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第1部 地方における構造改革への取組
第1章 北海道ニセコ町の取組
1 リアリティのある国づくり
(1)責任の伴う自己決定権の拡充
 現在、いわゆる「三位一体の改革」が進められている。「三位一体の改革」とは、国庫補助負担金の廃止・縮減を一つの突破口にして、補助金と交付税、それから税源移譲を含む税源配分の見直しを三つ一つで改革していこうというものである。より詳しく言えば、地方の権限と責任を大幅に拡大し、歳入・歳出両面での地方の自由度を高めることで、真に住民に必要な行政サービスを地方が自らの責任で自主的、効率的に選択できる幅を拡大するとともに、国・地方を通じた簡素で効率的な行財政システムの構築を図ろうというものである。我々はこの言葉を頻繁に用いているが、「三位一体の改革」を議論するに当たっては、現場の実態に沿った形で進めていく必要がある。現場の実態から乖離した形で改革を進めたとしても、現場ではその改革の成果が十分に実感されない。
 たとえば、子供の食生活の状況の改善を図るため、中学校に栄養士を配置してはどうかという議論になった。しかし、栄養士を配置したところで、その目的を達成することができるかと言えば、甚だ疑わしい。確かに机上の議論としては尤もな理屈であるが、人を配置すれば改善されるなどと考えるのはあまりに安直な発想である。霞が関の会議室の一室でそれについて侃々諤々の議論をしたところで、近所の中学校に足を運んで現場の実態を勉強することが実態に即した実のある改革を実現するためには重要なのである。制度改革に当たっては、マクロ的な視点だけでは不十分であり、現場の実態をよく理解することが極めて重要なのである。
 一自治体の首長としては、「三位一体の改革」とは「自己裁量が発揮でき、かつ使途に自己責任の伴う財源割合を増やすこと」であると考えている。あくまで「割合」であって現下の財政状況を見ると「総額」を増やせということではない。これが自治体の責任感を生み、地域の自立を促すことになるのである。
 地方財政は「三割自治」と揶揄されるように、自治体が持つ自前の財源割合が低く抑えられ、国の直接収入が多いため、国庫補助金による財源移転がなされているが、国庫補助金制度が地方の考える力を削ぎ落としたり、公的仕事への地域独自性の反映を阻害したりと弊害は多いことは否めない。
 現在の国と地方の財政は歳入と歳出が逆転しており、その結果、自治体としては依存財源に依拠せざるを得ず、自治体自ら考え、地域の独自性に応じた施策を打ち出すことができなくなってしまっている。
 
