ほぼ三年ごとに行われている総理府の「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」(ことし一月に調査)が公表された。ポスト冷戦の国際情勢を背景に、ことし中には防衛計画の大綱が見直されようとしているとき、この世論調査には、わが国がとるべき防衛政策について、いくつかの示唆が含まれているように思える。
なかでも注目したいのは、「自衛隊が設けられた目的」への回答で、国の安全の確保がその目的とする意見が、昭和四十四年の調査開始以来初めて五〇%を切り、四八・九%になった点である。災害派遣の二三・八%、国内の治安維持一五・一%、国際貢献(今回から新設)五・七%を大きく上回っているとはいえ、自衛隊(軍隊)の創設目的を、国民の半数以上が、国防ではないと考えているような国は、ほかに見当たらないだろう。
わが国で国の安全保障への考えが一般的に浅いのは、(1)五十年ちかくも差し迫った外国からの脅威がなかった(2)自衛隊と国民とが密接につながっていなかった(3)防衛庁・自衛隊から国民へのアプローチが少なかった・・・などの理由があげられるだろう。しかし、もっと煎じ詰めれば、国家と個人の関係が希薄だからではないか。
調査に「国を守る気持ちを教育の場で採り上げる必要があるか」という項目がある。回答の「必要がある」は四四・五%とやはり最低記録。そして、「必要がない」と回答した人のうち、四一・五ポイントまでが「教育で高められるものではないから」としている(二位は「軍国主義の復活につながるから」の三一・二ポイント)。若年層ほど「必要なし」が多く、二十歳代は四八・二%。しかし、米国の小学校は毎朝、国旗掲揚、朝礼とともに始まるという。こうした習慣によって、こどもたちは、授業でことさら国の守りを教えなくても、自然に「国家と個人」の関係を感じ取るのだと思われる。
いうまでもなく、国防は国民みんなの“責任”である。直接戦闘行為に携わる自衛隊は、わたしたちの“代表選手”なのである。国防は、高い生命のリスクなど痛みを伴う務めである。それだけに、どこの国でも国民が国防から目を背けることは許されないのだろう。事情はわが国でもまったく同じであるはずだ。銃を執らなくても、国の安全保障に思いをいたし、代表選手の自衛隊への理解を深める、そうした社会環境づくりへの努力がなければ、どんな防衛計画大綱が作られても、絵に描いた餅になってしまうのである。
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