第五章
北前船復原のこと
北前船の復原建造の夢
昭和63年暮、海運局からの照会での江差町関係者から、この計画を聞き、少々の和船の経験もあるので基本調査の依頼を引受けた次第ですが、監督官庁はどの様に対応するのかを確めねばならない・・・として出発しました。造船所で曲りなりにも、設計に居り小型船も経験しておりますので、どの様に進めたらよいかの見当はつきますので、第一回は調査とし、官庁の考えを求め第二回は基本計画を提出しました。どの様な姿が復原船の許可条件なのか・・・そのあとに時代考証を考えようとしました。
結果は船舶法規が新しくなり、この様な木船は非常にきびしく、諸々の学者、知識人が著した時代考証を忠実に復原しては、官庁は船として認めない事です。極端に言えば、忠実な復原船は船舶としてみとめられないので港の眞ん中に繁留して、遠くから眺める外はない。それでは町おこしは何の利益も生まないので本物指向の希望ではあるが推進機関を付けて、“この町の周辺位は遊覧したい”“津軽海峡は自力で渡りたい”“その為にも沿海級の船としたい”“本州の港々を廻りたい”そう考えている内に外洋ヨットクラブから“その船で豪州へ行きたい”と申込が入ったり。帆装一つとっても忠実に現実となれば、帆船としての扱いで法的に合格しなければならない。全長が僅か30mも満たない和船には要求が山程でつぶれそうです。
そういう中にも他に心配する事があります。大工さんは居るだろうか、巨大な木材は、之を挽く製材所は、70尺位の和型漁船の工作法では少し無理が有る、新しい工作法を考える必要が有る、などが絶えず頭の中を巡ります。そうして私が現役よりリタイヤしてから次々と木船に不利な船舶法が生れて・・・。取巻く状況は仲々きびしいものが有ります。余り神経を使うのも今から早過ぎる?・・・然らばどの様な障害が有るのだろうかと。
1 大きな材木はどうするの
2 70尺の和船の様には参りませんよ
3 大きな材木が無い時はどうするつもり?
4 帆が北前船の生命、過去の復原船では学者は異議を云ってますよ。
・・・などと意見が出ることでしょう。
1. 大きな材木は家から見ますと全てが大きな木材ですが、敷、外板、舳、戸立、船梁、檣などは特に大きい程よい・・・と云えましょう。現在では特に必要が無ければ、材木は山で短く切断して製材所へ出されます。反対のことを云えば国内の山からは、それ程巨大な木材は必要が無いと云えそうです。営林署では巨大な木材は有るけれど、之を山奥から切り出すのに又、多くのお金がかかるでしょうと申します。巨大な木材は当市の埠頭に米松、ソ連松、スエーデン椈などの輸入材が積まれているのを見ます。北海道材丈を使って・・・も又夢の一つでしょう。流通の経路などの研究も必要でしょう。
2. 当地方では近来まで残っていた、最も大きな和形木船は港湾荷役用の大艀でしょう。然し之は 台船であって少々物足りない存在ですが和形として残っていたものは、この位なのです。参考は外板の矧合せとその和釘位かも知れません。70尺の和形漁船は敷、外板、肋骨、船梁などが参考となりますが外板は厚さ60m/mで、棚板を、一枚として矧合せての取付方法は、外板厚75〜90m/mの北前船計画に於いてはどうであろうか・・・となって来ます。前記の艀は外板厚75m/mで一枚としての矧合せ取付の由ですが、北前船は外板の捩れがあり、一枚棚として取付けは無理であろうと考えられます。M-35年逓信省管船局の「大和形船製造寸法書」の1000石船では外板厚さは150m/mです。この寸法では一枚棚の取付は無理と思われますし、添付図に依れば上棚も下棚も と・に別れており?それぞれは一枚の棚の様ですが、復原の場合、 ・に分ける必要もありませんが一枚棚としての取付も又無理で或いは海具2枚宛の 積上げ矧合せの方法も考えられます。一番の難関は外板ではないかと思います。内部に丈夫な型板を組立て、摺合せ矧合せた海具2枚組を順次に積上げて・・・も一つの方法かも知れません。
前記の三伴船上棚の一枚の重量は約900kg以上ですが、北前船の外板厚を75m/mとすれば一枚の棚の重量は約3000kg以上となりますから、矧合せ組立取付は無理と云えそうです。
3. 之は船舶安全法の内の木船規則に合せて仮に積層材とするには船の種類などが限定されます。従って本計画の様な場合、対称する法規が無く、実験資料、計算書、強度試験成績書などを添付の上、本省司いなどの方法でも考えて、且つ、自衛隊では1000WT位の木造積層式の船も有るのですから、この方にも眼を向けて戴く様お願いする事も必要でしょう。積層材が一番有効と思えるのは、海水などに直接浸されない直線的な肋骨や船梁などが考えられます。
4. 之は非常に面倒な問題が有ります。今迄の所では、帆走はしない、帆は展示用であるとしての諸計算で客船の資格(限定沿海)としている訳です。限定沿海を外れた海面は沿海級の船となってますが、この時点で帆船としての資格を得るとすれば、巨大な帆面積、バラスト、乾舷などを加味しての帆舩としての復原計算が更に検討されなければなりません。加えて帆走をするとしても、時代考証をなるべく忠実に再現した、木綿帆、麻綱の帆装は、ナイロン製の帆や、ロープに馴れた方々は甚だ操船の無理が考えられ、或いは別誂えのナイロン帆装が必要となるかも知れません。
