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2001年7月号 Voice
金縛りが解けた集団的自衛権
佐瀬昌盛(させまさもり)
(拓殖大学海外事情研究所教授)
波立つ国会
 小泉新政権の登場とともに集団的自衛権問題をめぐる議論が様変わりしはじめた。PHP新書の一冊として『集団的自衛権――論争のために』を世に問うたばかりの筆者としては、この様変わりは十分とはいえないまでも、まずは歓迎したい。
 右の拙著末尾を「騒然たる情景」としておいたように、昨年十月中旬に米国でいわゆる「アーミテージ報告」が発表され、知日派安保専門家のあいだに日本の集団的自衛権解釈の変更を期待する姿勢が強まっていることが明らかとなった。すると、国会周辺は「騒然」としはじめた。すなわちその直後、民主党代表・鳩山由紀夫がテレビの報道番組で集団的自衛権の――制限的――行使可能を改定憲法で謳うべきだと発言した。と思うと、同党副代表の横路孝弘がこれに噛みつく。
 自民党は自民党で、森政権末期の衆参両院予算委員会で衆議院議員・亀井静香と参議院議員・依田智治が一定条件下での集団的自衛権行使容認、あるいは現行憲法解釈変更の可能性を政府に質すといった光景が見られるようになった。いや、それどころか自民党「護憲派」の野中広務までもが京都市での講演で亀井静香ばりの制限的「行使容認」論をぶった。
 その行きつくところ、自民党国防部会が三月二十三日に発表した文書「わが国の安全保障政策の確立と日米同盟――アジア・太平洋地域の平和と繁栄に向けて」には、政府解釈とは大きく違う見解、すなわち「われわれは(集団的自衛権を)国際法上有している以上は憲法上も有しており、その行使は許されるものと解する」との文言が躍ることになった。こうして、昨年十月以降の六ヵ月ほどのあいだに集団的自衛権問題をめぐって国会は、明らかに波立ちはじめていた。それでも、小泉政権の登場以前には変わらないものがあった。それは、この問題での政府の態度であった。
 その代表的存在は森内閣の外相、河野洋平だった。集団的自衛権行使必要論ないし行使容認論では自民党内でも断然先行していた山崎派を追うかのように、昨年末には江藤・亀井派が、さらには橋本派までもが行使容認方針を打ち出そうとしていたのを横目に、『朝日新聞』のインタヴューに応じた同外相は、「行使は憲法上認められないとする政府の立場を貫くべきだとの考えを示した」。しかも念入りにも河野は、日本の集団的自衛権行使容認を婉曲な表現で期待している「アーミテージ報告」について、「日本にいってもなかなかできないことを分かりながら、米国内にはそういう声があるということをいっている」とまで解説した(『朝日新聞』平成十二年十二月三十一日)。
 年が明けての国会論戦でも、政府答弁にはまだ何ら変化がなかった。とくに自民党国防部会長である依田智治の質問に対して政府特別補佐人の資格で答弁した内閣法制局長官・津野修は、他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は「憲法上許されないという立場で一貫しているわけでございます」と従来どおりの説明を繰り返した。
 しかも、興味ぶかいことには,「依田がまだ直接にそのことを質してもいないのに、同長官は先制するかのように、憲法上わが国の集団的自衛権保有・不保有の問題に関して、「従来から、集団的自衛権につきましては憲法上行使できないと、その意味におきましては保有していないといっても結論的には同じであるというふうに説明してきているところでございます」と述べた。これは、依田が中心になってまとめた前掲の自民党国防部会報告に対する内閣法制局の――従来型答弁をもってする――反撃だったのだろう。
 要するに、国会議員レベルでは集団的自衛権問題でいかに波立ち騒ぎはじめていようとも、森内閣の最後まで政府としては二十年前に内閣法制局によって定式化された憲法解釈の縛りのなかにとどまりつづけようとしたのだった。
解釈変更か改憲か
