第2分科会「早期教育」
討論の柱 |
(1)幼児教育と手話
(2)新生児聴覚検査と早期の両親支援 |
共同研究者 |
田中美郷(田中美郷教育研究所)
南村洋子(聴覚障害児と共に歩む会トライアングル) |
座長
司会 |
森井結美(奈良県立ろう学校)
浅利義弘(青森県ろうあ協会) |
レポート |
(1)「ろう学校において『日本手話』による教育を受ける選択肢を望む」
町田尚美(東京都立品川ろう学校PTA)
(2)「手話で伝えることを選んで」
廣岡久子(神奈川県立平塚ろう学校)
(3)「早期教育に望むこと〜日本手話に出会って〜」
高橋明子(東京都立大塚ろう学校親)
(4)「バイリンガルの環境作り〜みんな違う・みんな同じ〜」
池田亜希子・内田園子・米内山昭枝(龍の子学園幼稚部)
(5)「福島県における新生児聴覚スクリーニングの現況と聾学校の役割」
山内潤子(福島県立聾学校幼稚部) |
座長報告 |
(6)「早期支援の課題〜これまでの論議を振り返って」
森井結美(奈良県立ろう学校) |
共同研究者報告 |
(7)「新生児聴覚検査に対して何をすべきか」
田中美郷(田中美郷教育研究所) |
共同研究者報告 |
(8)「幼児教育への手話導入と幼児教育の改革」
南村洋子(聴覚障害児と共に歩む会トライアングル) |
【分科会のまとめ】
1日目はレポート発表をもとに「幼児教育と手話」特に日本手話の必要性とその実践について話し合った。今回のレポートはすべて龍の子学園の保護者・指導者によるものであった。日本手話が目で見てわかりやすい構造であり、子どもたちの十分な理解を引き出すことができること、保護者は手話技術だけでなく接し方や説明の仕方などにも学ぶところが大きいことなどが報告された。一方で、このような実践が公教育に広がっていくには人材不足であること、子どもの実態や保護者の要望が多様であることなど、まだまだ困難であることが浮き彫りになった。共同研究者からは、手話言語が育つ集団の大切さやろう教員の必要性、科学的な実証と実績をさらに蓄積していくことへの期待が話された。
2日目は、新しく浮上してきた「新生児聴覚検査」の問題を話し合った。まず、田中美郷氏に新生児聴覚検査の経過や現況について解説していただき、地元福島県の事例、また各地の様子を報告してもらった。その後、早期発見が組織的に進む中で何が問題になっているか、また保護者が必要とする情報とは何か、意見を出し合った。発見後の情報提供が聴覚活用に偏っていることが指摘され、「きこえないことは悪ではない。きこえないことは自然なこと」「ろうのことはろう者に聞くべき」などのろう者の意見はまだまだ反映されていない現状が明らかとなった。 |
【成果と今後の課題】
「日本手話を選択肢に加えるべき」との主張に応えて公教育で実現していくには、どのような条件整備が必要か、また従来から蓄積されてきた実践とどのようにすり合わせていくか、さらに研究していく必要がある。
また「新生児聴覚検査」が当事者や保護者の願いに沿ったものになるかどうか、各地の動向に注目していかなければならなへ早期発見の体制の中に当事者団体が配置されるようはたらきかけるなど、組織的な動きも必要となるであろう。 |
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レポート(1)
「ろう学校において『日本手話』による教育を受ける選択肢を望む」
町田尚美(東京都立品川ろう学校PTA)
1. 聴覚検査で聴覚障害が判明した時、補聴器や人工内耳による聴覚口話法以外にも、手話による教育を選択できる権利の保証と情報提供、及び両親支援が必要である。