さて四項丈でも之丈の問題がありますが、木船に推進機関を取付ける事自体己に復原から外れておりますが、今日現在、国内国外の多くの復原帆船などはエンジンが装備され、その殆んどは鋼舩であり、鋼殻木皮張り様のものです。元々木甲板の無い北前船に、今の法規検査の上から、上甲板を全面に設け、操舵機が有り、スピードが7ノット以上、救命設備は法定完備、居住設備も必要法定数を・・・となれば復原の文字が霧の彼方に消えそうです。之をどの様にして、その昔の北前船の姿に近づけるかは設計者丈の問題ではなく、今迄、熱い気持ちで復原を願って来た町の方々、実行委員の方々全ての問題で、今までは対官庁の主要構造丈の事も行く行くは時代考証へと進む事となります。決まったから総員で走り、廻るのでは無く、今から頭を寄せて一つ一つ解決して行く事が大事と考えます。
北前船の調査を始めてみて、「船大工考」を書こうと思い立ち、函館図書館を介して国会図書館より入手した明治35年逓信省管船局発行の「大和形船製造寸法書」添付の図も、構造を求めるものとしては、甚だ解り難いものですし、学者、知識人の著した弁財船に関する本も、構造に於ては“どの様にして造ったか”は有りません。繪馬、奉納模型、奉納板図、海事資料叢書、和漢船用集などの文献からの建造工程と構造の詳細想定は甚だ、心許ないものです。当地の北海道大学水産学部には昭和29年に製作の1000石積弁賊船の1/10縮尺模型船があります。之は同年函館市で開催した北洋博覧会への出品として、当時の福島町(松前)に居られた弁賊船船頭経験者 麻生氏と 船大工棟梁 花田氏の 両氏に依る考証と製作に依るものです。どの様にして、どの様な資料に依ったかは、現在では不明ですが良く出来ているので、船内のろくろなども取付けられ、両舩の外・に倉庫も備え、之が松前藩の長寿丸かなーと思うのですが、色々の出版本に有るものと少し違うようで且つ、舵の取付部もやや違うと或る先生は申してます。
私の最も気になるのは船底部に加敷は無く、 部は乗盤構造です。身近の北前船らしい模型でも主要部でさえこの様に違うのです。考証は船頭の麻生氏が行ったと考えますが、御年令から考えますと、明治から大正にかけての乗船と考えます。この点、当地の小造船所の会長さん(87才)に尋ねましたら、15〜16才頃に解体した弁賊船は(函館で)加敷は無かったと申します。
復原建造時の為にと図書館で調べた北前船関連の資料所在表も作って見ました。学者、知識人、先生などの方々が長年をかけて調べた考証は、造る事丈で過して来た現在の職人には訳らない事ばかりです。本の著者が当時の調査で出会った古老の方々も今は亡くなられたでしょうし、更に聞く事も不可能です。復原建造の場合は町の方々にも色々資料を直接に見、聞きする事も必要ですし、資料を著した方々の意向を聞く必要も有りましょう。先年に北前船の復原の話が新聞に出た時、道内各地から「手弁当で参加したい」と多数の船大工さんが居られたと江差関係の方から聞きました。嬉しい事と存じます。
資料のこと
資料の各船寸法表に表示されている磯船、仲舟や、9尋以下の土海船、起船は、私の時代には建造が有りませんでした、多分各漁場の設備が充実したか、己に毎年送り出す漁船が充分行き渡ったものか・・・と考えます。
人員構成では一般に云う棟梁という呼び名もなく、組長というものが大工職で云えば棟梁に当たり、地元出身、本州出身など色々ですが、其の技術では抜群の人々でこの業界(船大工)では、少くも道内では右に出る人は居ない程の方々でした。資料を良く見ますと、当時の記憶と、この表に若干のズレが有ります。それはこの表が昭和10年頃のものと云いますので、例えば外板厚が1様に13 1/2尋三伴船も9 1/2尋の胴海も1寸8分となっておりますが、記憶では三伴船は2寸程で土海船は1寸8〜1寸7でした。この表には有りませんが昭和8年の資料には、各船では凾金が使われておりますが、昭和16年では全く使われておりません。又、図面の内、肋骨が1材の様に置かれておりますがS-16年頃は図の様に組立式(ボルト綴じ)でした。尤も資料の図は当時の漁業会社幹部が漁場切揚后に各製作所へ実習生として来所し、多少の技術習得を行った際、画いたものもあり、正確でないものも有ります。又、見習工教本(仮称)の中にも有る様に、特殊用途(=北洋漁場)の為、船底材、船梁などが硬材を使用しておりますが、一般には軟材が主流で亜折、廻渕なども軟財使用の地方も有ります。内部に中央縦通材や梁下縦通材の有るのも特殊と存じます。船首材の付根部の接手と接するのせ盤は、北前船にも使用された様で、(前項記事)或いは特殊ではなく、この北海道で広く用いられる形で、(本州型?)でのこなおし式では弱い為の発達か・・・とも思いますが、之はボルト固着が主であるので近来の形式?とも考えます。何れにしても時代考証は得手では無いので、工作面も更に詳しく調べてみたいと存じます。資料の見習工教本は私等第一期見習工の為に造船所が作ったもので(ガリ版刷)その出所を色々と聞き廻りました所、当時(S-10年以前)の実習生が作った「和船」という本よりの抜粋であらうという事でしたが、この和船という本は社内本である為、一度見たことは有りますが、現在は不明です。
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