(2)国庫補助制度は原則廃止
 国庫補助金は、自治体の財源確保が容易になるなど、かつては利点が多かった。しかし、補助要綱が詳細に決められ、地域の特性を生かした独自の事業は、全国画一の要綱に合致しないため財源調達が難しく断念するケースも多い。地域の特性を生かそうと自治体自らが知恵を絞って、汗を流して事業を進めたいと考えれば考えるほど財源調達が難しくなるという二律背反に陥るのである。
 たとえば、一体型の二つの施設の、すぐ隣同士に別々の玄関が付いた奇妙な公共施設を目にすることがあるが、本当は、玄関は一つでよい。しかし、二つの玄関を建築しなければ要綱に合わず、全体の補助金がもらえないことになるため、財源確保のために明らかな無駄を犯しているのである。
 そもそも自治体の常識としてどのような基準で事業を判断するかというと、一般財源の多寡によって判断することになる。すなわち、10億円の事業と5億円の事業があったとして、前者の場合は、補助金が7億円入るため一般財源としては3億円でよいが、後者の場合は、補助金が1億円入るとすると一般財源は4億円になる。したがって、自治体としては前者を選択することになる。それでは、その10億円の事業が当該自治体にとって最適な事業であったかというと必ずしもそうとは言えない場合がある。橋を造るのに普通の石で十分なのを、わざわざ大理石で造るということになると、それは当該自治体の住民にとっては豪華な橋ができて万歳ということになるかもしれないが、日本全体にとってはマイナスの効果をもたらすことになる。1億円の補助金で国として果たすべき役割は全うすることができたのに7億円も投入することになってしまっている。この差額である6億円が他の事業に配分できれば、国民経済的には何億円もの効果を発揮する可能性があったわけである。あるいは、自治体レベルでも公共事業以外の別の必要な事業に投入できたら住民にとってもよいわけである。必要度合の低い事業を止めて、その財源を福祉や教育に回して欲しいという住民の意見があるにもかかわらず、現在の縦割りの補助制度の中では、ある事業を中止しても、その財源が、省庁や事業の縦割りを超えて、他分野にまわることはあり得ない。補助制度に頼らざるを得ない現実の中では、住民が当たり前の感覚で、地域の内の事業の優先順位を決めることは簡単ではない。
 この当たり前の感覚は、普通の経済感覚を有していれば当然考えられるものであるが、この当たり前の感覚が通じないところが問題なのである。
 地域の独自性を発揮し、効率良く財源を活用するためには、地域の創意工夫を阻害し、誤った金銭感覚を助長する補助制度は原則廃止すべきである。地域が自主的判断で使途を決定し、その結果に自治体みずからの責任が伴う包括的な財源移転の方式が必要なのである。これによって、取るに足らない金額の補助金をもらうために行っている膨大な作業がなくなり、また、国及び都道府県の補助制度をこと細かにチェックする職員が大幅に減る上に、財源移転の煩雑さが軽減され行政コストが大幅に削減されるのである。
 しかしながら、ここで注意が必要なこともある。
 第一に、福祉や教育関係については義務的制度を維持するための財源補填的補助や負担金というものがあり、それらについてこれまで述べてきたロジックにより廃止しようというのは危険であるということである。
 第二に、法規制により自治体が義務的に対応せざるをえないものがたくさんあることである。平成14年12月1日より始まったダイオキシン対策や今年の秋からの家畜糞尿対策等の法規制は、地方の財政の事情を調べた上でのものか疑わしい。規制に係る事務の実施に必要な財源を確保しないと、当然、現場では対応できなくなる。したがって、法律によって義務的な規制を課す場合は、当該規制に係る事務の財源措置についてあらかじめ十分見通しをつける必要があるのである。
 
(3)税源移譲と課税自主権
 前述したとおり、国と地方の歳入と歳出には乖離がある。そしてこの差によって国が地方に対して各種の制約を課し、あるいは歳出の非効率をもたらすことになっている。したがって、まさに三位一体で唱えられているように、国と地方の歳出と歳入の乖離を合理的なレベルまで縮減する必要がある。この縮減、つまり税源の移譲によって、国の不要な関与から地方を解き放つことで行政の効率化を図り、責任の伴う自治体経営を保障することが必要である。
 しかし、日本全体を見渡したときに全国各地の経済活動には相当のばらつきがあるのが事実である。たとえば、同じ面積の土地がニセコ町と東京都であったとすると、そこで行われる経済活動から発生する所得には相当の開きがあると考えてよいだろう。にもかかわらず、同じ財政や経済の物差しで両者を見てしまうとそこには大きな問題が生じることになる。
 たとえば、国税たる所得税率を引き下げ、その引下額に見合う分だけ住民税の所得割の率を引き上げるという議論があるが、所得割の税率の引き上げによる増収があったとしても、それに伴う交付税や国庫補助金の財源の減少は増収分の額をはるかに上回ることになる。すなわち国と地方の歳入・歳出の乖離を埋めることは重要であるが、十分スキームを考えた上でやらないと地域格差がますます広がる結果を招くことになるのである。
 また、課税自主権の拡大という問題がある。地方が独自に課税できる課税自主権の拡大も重要だが、そのことだけで地方財政の課題が全て解決するわけではない。経済活動にバラツキがあるため、課税客体に乏しい地域も多く、課税自主権の強化だけでは、さほどの税収増は期待できない。課税自主権の拡大は、地域に限定的な、ある種独自性の強い課題を中心に活用されるべきであり、国全体に共通する課題まで、課税自主権の行使による歳入で賄うのは無理があるのである。
 さらに、近年の国民あるいは住民の税金に対する認識というのは、その増税によって自分にどれだけのメリットが及ぶのかというところに重きが置かれている。本来、税金というのはその非報償性が本質であるが、最近は必ずしもそうとは言い切れないのである。そのため、増税によって特に使途に縛りのない一般財源を補おうとすると住民の反発が強いわけである。したがって、一般財源まで課税自主権の拡大によって補おうとするのは極めて難しいのである。
 
