日本財団 図書館


レポート(3)
「教え子との再会から中学時代の教育を検証する」
村上栄子(特定非営利団体法人つくし代表)
 
再会
 今年3月「たましろの郷」の花田克彦先生の講演が名古屋でありました。
 そこに、E君と両親が参加していました。
 会うなりお母さんが、ある入所施設のパンフレットを取り出して、「ここはいいところと思うかどうか」と聞いてきます。短期入所のための施設を探していると思い、対応していると、少し話が違います、それで、さらに聞くと、今通っている通所授産での生活がいよいよ限界に来て、お母さんはE君を入所させる施設を探しているのでした。卒業後就労した通所授産で最初の2、3年はそこの働き頭でしたが、その後だんだん本人の『問題行動』が顕著になってきて、精神科で投薬を受けていることは知っていました。今は状態がさらに悪くなって、施設の服をびりびりと裂いて、それを着ようとしないし、ほとんど通所できなくなっているというのです。本人は生気のない顔をして私にも反応しませんでした。
 その日、講演後花田先生を紹介し相談に乗っていただきました。
 その時の私は、つくしの会はまだ任意団体でようやく放課後の学童保育のようなことを始めたばかり・・・、つくしにまかせて!とは言えませんでした。
 しかし、この日の出会いがきっかけになり、私はE君と急接近していくことになります。
 4月15日大学病院の精神科へ付き添いました。驚くことに、主治医の先生は手話ができず自閉症も専門外と言いました。主治医はお母さんからの情報より施設からの報告書のほうを情報源としていました。
 しかし、お母さんはそんな先生を頼りにして「うちの子はもう通えない、措置を外して欲しいと先生から授産所に言って下さい」と頼んでいるのです。
 お母さんと授産所の関係は完全に壊れていると見ました。
 16日E君の家族に「つくし」に来てもらい1日指導員さんとすごしてみました。
 指導員さんとは手話と筆談でパズルをしたりオセロしたりしました。
 17日福祉事務所に同行しました。お母さんは通所授産を止めて、入所施設に入れたいといいはります。「私はもうぼろぼろ、親の葬式にも行けなかった。この子とは暮らせない。」と泣くのです。その横で無表情にE君が座っています。しかし、すぐに入れる入所施設などあるわけがありません。むりやりどこかに入れたとして、果たして今のE君に耐えられるか。ぼろぼろなのはE君なのです。
 私は、見学に行ったという入所施設の名前とつくしの名前を並べE君に「どっち?」と聞きました。E君はためらわず、つくしを指差しました。
 こうして次の日からE君はつくしに通い始めました。
 
中学時代のE君
 中3の1年だけ担任しました。当時、私は一宮聾学校から転勤して2年目で、ろうについても自閉症についてもほとんど知りませんでした。
 しかし、担任して6月に彼の自閉のこだわりが並みのものではなく、これを受けとめるためには学部の教員の協力をきちんと得る必要があると思い、会議でレポートしたことを昨日のことのように覚えています。前提として問題行動を指摘しないで彼をまるごと受けとめること、そしてそれを学部全体で取り組むということがありました。
 やがて、その年の秋頃には他の先生の協力も得て天才的な遊びの能力を発揮し始めます。
 板ダンボール(180×90)で巨大パズルを次々と作りました。
 ドミノ倒しのために板を切って大量のピースを作り、教室から廊下までドミノをはりめぐらせては倒して遊びました。その造形は天才的でした。
 これを秋の文化祭で全部公開展示しようとさらに集中している頃に彼に異変が現れました。
 これまで、ずっと家に帰れず、7時8時までも校門で行ったり来たりし、それをお母さんがじっと待っていたのですが、その彼が、ある日3時30分になったら、かばんを持ってさっさと帰っていったのです、それが、いろいろな行動がスムーズに変化していくスタートでした。
 E君のコミュニケーションについてですが、コミュニケーションの素地であるやりとりや順番といったことができませんでした。たとえばトランプをやるとルールはすぐ覚えるのですが一人トランプで最後までやってそれで平気でした。指文字カルタ、動作カルタなどをしましたが、文字とかことばにはどうしても壁がありました。彼は実は数学に特異な反応をする生徒で、その頃よく黒板に「素数5000〜10000」と書いて、数字を並べ、素数ではないものに×をつける遊びを一人でしていました。介護職員の女性が×をつける作業に割りこんでいって、とうとうそれがE君とのやりとり遊びになりました。
 E君は卒業して高等部へ行ったのですが、毎朝素数表だの方程式だのを書いてきては、この介護員さんに解けと持ってきていました。数式がラブレターになっていたのです。
 