 政府内の空気に変化の兆しが出たのは、就任後初の記者会見で新首相・小泉純一郎が大要つぎのように述べたことによる。「集団的自衛権は、(国際法上)権利はあるが(憲法上)行使できないという解釈だ。もちろん武力行使は海外の(外国)領土、領海、領空ではできない。しかし、もし日本近海で日米が共同訓練や共同活動していて、そのときに、米軍が攻撃を受けた場合、よその国の領土でも領空でも領海でもない場合に日本が何もしないということがほんとうにできるのだろうか。いまの解釈を尊重するが、今後、あらゆる事態について研究していく必要があるのではないか。すぐ解釈を変えるということではない」(『産経新聞』平成十三年四月二十八日、カッコ内の補足および傍点は佐瀬)。
 私はこの首相発言が憲法解釈変更への急傾斜を示すものだとは判断しない。だが、従来解釈の絶対護持論でないことは明白である。いずれにせよ、マスコミは私よりはるかに強くこれを解釈変更論への傾斜と読んだ。そこで自民党幹事長に就任した山崎拓、防衛庁長官に任命された中谷元のコメントが求められた。この二人もマスコミ同様、首相発言を解釈変更論への傾斜を示すものと判断したようであり、それぞれに解釈変更による集団的自衛権行使容認論への転換はよくないと首相を「批判」した。行使是認に至る正道は改憲なのだ、というわけである。いずれにせよ、この一幕で政府および自民党に関するかぎり集団的自衛権行使是認論または必要論そのものは大勢となってしまった。転換の方法論では解釈変更か改憲かの二論の対立(?)があるにしても、前外相・河野の例に見るようなかつての集団的自衛権行使反対論は行方不明となってしまった。
 与党勢力内には、転換の方法論を問わずそもそも集団的自衛権行使容認にきわめて消極的な、いや、はっきりと反対といってよい公明党がいるのだが、政府および自民党首脳の大勢が基本的にその容認ないし是認に向かったことで、公明党の主張はほとんど霞んでしまった。新首相がこういった展開をあらかじめ狙っていたとは思えないが、さらにもう一つ、思ってもいなかった事情が重なって、ことには弾みがつく。その思いがけない事情とは、小泉内閣発足の翌四月二十七日、早ばやと社民党党首・土井たか子が政府に宛てて質問主意書を提出したことである。
 土井の質問主意書には合計三点の質問が盛られていたが、その第一問はこうであった。「小泉氏は集団的自衛権について、憲法解釈を変更して、その行使を認めることを検討すべきだとしているが、いままでの政府の見解はどうか。また、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を認めることは許されるのかどうか。あらためて小泉内閣の統一見解を問う」。
 じつは小泉は党総裁に選出される以前の四月二十二日、NHK番組での発言をもって集団的自衛権問題に関し、それまでの解釈変更不許容から解釈変更容認へと主張を「修正」したと見られていた(たとえば『読売新聞』平成十三年四月二十三日、「集団的自衛権の憲法解釈変更も――小泉氏」)。そこで土井は、小泉の党総裁候補としてのこの発言と先述の首相としての初の記者会見発言とを手掛かりとして、小泉が「集団的自衛権について、憲法解釈を変更して、その行使を認めることを検討すべきだとしている」と断定したようだ。だが、これは断定がやや過ぎたのであって、右にも指摘したように、小泉の発言、とくに首相としての発言からいえるのは歴代首相のように「政府の憲法解釈を変更しません」とはいわなくなったという一点だけだったのである。それにしても、土井から政府統一見解の提示を求められたのを――たぶん――奇貨として、小泉内閣は連休明けの五月八日には早々と政府「答弁書」を出してしまった。
 土井の提出した第一問については、こう答弁されていた(全文)。「政府は、従来から、我が国が国際法上集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えてきている。/憲法は我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える。/他方、憲法に関する問題について、世の中の変化も踏まえつつ、幅広い議論が行われることは重要であり、集団的自衛権の問題について、様々な角度から研究してもいいのではないかと考えている」(文中の斜線は、原文改行個所)。
内閣法制局の問答無用主義が否定された
 この「答弁書」との関連で三点を指摘しておきたい。