「STに定期的に指導を受けてください。」それが、9ヶ月の息子の耳が聞こえないと解った時の医師の言葉だった。最初に面談した難聴幼児通園施設のSTは、耳の聞こえ以前に視線が合わない、認知力が劣るなどの理由から、自閉症あるいは発達障害を疑っていたようだ。「疑っていたようだ」というのは、医師はSTの所見をもとに話をし、「聴覚障害とは何か、聴覚障害児の早期教育及び両親支援は何があるのか」といった説明は一切なかった。1歳から捕聴器をつけて2年間、聴覚活用の訓練は何ら成果も無く、息子は心を閉ざしていた。そして、いつしか私は「STが指導する他の子どもたちと違うのは、何か他に息子に問題があるのかもしれない」と思うようになっていた。
息子が3歳になって間もなく東京へ。昨年4月から品川ろう学校の乳相へ通い、9月に入学。しかしながら、ろう学校の指導に疑問というか限界を感じ始めていた。
そして10月、デフ・フリースクール『龍の子学園』を訪ね、私は愕然とした。手話環境の中で、私一人取り残されていた。そしてその時、初めて思い至ったのだ。息子は聴覚活用の訓練の過程で、何も解らず、自分の世界に閉じこもっていたのではないかと。『龍の子学園』は、「日本手話」と「書記日本語」による『バイリンガル教育』を実践していた。目からウロコだった。ここには息子にとって普通に理解できる環境があると思った。と同時に、何故もっと息子を信じて別の行動に移らなかったのか悔やんだ。
補聴器や人工内耳による聴覚口話法以外に、手話による教育があることをもっと早くに知るべきだった。私自身の経験から、まず、手話による教育を受ける権利が保障され、そして、聴覚障害が判明した時に確かな情報提供と両親支援が必要だと思うのである。
2. 聞こえないろう児を聴者に近づけようとする訓練よりも、ろう児をろう児として受け止め教育してほしい。
「立派なろうじゃないの!」息子を見たろうママの言葉である。こんな誉め言葉聞いたことが無い。「ろう」は禁句だと思っていた。「ろうであること」・・・成人ろう者やろう文化に触れて初めて、私は「息子はろうである」ことを認識した。
ろう学校では、息子の「あれ 何?」という表出に、教師は「あれは、なぁに?」と言い直しを要求する。お友達がしていることを自分も同じようにしたくて、息子が「したい!」と立ちあがると、教師は「ぼくもやりたい!」と言い直しを要求する。聴者の教師から見れば、息子の気持ちの表出は頼りなく弱々しい。母親の私でさえそう思っていた。しかし、ろう者が見れば、視線、表情が語っているというのだ。私は気づかないでいた。
ろう学校での指導は、息子の「あれ 何?」の答えが「あれは、なぁに?」なのだ。「したい!」という息子の意欲はどこかへ消えてしまうのだ。それはあまりにも悲しい。私は、ろう教育において、聞こえないろう児を聴者に近づけようとする訓練よりも、ろう児をろう児として受け止め教育をして欲しいと願っている。
3. ろう児の母語は『日本手話』であり、『日本手話を母語とする環境』が必要である。
「空が青いね。」
『龍の子 学び舎』に通い始めてほどなく、ある晴れた日に、公園でブランコに乗りながら、息子が空を指差し「空が青いね。」と手話で語りかけてくれた。この手話表出は、私の心を激しく揺さぶった。聴者の親が、コミュニケーション手段の獲得を第1と考えた場合、口話に拘る気持ちは強くなる。がしかし、言葉はコミュニケーション手段のみならず、その人の知性、感性を形成する重要な役割を持っていると思う。
息子はゆっくりではあるけれど確実に少しずつ変わり始めた。自分の世界に閉じこもっていた息子が、「黄色 電車 龍の子 行く」と4語文を表出し、周囲に対する関心が瞬く間に広がっていった。お友達との関わりが生まれ、人に対する関心が広がった。神経質で警戒心が強く、食に関しても食べず嫌いだったのに、食べてくれるようになった。お友達が自分の名前を書いているのを見て、誰に促されるとも無く、初めて自分の名前を書いた。息子にとって「自然に身につける言語」が必要で、そしてそれは『日本手話』だったのだ。そして、その『日本手話』を獲得するには、『日本手話を母語とする環境』が必要だったのである。「あなたはろう者ですか?」私は、いつかそんな風に尋ねられたい!将来息子が成人した時に、私はまるで幼子に話しかけるように、口を大きく開けてゆっくりと、政治、経済、文化や歴史などの話ができるだろうか?否!私も日本手話を学び、ろう文化を学び、息子の成長とともに豊かな会話を楽しみたいと思う。この選択が正しかったのかどうかは、将来、息子が答えてくれるだろうと信じている。