(4)交付税制度の必要性
 日本の国土は、都市や地方、工業地帯や農山漁村など多様性がある。それら地域では、一定面積当たり、あるいは人口一人当たりの収益性に大きな差がある。こうした差がある中で、国民全体に一定程度の公的サービス水準を提供するための財源を全ての地域が自前で確保するのは不可能に近い。だから現在の地方交付税制度の果たしている役割は極めて大きい。
 一般に言われている俗説は、課税自主権の拡大は地方自治の王道であり、自前で財源を調達して仕事をしてこそ責任ある財政運営ができるというものである。この俗説は、マスコミの影響か、当たり前のように受け入れられている。しかし、地域社会の経済はその時々によって浮き沈みもあり、日本国という中で、地域によってまだら模様になることはあるだろうが、その経済を支える基礎としてのインフラの社会システムは国全体で国民として地域社会に付託するという考え方を持つ必要があるのである。それこそが交付税制度の哲学であり、一般財源の交付というものを正当化するロジックはここにあるのである。
 しかし、近年、交付税制度に対する信頼が著しく損なわれている。なぜかというと、その端緒は昭和60年代から進んできた一般財源化にある。つまり、本来補助金や負担金を廃止してその分を交付税措置するというのは三位一体の改革の趣旨からして大いに歓迎されるべきものであるが、確かに基準財政需要額に盛り込まれたとしても、交付税の総額が増えない以上、実額が入ってくると言い切れないところに原因があるのである。一般財源化しましたよと言われたところで実際にその分の実額が自治体の財布に入らなければ「一般財源化」など何の意味もないのである。
 また、起債の問題もある。すなわち過疎債や辺地債は将来の元利償還金の一定割合が交付税措置されており、上述の議論と同様交付税の総額が増えない以上、どれだけ実額が将来的に入るかは極めて怪しいのである。
 たとえば、ニセコ町でも、こうした有利な借金を多用して地域の基盤整備を行い、町債残高の約52%が国から措置される予定になっている。しかし現在、保障していた元利償還額の実額が措置されてはおらず、合併特例債のように、今後もこの仕組みに過度の依存をすることは大変危険なのである。
 この問題を解決するためには、まず、交付税特別会計で将来に渡って保障を約束している起債元利償額の総額を明示し、将来の交付見通しを示し、さらに単年度ベースで、交付税として具体的に交付された実額と算定基礎数値の乖離も示すという手段が考えられる。あわせて50兆円近い交付税特別会計の借入金返済の具体的道筋を示すことも重要であろう。そうしなければ地方財政の状況を示す起債制限比率など各種数値が意味のないものとなるばかりか、交付税制度と起債元利償還額補填に過度の期待を抱いた自治体の財政運営をさらに危ういものへと導く可能性があるのである。
 このように交付税制度は非常に意義のあるものであるが、上述したような問題について解決しなければ、交付税制度自体に対する信頼は回復できない。
 
(5)現実味のある当たり前の金銭感覚を
 これまで行われてきた三位一体の改革というのはどうも絵空事の域にとどまっていると言わざるをえない。単純に、市民生活への影響を最小限に抑制して少しでも住民が納得できる形で財政の建て直しをはかろうというのは、あまりのマクロの議論であって、実際には、この改革によって住民一人一人の生活がどのように変わるのかという視点を失ってはいけないのである。まさにひとつひとつ個別具体的な事例、事業ごとにその是非を検討していく必要があるのである。
 ニセコ町においては中学校の建築に当たり、当初は新築を検討していたが、最終的には費用を大幅に縮減した上で改装することになった。最初に述べたように一般財源の持ち出しとしては改装の方が新築より多い。また、図書館についても新築ではなく、ニセコ町が古い郵便局舎を譲り受け、それを改装することによって対応した。当然、中学校同様、一般財源持出率は改装の方がよりかかる。一般財源持出率が高い事業を選択することはこれまで考えにくかったものであるが、地域にとって必要な事業を選択し、その財源を調達するというのが金銭に関する当たり前の感覚である。
 以上のとおり、三位一体の改革の成功の鍵は、自治体の現場の実態及びそれに裏打ちされた住民にとって当たり前の経済感覚を持つことが重要なのである。
 
(6)終わりに
 現場の実態あるいは現場の意見を踏まえ、まさに霞が関にいながら現場にいるような「リアルさ」を持って「三位一体の改革」に取り組んでいく必要がある。それが「リアリティのある国づくり」なのではないだろうか。我々はそのことを肝に銘じて日々努力しなければならない。







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