卒業後
 そして、卒業して授産施設に就労するのです。しかし、今に至るサインはそのころから見えていました。
 まず、4月、5月土曜日になると学校に現れ、図書室から自分でオセロゲームを持ってきて、私たちの教室に入ってくるのです。一緒にやって欲しいのでした。
 6月になって、突然ある平日の朝、学校に現れました。そして自分の所属していた産業工芸科の作業服を持ってきて着て、作業をしようとするのです。
 『ぼくはここがいい、もう一度ここでやりたい。』という訴えでした。
 私がお母さんたちとつくしをたちあげるに至った原点も、この日のつらい体験にありますぐ彼にカレンダーを見せて「今日は、授産所は休みでいいよ、連絡しておく。けれど明日はここに行くんだよ」と、私たちが告げた時の彼の絶望的な表情。
 
ろう重複障害学級を担任した10年から
 私はこのE君を担任した後、10年間で重複学級の主任として25人を高等部に送ることにかかわりました。E君を担任した時にはまだわかりませんでしたが、ろう重複障害ということに対する専門性・・・教育技術というものは存在すると私は考えます。
 「中学時代の教育」に限って柱にしてきたことを話します。
(1)視覚情報を提示できる技術を鍛える。
 その人の抱えている課題をろう重複障害の観点から捉える場合、視覚情報の提示技術をいかに高めるかが教員側の課題としてあります。
 たとえば、ことばの獲得では、身振りから手話への移行が有効なのは誰でもわかるのに、文字になるとひらがなから入る教員がほとんどです。
 私は文字を獲得させたいと思うときには、ためらわず、視覚言語の漢字から導入します。手話に漢字をマッチングさせ、その後必要があればその読み方としてひらがなを必要に応じて教えます。
(2)情報の入り方を分析する。
 概念形成を始めとして、さまざまな認知能力を高める上で、視覚情報の果たす役割は絶対的です。しかし、絶対的な重さゆえに、それに振り回されたり、依存したりして、混乱させられていることが多いのです。
 表出については割合よく観察できても、入力についてはなかなか見えてきません。特に自閉症との重複の人は、この人にどのように情報が入っているのかが、指導のためのキーポイントとなることが多いです。
 入りすぎて、整理できない(命名作用ができない)でいること、雰囲気を読み取りすぎていることが多く、そのことを私たちはあまりつかめていません。
(3)自我の入れ物としての体作り。
 ストレッチやトレーニングを通して、自分の体を知り、コントロールできる対象として認知させていきます。
 男の子には思春期の体の変化を受けとめていくための援助をします。
 恋をさせよう。人に関心ができ、やさしさが芽生えます。
(4)基礎学力の学習体験そのものが自立のための必須アイテム。
 基礎学力の学習時間はきちっと保障します。学習してもただの記号の暗記に終わるとか、生活に結びつく計算にはならないということはあります。しかし、文字が書けたり、数字の計算ができたり、自分の住所が書けたりすること、そういう学習の体験をすることは、その後の彼らに予想以上の誇りと自信を与えていきます。
(5)自由にできる(支配できる)時間と空間を用意する。
 その人の能力とプライドに応じて、少しずつ保護され育てられてきた環境から自分で育っていく環境への移行を、家族と共に行っていきます。
 この時期のいらだちはたいていは、めばえてきた自立心と実際の持つ力とのアンバランスにあります。アンバランスをより高い目標の方へ引き上げて解決していくのです。成長していくのですからあぶなくても、恐ろしくてもそれしか方法がないのだと腹をくくるのです。
 勇気をもって、一人通学、留守番等への取り組みを。
(6)密着型母子関係のスムーズな解体を促す。
 子育てを一心に背負ってきたお母さんとの密着した関係にひびを入れよう。
 母親が自立しようとしている我が子の変化に気づかない場合はけっこう多く、ふろは一人で、部屋は個室へなど具体的なアドバイスから入り、今後の支援の仕方について、共に組み立てていきます。
(7)障害を客体化していく援助を。
 成長するということは自分の障害をコントロールできるようになっていくということです。障害をコントロールするためには、障害を客体化できる自分が育つ必要があります。私たちの働きかけは、障害に対してではなく、本人の人格に対してなされているでしょうか。人として受けとめられているという実体験に支えられて、がまんしたり、考えたりすることが可能になります。
 