4. ろう学校において『日本手話』による教育を受ける選択肢を望む。
私は、息子の担任に敬意を表している。何故ならば、息子の担任は、自分を注視しないのは自分の力不足だと話し、決して息子の所為にはしなかった。ならば今一歩、踏み出して欲しい。『日本手話』による教育を必要としているろう児の教育環境整備が急務であるということを、『日本手話』による教育を受ける選択肢が必要だということを、教育現場の側から声を発してくれることを願っている。
レポート(2)
「手話で伝えることを選んで」
廣岡久子(神奈川県立平塚ろう学校)
「耳が聞こえていません。早く補聴器をつけるよう言語指導科の予約を取ってください。」と言われたのは、娘が1才になったばかりの頃でした。この先どうすればいいのかも分からず、涙が溢れて止まらなかったことを覚えています。
「少しでも音が聞こえていて欲しい」という思いから、音のでるもので遊ばせそれらの音に反応を示せば一喜一憂して過ごしました。
ろう学校の乳幼児相談に通い始めると、他のお友達が先生の呼びかけに返事をする姿に焦り、娘にもそれを強いたりしたこともありました。声を発すれば母である私が喜ぶ姿を見て一生懸命やっていたようです。その頃の記録を見ると「声出しが増えてきた」とか「返事の時に自分で意図的に声を出す」と書いてありました。
娘の耳はかなり悪かったので、人工内耳も考えました。しかし生まれつき口唇口蓋裂でもありました。たとえ聴者であっても思ったとおり発音するのは難しい状況でしたので人工内耳の手術をしても口話を習得するのは困難と思われました。それでも将来、社会に出た時に口話は必要なのではないだろうか?どうすれば口話を習得できるのだろうか?と思う日々が続きました。
悩みながらも、乳幼児相談では聴覚活用を行うと同時に手話を用いてコミュニケーションをとるという考えだったので、自然と手話単語は増えていき、家族でのコミュニケーションは手話を使うようになってきました。
去年の4月に幼稚部に入学。ほとんどが乳幼児相談の時からのお友達だったので、ろうの友達を増やしてあげたいという思いがありました。そんな軽い気持ちから『龍の子学園』を見学に行ったとき、何の違和感も無くその場になじんでしまった娘の様子にはとても驚きました。初めて会ったスタッフの言葉(手話)を理解できるのです。龍の子は彼女にとって自分の解る言葉があふれている環境だったようです。家に帰ってからも、その日のことを話してくれました。心から楽しかったからこそ私に教えたのでしょう。毎週通うごとに手話も増え、表情による表現もより豊かになってきました。スタッフはもちろんのことお兄ちゃんお姉ちゃん達と遊ぶことで色々教えてもらっているようです。彼女は龍の子での経験を通してろう者の習慣・ルールも身に付けています。
自分と同じ言語・環境(文化)の『龍の子学園』は、娘にとって大切であり大好きな場所になっています。
龍の子のスタッフやそこに通う子供の親たちと交流するうちに、『手話』についての考えを改めました。『手話』はコミュニケーションの手段ということではなく、娘の母語であるということです。母語(第一言語)が基本にあるからこそ書記日本語(第二言語)が習得できるのだと思えるようになりました。私たち家族は、龍の子に通い始めたことで、娘にとっては、口話でもなくまたろう学校で使われている手話でもなく、ろう者の母語である日本手話が一番大切なのだと気づかせてもらいました。
