講演
「聴覚障害教育の可能性を求めて《聴障児からの贈り物》―表現教育を通して―」
福島県立福島西高等学校教頭 青木淑子
1 はじめに
福島県立聾学校の玄関脇に、一つの石碑がある。41年前の卒業記念に建てられたという事だが、そこには、「前の者は後の者を 後の者は前の者に」と刻まれている。
私は本日、全国各地から福島においでになった皆様にお話をさせていただけると知り、この石碑の言葉を思い出し、僭越ながら時に「前の者」として、また時に「後の者」として、今日まで私の人生を彩ったかけがえのない様々な事柄を紹介しようと考えた。
私は今年で教職生活34年目を迎える。普通高校の国語教師から始まった私の教員人生は、15年目におおきな転機を迎えた。聾学校に転勤が決まったのである。それまで一切障害教育について経験も知識もなかった人間が、よりにもよって聾教育の世界に踏み込んだ。人生とは思いもかけないことが起こり、その思いもかけないことをプラス思考で受け止めるか、マイナス思考で受け止めるかが、その人の人生を幸せにも不幸にもする。「運」が良いとか悪いとかは、結局はその人間の生きる姿勢の問題なのだと思う。
では私の運命は「吉」だったのか?「凶」だったのか?
勿論、大吉だった。
今日はこれから、いかに私の運命が大吉であったかを、聾学校に転勤してから出会ったたくさんの聾児・同窓生・保護者・聾社会にかかわる方達からいただいた贈り物を紹介していくことによって、皆さんに証明していくことにする。
それはとりもなおさず、一人の全く聾教育について無知であった教師が、悪戦苦闘・試行錯誤の末に見つけることのできた確かな「可能性」でもあることを申し添える。
2 こどもからの贈り物
(1)「ことば」
言葉は伝わった時、初めて「ことば」になる。
私は聾学校に来て、このことを生徒から身をもって教えられた。
私が初めて福島県立聾学校に赴任した時(中学部に所属したが)、授業は勿論、学校生活の全ての場面で口語がコミュニケーションの手段であった。
手話は禁止されていたという、今となっては「伝説」の時代であった。そんな中で私は「聾学校の教育は言葉を教えなくてはならない。国語の教師は特にその使命を負っている。」と先輩教師から申し渡された。ゆっくり大きな口を開けて話せば生徒は聞き取れる(ハズ)生徒達も大きな声を出して話すので通じる(ハズ)・・・しかし、これは集会や授業に出るとすぐに、そうではないという現実を思い知らされた。生徒は先生達の話をタイミングよく相づちをうって聞く。しかし、その内容のほとんどは伝わっていない。
生徒の話も耳なれていけばある程度は聞き取れるが、どんなに努力しても全く何を話しているかわからない生徒もいる。お互いによく伝わっていないことを理解しあってあまり複雑な内容や言い回しはしないように努め、中学生としては大変幼稚な言葉で会話がなされていく。これは「ことば」を教育しているといえるのだろうか。先生と生徒のなれ合い的なお互いの「思いやり」や「優しさ」は将来社会で生きていく上での力に結びつくのだろうか。聾教育については素人の私が初めに感じた疑問であった。
国語の授業の中で、私は生徒達と語り合いたかった。漢字の読み方や誘導尋問的な質疑応答で進める読解など、ドリル学習でたくさんである。生身の人間同士が教材を通して感想や意見を交換してこそ、国語の学習といえる。ところが、私と生徒には共通する言葉がない。伝え合う手段がない。「筆談」がその代わりをなさないことも私はこの時に実感した。リアルタイムで思いが伝わっていかないのである。
日本に生まれ日本で生きていく生徒にとって日本語が大切なことは当然である。しかし、そのことすら伝える手段がなければ理解できないではないか。「大切」だと理解して初めて学習する意欲も生まれてくるもの・・・学びの意欲というのは「必要」「大切」と本人が実感しなければうまれない、押しつけることはできないのである。