E君とのこれから
 E君は、中学生になってきたときにすでに、小学部時代に特異な才能があるからと、算数だけを特別教え込まれる教育を受けてきていました。
 もっと、全体のバランスを考えて育ててくれていたらとぐちがでるときが何度もありました。しかし、高等部になって、数式がラブレターと化したとき、何が幸いするかわからないものだなあ、と思いました。
 何か一見間違ったことを教え込まれたとしても、生きていくのだからその負の財産を正の財産に反転していくしかないのです。
 今あるその人を受け入れるところからしか教育はスタートしません。
 生育歴・バックボーン・重度重複の障害・・・それらの要員を、教える側の能力のなさとすりかえていけないことはわかっていても、現実は実に重くのしかかってくることを何度も経験しました。しかし、教員や親が苦しい時には本人はその何倍も苦しいのです。
 私はよく「ああ、気が重いなあ」と落ち込んだ時には、「ああ、きっとあの子も今日は重い気持ちで学校へくるんだろうなあ。いけない、いけない。楽しいことをしよう!」と切り替えてきました。
 E君にとって、この8年の授産施設での経験は長くつらいもので、彼の精神にはきっと深い傷跡があり、私たちのデイに来たからといって、未来が明るいとは決して思ってはいません。しかし、今私たちが彼を重く受けとめたらどうでしょう。彼はその何倍もまた重い気持ちになってしまいます。
 26歳の彼は、私たちが彼の障害と付き合おうとしているのか、人格と付き合おうとしているのか、それを見抜いていると思います。それだから、安心して通ってくるのではないでしょうか。
 
レポート(4)
「ろう重複障害者の施設作りの経過と課題」
大内幹雄(福島県ろう重複障害者の生活を支える会)
 
1. はじめに
 今から7年前(1997年)に埼玉県の「どんぐりの家」のことを本で知り、福島にも聞こえないという障害に配慮のあるろう重複障害者のための通所施設共同作業所を作りたいとの思いから福島県ろう重複障害児者親の会「なのはな会」を親と関係者で発足しました。
 最初は手探り状態で始まったこの会でしたが、2001年4月の開所目指して活動してきました。作業所については、「県の中央にあって便利」「ろう学校の本校があって地域の理解を得やすい」「聴覚障害者が多い」等の理由から郡山市に決めました。最初の4年間は、作業所設立のための資金作りの活動が中心でした。会報発行、賛助会員、寄付金を募ったり、映画の上映会をしたり、フリーマーケットに出店したりと多くの方からの支援を受けながら活動してきました。
 2001年4月8日、念願のろう重複障害者共同作業所「なのはなの家」が開所しました。場所は郡山市安積町、借家2階部分(6帖、8帖、6帖)で、利用者は1名(男子18歳)、指導員には保護者とボランティアがあたりました。作業内容は牛乳パックを使ったリサイクルの紙すき作業、名刺、はがき作りです。郡山市の条件(市内在住者5人以上の障害者がいること)に満たないため補助金なし、自己資金のみの運営ということになり大変厳しいスタートでありました。
 現在は利用者2名(男子20歳、19歳)、パート指導員6名のローテションを組んで作業に取り組んでいます。
 
