 貰い下げに散々油を搾られ、罰金まで払わされては坂本もさすがに切れかかったが、普段は真面目で仕事の出来る奴、大きく息をしてやっと腹の虫を押えた。
 
 荷役前日、燃料清水、バラストの各タンクの手持量を確認するコンデション検査にキャプテン、ジョーダンが来船した。
 逢った瞬間、坂本はどこか見覚えのある顔と思った。
 各タンクを回りながら顔を何度も見直し、頻りに記憶を手繰ったが思い出せず、引っ掛かり落ち着かない。計測を終わりコーヒーで寛いだ(くつろいだ)時、まさかとは思ったが尋ねてみた。
 「貴方はペルシャ湾のラスタンラに行ったことはないか?」
 「海軍のタンカーで何度も行ったが・・・」
 「その時、日本語の手紙を持って隣の日本船を訪ねたことはないか?」
 いきなり奇妙な質問をされ、相手は暫く戸惑っていたが、何かを思い出したと見え、目玉が飛び出しそうな驚きようで、
 「貴方があの時のチーフ(一航)か? 信じられん!」
 二人が出逢ったのは二年前の八月、冷房装置のない戦標船大椎丸の焦熱地獄のような部屋だった。鼻血が出る程乾燥して汗も出ない状況だった。そのとき彼が持参したのは、四国の南方洋上を漂流中、救助された日本漁船の船長の娘からの手紙で、中学生くらいであろうか、一字一字を丁寧に綴り、感謝の気持ちが行間にも溢れていたのを覚えている。
 炎熱のペルシャ湾でたまたま出逢った二人が、二年後に凍寒のバンクーバーで再会しようとは!・・・。
 まるで映画か芝居のような偶然だが、坂本には、この海を舞台とする劇は、海自体が脚色演出したかに思えた。
 漂流の海は漁船の船長とキャプテン、ジョーダンを結び、ペルシャ湾で更に坂本を登場させ、太平洋でこの奇縁の再会を演出したからである。地球を巡る海は生命を創生した神秘そのものであり、暁の海に生を、斜陽の海に死を思う船乗りの性がこの出会いを単なる偶然ではなく何か運命的なものを感じさせたのである。
 二人はお互いに呆然として言葉もなく暫し向き合っていたが、肉親より更に深い、互いが相手に乗り移ったような親近感に包まれた。
 コーヒーは即座にウイスキーに代わり、話題は巡った。戦時の遭難話も恩讐(おんしゅう)を超え、戦後の神戸、横浜に共通の体験を誇り、国の違いを忘れて交歓の夜は忽ち更けていった。
 
 二月六日。手仕舞の日である。
 積載トン数はミニマムを確保して契約違反にならなかったが、満載喫水線を二センチ、オーバーし、船舶安全法に触れる問題を残した。
 海難発生率の高い冬場の太平洋横断を前に、本船の責任を問われかねない喫水オーバーの記録は絶対に残せない。
 腹を括っていた筈の手仕舞だったが、土壇場で緊張し言葉が詰まる。荒天異常の航海を理由に、充分な予備をと訴え、数字修正を頼めば、ジョーダンと芽生えた純粋な友情を踏みにじり、拭えぬ汚点を残すことになる。
 夜来の交歓を思えば到底出来ない相談だ。
 清水を捨てる決心をした。
 「二センチ、オーバーしているが訳を聞いてくれないか。この時期この船で、太平洋を渡るため予備に清水を五十トン持っている。四十トン捨てれば喫水は治まる。今直ぐ捨てるから満載喫水線で手仕舞出来ないか?・・・」
 ジョーダンも彼の苦衷を見通していたようだ。
 「解った。その線でいこう、四十トンの水は必ず捨ててくれ。苦労するな、安全な航海を祈ってる。」
 捨てなくていい・・・を目配せにして立ち上がった。別れの握手で、思いやり溢れる手のぬくもりを坂本は今以て忘れられない。
 
 ここで阿修羅の海へ健気に乗り出す宝洋丸の素姓を紹介しておきたい。
 日本商船が占領軍から日の丸の掲揚を許され、世界の海に再び羽挧いたのは昭和二十年半ばで、日本造船界の建造能力は不足していた。
 買船価格の割安さもあって、多くの船社は中古外国船の買船に動き、宝洋丸もその流れの中の一隻だった。
 宝洋丸は船齢三十年の古色蒼然とした船だが、ブネと云われた戦標船に比べれば、役付は個室、船体は丸やかで余程船らしかったし、何よりも日本再建を担う外航船、海を奪われた船乗りにとって起死回生の職場であり、船名通りの正に宝船だった。
 大正末期、英国で建造され、総トン数五千五百トン、長さ百十メートル、レシプロエンジン二千五百馬力、速力九節、豪州/英国の小麦輸送用に建造された不定期船で、第二次世界大戦を生き抜いた強運の持ち主でもあった。
 宝洋丸の天測と磁気コンパスの航法は大航海時代と基本的に同じ。本船構造は今時珍しく、帆船の伝統と特性を忠実に受け継いでいた。
 三番艙を間に船橋楼と中央楼、更に四番五番艙を介して、船尾中甲板に甲機の居住区がある。
 船長、航海士、船医、サロン食堂は船橋楼、機関士、通信士、事務長、士官食堂、賄所は中央楼。その構造上から士官も部員も一度外に出ないと食事も仕事も出来ず、不便極まりない。雨天荒天となれば船長以下全員合羽が必携となる。特に船尾の甲機部員は荒天時、四番五番艙の露天甲板で高波に浚われる危険に曝される。その為に荒天準備には万全を期す。
 甲板部は朝から出港荒天準備に忙殺された。
 甲板上の荷役用具、移動物全て二重、三重に固縛、上甲板の命綱は欠かせない。
 船艙洗浄、警察沙汰、組合幹部?のクレーム、ジョーダンとの再会・・・色々の事を心に刻んで夕靄(もや)のバンクーバーを後にした。
 
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