私は、2年目に中3の担任を持つことになり、思い切って手話サークルに通い出した。生徒が、休み時間や給食を食べながら話していることがようやくわかり始めた時、彼らはやっと私を「同じ言語を持つ人間」として受け入れてくれたように思う。高等部に進む悩みや迷い、家族との問題・・・こんなにも話したいことがあったのか・・・と、これまで頑なに自分たち聞こえる人間の言葉を押しつけてきた傲慢さを心から詫びながら、「感情に乏しく、話も目の前のことしか話せない」と聞いていた生徒達と過去の思い出やこれからの夢について、話し合った。耳が聞こえる私は、音声言語を何の不便も疑問も感じずに身につけそれを唯一の「ことば」として生きてきた。しかし、耳の不自由な彼らにとってもそれは唯一の「ことば」となるのだろうか。彼らには彼らの「ことば」があったのだ。
この発見は私に、「伝わることば」こそ教育の原点であることを教えてくれた。
(2)豊かな表現力
生徒達の話がわからない、私の話すことも生徒には通じない。異次元の世界へ迷いこんだようにコミュニケーションのできなかった日々。私は寂しかった。逃げ出したくなる毎日の中でふと考えた。この私の切なさ悲しさは聾の生徒達がいつも感じている悲しさのはずだ。私の悲しさに比べてもっともっと深く大きいはずの・・・。自分の意気地なさとわがままが恥ずかしくなった。何としてでも気持ちを通じさせる努力をするべきなのだ。それからは毎時間のワンマンショー。手話も指文字もできなかった当時の私は、全身でこちらの思いを伝えるしかない。表情、身振り、時には教科書の文学教材の登場人物一人ひとりを演じ分ける。一時間の授業が終わるとグッタリ疲れた。しかし、必死で表現する私を見る生徒達の目は真剣だった。何と素晴らしい目をするのか。聾学校の生徒は本気で何かを伝えようとする人には、どんな小さな表情・身振りもみのがさない。この目に見つめられて、私はやっと歩き始めることができたように思う。
やがて、彼らと同じことばを持つようになった私は、彼らの表現の素晴らしさに目をみはるようになる。
聾学校の生徒は感情に乏しい、感情を豊かに表現できない・・といわれるが、それは表現の方法に問題があるのではないかと考えたのもこのころである。
そもそも生きとし生けるもの、感情のない者などありえないのだ。ただ、中学高校ともっとも多感な時期にそれを表出しないで過ぎてしまうと、その感情も次第に乏しく冷たく固まってしまうのかもしれない。豊かに柔らかく感情を表現しようとしている生徒達も「音声言語」だけで表現することを求める人々の前では、困惑し、ついにはあきらめてしまうのではないか。
国語科の指導には「読む」「書く「」話す」「聞く」の4領域があるが、私はさらにその土台として「感じる」という領域があると考える。「話す」「書く」といった表現技術を云々する前に、何を話すか、何を書くかが問題なのだ。表現する対象は何かに感じない限り見えはしない。私は、能力に関係なく誰もが持っている「感じる心」を呼び起こし、さらには表現する楽しさ喜びを知る国語科教育を目指そうと思った。
表現すると言うことは自分の心と向かい合い、周囲を見つめ問題意識を持つことから始まる。それは《生きる》ということそのものでもある。表現力の乏しさは生きる力の乏しさにつながっていく。
そこで私は、この表現力を育てることを国語科指導のテーマとし、その方法として演劇を取り上げることにした。「ドラマとは、教育の他のものと同じに、大多数のものである。世界のどこに生まれても、どんな身体・知能でも、またどんな環境でもドラマのできない子どもというものは存存しない。」「教育は個人のものであり、ドラマは個人の個性のものである。」(ブライアンウェイ)ドラマをすることによって、自己と向かい合い、自己を表現していく中で、自己が変化していく。そこに観客という第三者が存在する演劇は、さらに複雑な人間関係の中で、自分を認識していくことになる。まさに、人間教育そのものである。