 第一、五月七日の首相の施政方針演説では、集団的自衛権問題についてはじつは一言半句の言及もなかった。しかるに、翌日からの衆参両院での代表質問では与野党双方から繰り返し集団的自衛権問題が採り上げられた。首相はそのつど、安んじてこの政府統一見解の線で答弁をこなした。私が最も注目したのは与党たる公明党代表の神崎武法が従来の政府見解を変更しない旨を確認したいと迫ったときだったが、首相は「変更せず」を明言せず、右の統一見解の線に沿って「集団的自衛権について様々な角度から研究してもいいのではないか」と婉曲に反論したかたちとなった。
 第二、「答弁書」作成過程で前掲全文中の第二文、第三文を盛り込むことに内閣法制局は頑強に抵抗したものと見られる。なぜなら、第二文、第三文のような認識が政府見解として語られたことはこれまでに皆無だったからである。そもそも内閣法制局長官・津野修は、『読売新聞』の報道(平成十三年四月二十五日)によると、総理はおろか自民党総裁にさえまだ選出されていなかった小泉の前掲の四月二十二日のNHK番組発言に接して、「さっそく二十三日、小泉陣営幹部に発言の修正を求めた」ほどなのだ。それゆえ、「答弁書」中の先の第二文、第三文が内閣法制局の考えを反映するものであったはずがない。新首相との凄絶なツバぜり合いのうえ、やむなしとして内閣法制局が受け容れた文言にちがいない。
 第三、ではまったく新しく登場した第二文、第三文にはどんな意味があるのか。世間的感覚に照らせば、両文はあまりにも当たり前すぎることしか述べていないように映るだろう。しかし、従来の政府見解が第一文で述べられてはいるものの、それ以上に何かを付け加えることは過去二十年間、御法度なのだった。内閣法制局長官は、政府見解は「論理の追求の結果として示されてきたもの」なのだと力説、その変更はできないとの主張に実質的に終始してきた。世間的感覚ではごく当たり前と思われる常識的文言を追加することでさえ、内閣法制局が固執してきた解釈変更不可の立場に悪く響きかねないのである。
 事実、第二文の第三文節、つまり、「その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える」のくだりは、大変なことを言い出したものだといえる。なぜなら、それを逆に読むならば、「十分に慎重」な議論ないしは配慮が尽くされる場合には「解釈の変更」はありうるという理屈になるからだ。私をも含めて現行の憲法解釈の変更が必要――私の場合、正確にいえば「解釈の変更が必要」というより、むしろ「解釈の是正が必要」という主張なのだが――と見る立場の人間の誰もが、「軽々の解釈変更」などを望んでいるわけではない。「十分に慎重」でなければならないことは、ほとんど自明である。問題はこれまで、「十分に慎重」であろうとなかろうと解釈変更は不可といった唯我独尊、問答無用主義が罷り通ってきたことにあった。しかし今回、第二文、第三文節によって、この問答無用主義が否定されたことは明瞭である。
 第三文も読みようによっては、すこぶる示唆に富むものだといえる。もっとも、ここでも文言は陳腐かつ当たり前すぎて、いったいどこが示唆的なのだ、と訝る向きがあるかもしれない。そこで私見を述べる。まず、内閣法制局の作文術の特徴の一つとして、重要な主語をあえて書かないという手法を指摘しなければならない。たとえば第二文の、「解釈の変更については十分に慎重でなければならない」もその一つである。いったい誰が慎重でなければならないのか。政府解釈の変更なのだから、「政府が」慎重でなければならないのだ。この主語は書かれていなくとも、文理上、見当をつけるのがさほど難しくない。
 では、第三文の末尾の文節、つまり、「様々な角度から研究してもいいのではないかと考えている」のくだりについて、誰が「研究してもいい」のか、誰がそう「考えている」のか。文章中に主語はない。しかも、右の第二文の場合のように文理上それを確定することは、この場合には不可能である。そこで、もっと土俵を拡げて推定してみる以外にない。推定の結果は、「研究してもいい」の主語も、「考えている」の主語も、ともに「政府」だということになる。なぜか。政府以外の人間または主体が集団的自衛権問題で「様々な角度から研究してもいい」し、また、そう「考えている」だろうことは、自明である。そういうことを政府はとやかくいうべきでない。形式上主語不明のこの第三文の末尾文節に意味があるとすれば、それは事実上の主語が「政府」である場合のみである。