2. 息子の状況
 4人兄弟の末っ子で生まれ、2歳児検診の際、聞こえがおかしいということで福島医大に行きました。検査の結果、両耳感音性難聴と診断されました。初めて聞く病名に戸惑いながら違う病院で調べてもらいましたが、変わりはなく呆然としてしまいました。ろう学校の教育相談を受けるように勧められ、不安とわずかな希望をもって受けに行きました。その後、ろう学校の幼稚部に入ることとなり、1年ぐらい経ってから同級生についていけない息子に疑問を感じ教育センターに相談に行ったところ、担当医師より自閉的傾向、ろう重複障害であると言われました。その時は、正直なところ何のことかさっぱりわかりませんでした。
 自閉症、自閉的傾向というものを理解しようと本を読んだり、親の会に参加していろいろな話を聞いてみましたが、それにつれて、本当に先の見えない、理解しにくい障害なのだということを実感しました。自閉症イコールコミュニケーション障害ということで、人と人とのコミュニケーションがとれない障害者だとすると、この子の将来はどうなるのだろう、親として何をしてやればよいのか全く分かりませんでした。小学部三年生になって、担任の先生から指文字を粘り強く指導してもらい、字が書けるようになったときの息子の顔は忘れることができません。小学部4年生になって、ろう学校のとなりにある光風学園(児童福祉施設)に入所することになりました。自宅からろう学校まで車で1時間位かかり、授業に集中できないことがあるので、自立させるためにも早めに訓練させた方が良いと、学園の先生から入所を勧められました。思い切って親元から離すと決めたものの、入所時に玄関で泣きじゃくる息子と離れるのが辛く、がんばってくれと祈ることしかできませんでした。
 三ヶ月後、家族の心配をよそに学園の雰囲気にも慣れ、先生方と先輩の指導もあって身の回りのことができるようになっていました。また1輪車にも興味をもち、乗っている姿を見たときは驚きました。中学部に入り、進路を考えはじめるころ、福島県ろう学校高等部に重複学級の新設が認められました(平成10年度)。学校教育を受けさせてやりたいという想いが実り、息子は進学することができました。高等部では社会参加の訓練の一環として職場実習等が行われ、特に紙すき作業が得意のようで、楽しそうに作業をしている息子の姿に感動してしまいました。社会参加の訓練は今の「なのはなの家」の活動に生かされています。
 
3. まとめ
 ろう重複障害者は自分の意思表現が難しく、コミュニケーションをとることが困難なため、人との関わり方が問題になってくると思います。既存の施設に入所したとしても理解を得ることが難しく、コミュニケーションがとれず孤立してしまうのでは、真の社会参加ではないように思います。手話や身振り等を使いながらコミュニケーションのとれる仲間がいて、それを理解してくれる指導者が必要です。
 ろう重複障害者は、数が少ないので、1人でも多くの人にろう重複障害の実態を知ってもらい、どのようにして作業所の存在をアピールしていくかが、大きな課題であると思います。各地からの情報を聞かせていただきたいと思ってます。
 
レポート(5)
「つくし会の取り組みと課題」
渡邊健二(つくし会)
 
1. はじめに
 1996年2月、名古屋ろう学校・千種ろう学校のろう重複障害児の保護者や関係者とがともに初めて会合する。これを契機にこの年6月にろう重複障害児(者)の作業所を作る会「つくしの会」(前身:たんぽぽの会)として活動がスタートした。
 さまざまな小規模作業所や施設などを見学したり、資金づくりのためにバザーなどを行ったりしながら、1998年8月名古屋市のサマースクール事業や、1999年4月地域グループ訓練事業、2002年2月事務所のワークショップ(手作り商品販売など)を始めた。
 2002年事務所を千種ろう学校の近くに定めたのを機にろう重複障害児の放課後保障のため、児童のディサービス事業を開始した。この年、結成当時から携わっていた会員の最年長のろう重複障害児が高等部を卒業する年を迎えたが、小規模作業所を作るための条件が揃わなかった。検討のうえ、2名だけの無認可作業所を作ろうという動きもあったが、事情によりできなかった。
 現在、その2名は他の作業所に通所している。これまでの卒業生は、既存の授産施設や作業所に通所している方が少なくない。彼らは聞こえるひとたちのなかでコミュニケーションがとれないなどの多くの問題を抱えており、施設側も手話を取り入れるなどの工夫もあるが、充分でたく、限界にきている。
 今年はNPO(特定非営利活動法人)を申請したり、成人のディサービス事業を始めたりするなどのめまぐるしさがあり、現実に追われて始めたといわざるを得ない。
 ここでは、成人のディサービス事業に関して述べたい。
 