聾学校に転勤した翌年から、私の表現教育は始まった。
1985年 「注文の多い料理店」中学部3年
1986年 「どろぼう仙人」中学部3年
1987年 「プンナよ木からおりてこい」中学部3年
1988年 「雪わらしの里」中学部3年
1989年 「夕鶴」中学部3年 「ミッドナイト・ファンタジィ」高等部2年
1990年 「青い鳥をさがして」中学部3年 「現在静かに燃えて」高等部2・3年
1991年 「ブレーメンの音楽隊」中学部3年 「小さな生命の祭り」高等部2・3年
1992年 「風のうた」高等部
1993年 「春を行く」高等部
1994年 「夢のかけら」高等部
1995年 「地獄破り〃95」高等部
1996年 「君の手に青い鳥」高等部
1999年 「風のうた」高等部
2000年 「遊びのススメ」高等部
2001年 「TONO―恋―」高等部
国語のカリキュラムに「表現」の時間を設定し、1学期は表現の基礎を学び、2学期に演劇の発表、3学期には発表後のまとめとして記録集を作る・・・と、年間を通して計画的に実施していった。中学部では、技術家庭科・美術科が2学期の発表に合わせて舞台道具や衣装・背景などの制作を授業計画にいれてくれた。この教師の協力体制はどこからきたものなのか。それは、生徒の変容を目の当たりにしたからにほかならない。「話す」こと「聞く」ことを緊張と苦痛の中で強いられてきた彼らが、「言葉」からの解放の中で、心と体が解き放たれ、表情・身振り・・・自分の全てを使って人に伝えたいと思うこと、それが彼らの生き生きとした表現を生み出していった。聞こえない自分の中にある表現の芽はそれが認められ自信と誇りを持つことによってますます磨かれていく。
話の苦手なA子が50を越す台詞を暗記し表現した。文章の読み取りが苦手なB子がどう考えても台本の理解がなければ不可能な動きを適切に表現した。話が上手といつも褒められていたC夫が、話は口先で単語を並べるものではないことを知り、心を伝える表現を実現した。
数え上げればきりがない生徒達の表現への挑戦と成果は、人間の持つ表現の無限の可能性と素晴らしさを教えてくれた。
「表現」することへの意欲と、それが相手に伝わることへの自信と喜びを得た時、人間はどれだけ輝くものか・・・。
(3)柔らかく優しい感性
「好き」か「嫌い」、「バカ」か「利口」、「いい人」か「悪い人」・・・聾学校の生徒にはファジーがない。他人に対する厳しいジャッジと頑固な思いこみは、時として「固くて狭くて、そのくせどんなに世話になっても目先を過ぎればそれで『おわり』の人達」等と言われてしまう。
これは勿論誤解なのだが、しかし、ある一面ではあたっていなくもない。ただ、聾学校の生徒だから・・・ではなく、人との関わり方をどう学ぶかによって誰でもそうなる可能性があることなのだ。
幼い時から小さな限られた集団の中で育つ子どもは、人間の見方に幅がない。聾学校で、数少ない友達と、また先生ともマンツウマンといわれる1対1の関わりで育つと、自ら人を求めなくても、いつも目の前に準備された関わりがありそれで十分だとおもってしまうのである。小さな物差しで計れば人も小さくなる。
演劇という表現活動に取り組む中で、生徒達は世の中には「バカ」と「利口」だけではなく、同じ人間の中にバカな面と利口な面があること、あることができなくても他の事はできる、人間というのはそんなに簡単にわかるものではない、そんなに明確に決められるものではないことを知っていった。できるだけ多くの人との出会いの場をつくり、人と関わることの楽しさを発見して欲しいという願いは、高校演劇連盟への加盟となり、また現在まで続いている身体表現セミナーの実施として具現化している。
高校演劇連盟に加盟することで、彼らは同世代の高校生と同じ土俵で「表現力」を競う。競うからには「勝つ」という目標がある。運動でも文化活動でもコンクールとか試合と名のつくものは皆勝つために参加するのだ。「出るだけでいいから・・・」などという参加の仕方は、「勝つ」ために血のにじむような練習をしているチームに対して失礼であろう。聾学校も演劇コンクールに参加するときは「勝つ」ことを目標に全国制覇を合い言葉に厳しい練習を積み重ねる。高等部全員参加の部活動は時間の確保もなかなか苦しい。放課後の練習だけでは2学期だけという時間の制約の中でとうてい間に合わず夜間の練習が続く。「疲れる」のは当たり前だ。「苦しい」のも当然だ。当たり前のことはいちいち口にだすのはやめよう。いやならやめるしかない。しかし、一人として必要でない人はいないのだから、一人がやめたら皆やめよう。・・・私が言い続けた言葉だった。そこには教師も生徒もない。同じ舞台を造るものとして常に私は生徒と真剣勝負をしてきたように思う。よく夢を見た。ある日、体育館に一人も生徒がこないという・・・現実には15年間、生徒達はくじけそうになる仲間を時に激しく叱咤し時に優しく慰め・・・「青」「鬼」と私の名前を手話で表現しながら私が夢のような残酷な日にあわないように、ひとえに優しく柔らかい感性をしめしてくれた。
3 保護者からの贈り物
(1)感謝の心
88年3月「プンナ」を演じた生徒の卒業式に親からの言葉
「うちの娘はよく手紙をくれます。でも、その手紙が最近面白くなりました。前は決まったことしか書いてなくていつも同じだったんですが・・・このごろ、いろんな事がかいてあるんです。どうも劇が終わった頃からなんですよね。」自分の表現が伝わったという実感は、表現することへの自信と意欲を生み出し、さらなる表現方法をものばしていく。手紙という文章表現を使って大好きな家族にもっと自分の生活や気持ちを伝えたいという思いが生徒の中に育っている事を、親は見逃さなかった。子どもの成長を感謝する気持ちが、そのこの次の成長のステップになることを私は保護者から教えられた。
(2)我が子への誇り
一人の子どもの後ろには「親」「親戚」「地域社会の人々」がいることを忘れてはならないといわれる・学校が大きく変わる事を必要とされている今、このことの意味をよく考えなければならない。
勿論、「親に気を遣う」「親の目の色を伺う」ということではけっしてない。親をも巻き込んだ教育活動・・・子どもの変化が親の心を開き、子どもの感動が親の心を動かす・・このことを私は演劇活動の中で実感した。
『娘の成長』
国分慶子
平成3年3月23日、東京勤労福社会館ホール、福島県聾学校高等部2年生10名が演じる「現在静かに燃えて」の幕が降りても、会場内は感動の熱気につつまれ嵐のような拍手がなりやまなかった・・この夢のような光景に涙が止まりませんでした。
私自身聾唖者として生まれ、聾であることの苦しさを幾度も経験しました。
(中略)
娘の美也子がこの舞台にいる。こんなに大勢の人達の前で、いきいきと演技をしている、・・・涙がふいてもふいてもあふれてきます。美也子がうまれてからこれまでのことが流れては消えていきます。親子で言葉が通じなくて心を伝えることのできないもどかしさに、何度泣いたことか・・・でも今のこの涙は、喜びのうれしさの感動の涙です。本当にいきていてよかった、この子をうんでよかった、いままでのつらかったことが全部消えていってしまったと思いました。
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「現在静かに燃えて」の東京公演は出演生徒10名の家族が駆けつけてくれたが、特にお母さん達の支援は大きく、「息子の追っかけ」「お父さんとファンクラブつくった」とうれしげに話す心意気は、その後も生徒達の学校生活を教師と共に支え続けてくれた。
4 ろう者からの贈り物
―同窓生を初めとする成人ろう者―
(1)連帯する心
17年前の突然の聾学校への転勤は、私の人生にとって「ろう社会」との出会いのきっかけを作ってくれるものであった。「ろう社会」というこの未知なる世界がどのようにして私の生活に深く入り込んできたかは資料をお読み頂きたい。
現在、日本の社会が社会としての教育力を失っているかのような危機的状況の中で、ろう社会はコミュニティーとして、若い力を育てていこうとする「実績」を伴った熱意を持っている。かつての教育(口話教育)への反発からくる聾教育批判や聾学校否定論もあるが、反面、若い力の育つ「聾学校」への期待も大きい。連帯は今や聾者だけのものではなく、ろう社会と聾学校と親、地域と・・・広がっていこうとしている。福島も今年で5回目のフォーラムを開こうとしているが、腰のなかなかあがらない聾学校を主管団体として主催の聴覚障害者協会との連携を実現させたものは、彼らの信頼を裏切らない誠実な支援であったと思う。
(2)生きる力
初めて高等部の3年生を担任した時、私は3学期に実施している「卒業講習会」で成人聾者の話しを聞くというプログラムを作った。当時、会長であった板橋正邦氏にお願いしたのだが、氏の話は聾者の権利を一つ一つ闘いの中で勝ち取っていった人間の「強さ」と「重さ」を感じさせるものであった。それは単に活動家としてのものにはとどまらず、人間としての大きさ深さを表していた。この時、話を聞いた生徒達は「野次馬精紳の大切さ」「一押し二押しオシの一手」というドキッとするようなしゃれを通して、何事にも興味関心を持つ事が何よりの情報キャッチにつながることやひるまずに生きることの痛快さを教えられた。
若者の政治離れは聴者に限らず、聾者も又「ろうあ運動」にそっぽを向く者が増えていると聞く。地域のろう社会の行事に参加すると確かに高齢化がみられる。しかし、熟年老年者の中に混ざって卒業生が青年部の部長であったり司会進行を努めていたり何よりも同窓会の役員としてセミナーやフォーラムの運営を聾学校の教師とともに運営していく様子を見るとまさに「生きる力」を実感する。
5 おわりに
とりとめもなく「幸せな教師」である自分を、たくさんの贈り物をみせびらかせながら語ってきたが、これを一つのサクセスストーリーだと片づけないで欲しい。
リタイヤ直前の教師の自慢話だと聞き流さないで欲しい。私達、「先生」と呼ばれる者は、それぞれが出会った子どものサクセスストーリーをつくらなくてはならない。自慢話で一晩や二晩はつぶせるぐらいであって欲しい。
最近よく「生徒の質が下がった。」「先生の頃の生徒とは違うんです。」という言葉を耳にする。そうだろうか。そんなに数年前の聾学校の生徒は優秀だったのだろうか・・・そんなことはないはずである。学力的にもそんなに違いはないと思う。子どもが変わってきたのでなければ、周りの大人が変わってきたと考えるしかない。演劇活動にはいると生徒が疲れることを心配する。ストレスがたまることを危ぶむ。ではいったいつかれもストレスもなく生きていける場所がいったいどこにあるというのか・・そんな事を心配するならその疲れやストレスとどうつきあっていけばいいかを教えてやって欲しい。生徒の幼児化は、私は周りの大人の幼児化を反映していると思っている。疲れたりストレスをおそれる教師が、騒いでいるとおもえてならない。生徒はそんなに弱くはない。自分中心で他人が目に入らない人間が増える中で、こんなにも人間の関わりを求めその中で自分を表現して他と共に歩こうとする生徒達を、その生徒達の活動を強く応援し支えていく場として聾学校が合って欲しいと願う。
(この講話の内容は平成14年度東北聾学校長会・PTA会長会研究協議会においても発表。)
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