娘は『視覚』から情報を得ます。情報を100%伝える為にはやはり『視覚』、つまり日本手話が不可欠だと思っています。日本手話で教えてもらえることは、正しく・簡単に理解できることにつながると思います。それは実際、龍の子で教えてもらっている内容が100%わかるからです。
これからも娘は色々なことに興味を持つでしょう。疑問が生じたときに彼女の母語で説明をしてもらえる環境があれば、疑問が解決できた後も更に興味が広がることでしょう。そのためにも親である私たちが日本手話を使い、色々なことを学ぶ学校においても日本手話のできる先生が必要だと思います。
今、娘は4歳です。聞こえる子どもたちと同じように楽しくのびのびと育っています。ただ違うのは娘が手話を使っているということです。毎日家族で色んな話をします。もちろん娘が話していることがわからないこともあります。こちらが聞き返すと、違う表現を使って伝えようとします。娘の成長を感じる場面でもあります。口話が必要なのではないかと悩んだこともありましたが、手話を選んで本当に良かったと思います。
私達は娘に手話で伝えることを選びました。それは『ろうである彼女をありのまま受け入れること』だと思っています。
レポート(3)
「早期教育に望むこと〜日本手話に出会って〜」
高橋明子(東京都立大塚ろう学校親)
はじめに
5歳の娘が6ヶ月でろうと分かってから、すぐ病院で聴覚のトレーニングを受け口話法を行う時期を経て、日本手話が無くてはならないことに気づくまでのことを振り返る。また現在日本手話によって娘の成長する様子を報告すると共にこれからの聞こえない子供の早期教育に望むことを考えたい。
1. ろうと分かって
娘は6ヶ月でABRでの検査を受けろうと診断され7ヶ月から補聴器を装用した。聞こえないと言うことは私たち家族に大変なショックを与えたが、「トレーニングすれば聞こえなくても話せるようになれる」と言う言葉に救われその方法を勉強するため一家で病院のトレーニングを受けた。
聴覚障害に関する本も買い集めた。聴覚口話法を毎日実践する。口を大きく開けての話しかけや音の出るおもちゃを山ほどの購入した。しかし娘は太鼓以外の音に反応することなく焦りと落ち込む日々を送る。
2. 聞こえないままの子供を受け入れるという考えバイリンガル教育との出会い
3歳当時娘は知らない人から「おとなしいかわいい子」と言われた。3歳にしては話さないからだった。情報が入らないから周りのことが分からず、自分のことを伝える手段を持たなかった。私は他の子供と比べ聞こえないことが辛く外出がおっくうになった。娘に対して申し訳ないとも思っていた。だんだんと娘の要求が増えるもののコミュニケーションが難しくなり、またちっとも音に反応もせず、声も出さない娘に苛立ち焦る日々だった。
3歳になる前の3月に「聞こえない成人が聞こえない子供と遊んでくれるところがあるらしい」と聞いて龍の子学園に見学に出かけた。当時は聞こえない子供の教育=聴覚口話法と信じて疑わなかったためどうして手話を使うのかも不思議に思い参加した。
龍の子学園は音のない世界だった。日本手話を真剣に学ぶ親と飛び交う手話。誰が聴者なのか、ろう者なのか分からなかった。そこは異国で手話の出来ない私は居心地の悪さを感じ小さくなった。と同時に初めて聴者優先社会の中のろう者の立場を考えることが出来た。
スタッフの説明を聞き、年間の報告書を読み「聞こえない子供をそのまま受け入れる。日本手話を話す子供なのだ」と言う考え方に驚き感動し、龍の子の乳児教室に通い始める。
3. 3歳から5歳
3歳でろう学校の幼稚部に入学した。聴覚口話法で歴史ある都立のろう学校でそれまで手話は使用されていなかったが幸いにも手話に理解がある先生が来て下さり、幼稚部でも聴覚も活用した日本語対応手話が使用されるようになった。手話を使う娘が否定されなかったのはとても嬉しかった。龍の子学園の学舎は学校の交流日(木曜日)に参加していた。
娘は幼稚部にも慣れ楽しくろう学校に通うが成長がゆっくりで友達とのコミュニケーションが難しかったりする事もあり心配は尽きなかった。
私は日本手話の教室に通い始めた。ろうの先生による本格的な手話の学習は娘とのコミュニケーションに大変に役立った。そこで初めてCLを本格的に学びそれまで読みとることの出来なかった娘のCL表現が分かるようになり親子の会話の幅が広がり、親子関係が大変に安定した。
4. バイリンガル教育を受けて
この4月から龍の子学園学舎幼児教室へ通う時間が大きく増えた。それによって下記のような娘の大きな変化が見られた。
(1)周りの状況を考えて行動できるようになった。
それまで周りとのコミュニケーションが難しい面のあった娘が友達とスムーズにやりとりできるようになつた。これは学舎が娘にとって見て全てが分かる場であるからと考えられる。聞こえる子供が先生同士の会話も聞けるように娘もスッタフ同士の会話を見て分かる。他の友達同士の会話も見ればわかる。100%情報が保証された環境で活動できる成果だろう。
(2)書記日本語に対する興味が出た。
今娘は大変に書く意欲を見せている。ごく最近まで自分の名前を鏡文字で書くのがやっとだったのがひらがなにこだわらなくても簡単な漢字なら真似して書いてしまう。
これは学舎で見て書く練習を毎日行ったからだ。分からなければ何度でも見て書くことによって書く喜びも覚えたようである。
(3)物の見方が変わった。
注意深く一つ一つ丁寧に見ることが出来るようになった。本を始め人の様子や、行動などしっかりと目でとらえている。そのことに気づいたのは今まで自分から反応しなかったような小さな出来事に手話でコメントするようになったからだ。
(4)CLによる自己表現が非常に増えた。
聴者には難しいと言われているCL表現だが娘は生き生きと上手に使えるようになった。以前は私の使った手話しか語彙が増えなかったのが最近は私が読みとれないことが増えて娘に何度も説明されている。CLの上達にはCLを使った授業の成果があった。
「そよそよと風が吹いている」「ごうごうと風が吹いている」その違いを子供が草、スタッフが風になって身体で表現する。子供は大喜びで何度も何度も繰り返してとせがみ、結果としてあっと言う間に「そよそよ」「ごうこう」を全身で覚えてしまう。
(5)曜日、数字への理解。
それまで教え込もうとしていた曜日、数字だったが自分から日めくりカレンダーをめくって見せるようになった。
(6)親の変化
成人のろう者と日常的に接するようになって子供の将来をイメージできるようになった。
娘はこのごろ言うことを聞かなくなった。私が少し前の調子でただ「早く早く」などと言うと「ちょっと待って今本読んでるから。これが終わったら次にやるから」とかわされてしまう。すっかりおしゃべりになった。っまり普通の5歳児らしくなったのである。
言語としての日本手話に接して今言語を獲得しつつあるからなのだ。言語を獲得したことにより自分の頭で考えられるようにもなった。その子供の様子を見て親もまた自信を持てるようになった。
5. これからの早期教育に望むこと
以上のように日本手話によるバイリンガル教育は素晴らしい成果を上げている。
まず認めることが大切だろう。日本手話は言語であること。
今私は娘は聞こえない国の普通の子供だと思っている。だから言葉は日本手話を話す。国が違うのだから言葉が違って当然だ。だから文化も違う。聞こえる人になる必要はない。
早期教育に必要なのは日本手話によるバイリンガル教育であり、それを支援するシステムである。聞こえる先生も親も日本手話を学べる場を作って欲しい。
これからは聞こえない子供を聞こえるようにすることではなく聞こえる私たちが子供に歩み寄る教育に変わって欲しい。
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