2. 成人のディサービス事業「つくしフレンズ」
 事務所(ワークショップ、児童のディサービスなど)は狭小のため、別場所のクリエイティハウス(creative house: 以下、クリハウス)で6月から成人のディサービス事業(事業の名称はつくしフレンズと名づけた)を始めている。
 NPOは申請中により、現時点では成人のディサービスは私費であるが、10月以降正式にNPOを取得できる見込みであるので、当面は基準該当事業という形で行う。
 現在、ディサービスを利用する人数は3名である。
・26歳 Mさん(男性)は以前聞こえる人たちの作業所に勤めていたが、ストレスにより、辞めた、6月につくしフレンズができてから、毎日元気に通っている。
・20歳 Uさん(女牲)は体調がすぐれないなどの事情もあり、週に3回通っているが、少しずつ体に力が付いてきている。
・22歳 Yさん(女性)は事情によりろうあ児施設に在籍しているが、地域で暮らすことを目指して週に2回通っている。少しずつクリハウスの生活に溶け込んできている。
 
 取り組みとしては、情報提供をしたり、見通しをたてたりすることをこまめに連絡したり、説明したりしている。
 すべて一人ひとりに合わせたコミュニケーションをとるよう心がけている。彼らのコミュニケーションの手段はそれぞれ異なるが、身振りや筆談なども含めて私たちスタッフは主に手話を使いながら工夫している。スタッフは3名おり、1日にスタッフが2名いるようローテーションを組んでいる。
 6、7月は「クリハウスに定着(慣れること)」、8月は「いろんなところへ出かけよう」という目標で行っている。
 
1日の流れ
午前10時 モップづくりあるいはアルミ缶つぶし
  11時 休憩(コーヒーメーカーでつくるなど)
午後12時 昼食
  1時 作業・創作活動(折り紙・牛乳パックでの作品など)
  3時 帰宅・掃除
 
3. 今後の課題として
 私たちスタッフはコミュニケーションを大切にしながら、取り組んできた。しかし、彼らの成育や環境によって言葉獲得が不十分だったり、ろう学校を卒業してから今まで使っていた手話を忘れてしまう面もあったりした。どのように言葉の獲得を促し、また生活経験を豊かにしていくかを考える必要がある。そして社会生活能力を高め、自立できる環境をつくりあげていきたい。
 制度面について、成人のディサービスには3種のサービスがあり、そのうちの知的障害者ディサービス事業を行っている、しかし、知的障害を伴わないろう重複障害者は利用できない恐れがある。聴覚障害の他の障害をもつすべての人が利用できるのは、身体障害者ディサービスである。問題点として、条件によっては、知的障害者ディサービスより身体障害者ディサービスの支援費が低く運営費に響く場合がある。現在、利用する3名は知的障害をもつため、利用できないことはないが、将来を考えて身体障害者ディサービス事業も含めてどうするかを考える必要があるだろう。
 また目標である小規模作業所を開設するのに名古屋市の補助制度を受けるときは、条件のひとつとしてろう重複障害者10名以上が通所できることが必要である。
 このように多くの課題を抱えているが、NPOを取得し、ディサービス事業をどうするか、小規模作業所はいつ開設するかなどを含めて保護者、関係者たちとともに話し合っていきたい。ただ、忘れてならないのは制度のみを考えるのではなく、ろう重複障害者が安心して働けるようにもっともふさわしいビジョンをつくっていくことが大切である。
 
平成15年度活動予定
4月29日 ボーリング大会
5月10日 名古屋港水族館
6月14日 卒業生を囲んでの企画
7月12日 プール
7月26、27日 仲田まつり(バザー)
8月 お泊り会
9月 土曜企画
  ろう学校体育大会見学
10月 卒業生を囲んでの企画
11月 ろう学校文化祭見学
12月 卒業生を囲んでの企画
   年末お楽しみ会
1月 鏡開き
2月 卒業生を囲んでの企画
3月 年末お出かけ会
 
 詳しくはつくしの会HPにありますので、ご覧ください。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION