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 外板類は特に乾燥に留意しておりましたが、甲板室サイドはコーキングが無いため、又薄板なので天日で充分日数をかけての乾燥をして屋根は帆布張りとし、天窓の周辺、甲板室の周辺は特別に下記の様にしております。
 
コーナーの詳細
 
 
 「S-49年 ベトナムで漁船建造の際、この屋根のため、毛紙の替りにアスファルトルーフィングを送り、他は現地購入と見込みましたが、サイゴンの市場を色々とさがし廻っても、帆布、鉛板は見つからず、出来た船の屋根は伝い漏りの為に苦労しました。ベトナム、タイランドの漁船は、どこで仕入れるのか、帆布の替り薄いゴムかゴム引き布を使用しておりました。土地が変わり、仕入れのルートが不明の場合はツマラヌ苦労をするものです。」
 
 当地方で戦后、洋型木造船が更に多くなったのは北洋漁業再開と之に伴う沿岸漁業の発展と存じます。けれどもS-30年始めには巳に木材も国内材は不足し始めており、次第に輸入材を利用せざるを得なくなってます。主要材としては材関台であり、キールでありました。
 洋型漁船は本州南部の以西漁場は其の昔からの集団漁業で船も堅牢なもの、優秀なものが有りますが、北海道の中、大型は主として底曳漁業の船でS-30年前半には鋼船への切替が総当量ものが始っております。沿岸の10t〜20t台の小型木船が大量に増えたのも、S-25〜30年頃かと思いますから洋型木船の全盛はS-25〜35年頃でしょうか。
 戦后は北洋漁業が無く、専ら国内の社船を扱った訳ですが地理の上から、北海道地方のもの丈とならざるを得ません。この会社と関係のある漁船、和船、始めての旋網船、保安庁の11m型救難艇(之は米国コーストガードのコピー船)機雷除去の為の掃海艇の修理(特務艇や飛行機救難艇など振替の木造艇)・・・ヤミ船の修理・・・。などを経てS-27〜28年頃から85t程の北洋向漁船となり、S-30年に始めて鋼船建造に踏み切った訳です。(下関三菱造船(株)の援助を親会社が取り付けた。)以后は社内で木造船を作る事が全く消えました。戦后建造の木船は戦前その丁寧さが仇となり、造る船は事毎に黒字となる事が殆ど無く、造船所の発展には障害となった様です。外板などは今の高級新車の如くピカゝに仕上げ、主構造も似ないでもありません。ですから、他造船所の古い写真の木船を見ますと、全く雑な船と見えます。
 私の住む道南地方はまだ木材が豊富な故か10トン程の船までは木造漁船があります。FRPよりやゝ安く出来る由ですが、中身を昔のそれと比較する事自体無理と存じます。材料不足、安く作らなければならない・・・で其の昔は取付けてあった補強材は、規則には表示があっても現物には巳に無いものもあり、無い事自体、当り前?の面も有ります。
 話が後先となりますが、非常に手間のかゝる作業なのでこの話をします。(当地北大水産学部資料館には和型、洋型の木船模型が多々有ります。之は船大工さん自身の作品が主ですから、良く出来ております。)
 旧規則では填材、新規則では詰材となっております。年輩の船大工さんなら訳りますが、若手の方は?と思います。之はや・の肋骨の間に入れる材料で言うならば補強材で、松とか杉を使います。嵌込部は垂直ですが平行でないため甚だ工作には手間が掛かります。当時の施行の標準(この造船場丈かもしれませんが)は1斜肋骨間、2主材関台下部、3・斜肋骨間、以上は甲板下ですが甲板上として1斜肋骨間、2・斜肋骨間。というものですので、相当の材木と労働時間を要したので、節約〃〃で何となく無くなって終ったと思います。
 二方向に直立(垂直)の直面体であれば、工作上は非常に有利となるのですが、今再現してもなかなか面倒なものと存じます。之の固着は全て木栓を以て取付られます。理由は、其の后々に施行される材料のボルトとかち合わないためです。
 
 
 かち合う という事は、ボルト孔開けの錐が釘に当って錐が破損して終う事と、其の孔は埋まるか残るかになります。木栓止とすると錐がかち合っても錐に被害もなくボルトもそのまゝ施行出来ます。
 明治の頃の本にも余り詳しく出てませんが図示は有ります。S-30年頃凾館港海底より引き揚げたオランダ製軍艦朝陽部も左程填材がはいっていない記憶が有ります。
 
 
 又、工作も至って丁寧なものではありませんでした。日本の社寺の工作の様に船も又、日本独特の丁寧さが有って進んで来たのかも知れません。前頁のA、Bは、その后の作業が少し変わって来ますので説明します。Aの填材を外して終うと、現在の木船でしょう。







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