 というのも、これまで政府内でのみ、内閣法制局の固めた憲法解釈の下、「様々な角度からの研究」が妨げられてきたのだし、政府こそが「様々な角度から研究してもいい」とは「考え」てこなかったからである。早い話、今回はじめてこんな文言の政府統一見解が出されたこと自体、そのことを裏付けている。それにしても、私はなぜこれほどまでに問題文節の実質上の主語を確定することにこだわるのか。それには十分すぎるほどの理由がある。
尻尾が犬を金縛りにしてきた
 拙著『集団的自衛権』でも指摘したし、より詳しくは拓殖大学日本文化研究所刊『日本文化』平成十三年第四号所収の拙稿「集団的自衛権と政治家の言動」で述べたところだが、わが国の政治家は政府の一員、つまり閣僚となった途端、こと集団的自衛権に関しては言動の自由を失うという有り様だった。むろん、閣内不統一とか閣内不一致を表に出すのは下策だから、一般論として閣僚たるものの言動がかなり強い制約下に置かれることはやむをえないが、集団的自衛権問題に関するかぎり、そういう一般論では語れない。なぜなら、ここのところほぼ三十年間、この問題では歴代内閣は内閣内部の官僚機構である内閣法制局が固めた憲法解釈を変更しないという方針を受け入れるしかなかったからである。解釈不変更という方針以外の方針はありえなかった。普通、閣内不一致とは内閣が自前で打ち出した方針に一部の閣僚が同調しない状態を指す。しかし、集団的自衛権問題では歴代内閣は官僚機構による解釈にいわば先験的に縛られてきたので、閣内不一致という贅沢なぞ享受すべくもなかったのである。
 だから、摩訶不思議なことが幾度も起こった。首相時代に政府の――より正確には内閣法制局の――憲法解釈を受け容れていたはずの人物が、首相を辞めるとこの政府解釈を批判するという光景がそれだ。その代表格が中曽根康弘と宮澤喜一である。中曽根は年来、内閣法制局解釈は「間違っている」と公言している。宮澤は内閣法制局を一見かばうようでありながら、法制局見解とは大きく食い違う考えを平気で語っている。制度的理由からして、司法権も立法府も内閣法制局見解を直接に左右することはできない。それを動かせる機関があるとすれば、それは政府でしかない。しかし、これまで政府は内閣法制局を動かすどころではなく、逆にこの一機関によって内閣は動きを封じられてきた。犬が尻尾を振るどころか、尻尾が犬を金縛りにしてきたのである。
 七年前、当時の新生党党首・羽田孜が組閣したとき、自民党を脱党した柿沢弘治が外相に、民社党の神田厚が防衛庁長官に就任した。この非自民二閣僚はそれぞれ別個に、集団的自衛権政府解釈の見直しが必要ではないかと問題提起した。その途端、野党に回った自民党と社会党(当時)がこの二人に噛みついた。それは、超弱体だった羽田政権に対する二大野党による多分に党利党略的ないじめだったが、それが功を奏し、柿沢、神田はともに発言撤回に追い込まれた。この一件は、集団的自衛権問題では閣内不一致が許されないどころか、表向き政治の世界全体、つまり行政府と立法府をひっくるめて不一致が許されないかのような印象を生み出した。しかしその実、きわめて多くの政治家が、「国際法上は有するが、憲法上その行使は許されない」との集団的自衛権解釈はおかしいとぼやきつづけてきたのである。
 これまでにそういう事情があったからこそ、今回の「政府統一見解」で、集団的自衛権問題でほかならぬ「政府」こそが「様々な角度から研究してもいいのではないかと考えている」と明記されたことは、とびきり重要なのだ。繰り返すが、こんな当たり前すぎるほどのことさえ、これまでの政府は文章化できなかったのである。この文章が生まれたことは、政府がようやく内閣法制局見解による先験的金縛り状態から出ようとする意志をもちはじめたことを示唆していると思われる。
 内閣法制局による憲法解釈がケチのつけようもなく精密かつ周到なものであるならば、歴代内閣がそれによって縛られつづけたこともやむをえないかもしれない。しかし、集団的自衛権についてなぜ憲法解釈が必要とされてきたのかといえば、それは、この概念について憲法中にいっさいの明文的言及がないからなのだ。明文的な規定ないし言及がまったく欠けている場合、その概念をめぐり百パーセント正しく、異解の余地を残さない解釈なぞというものはありえない。だから、重要なのは解釈の完璧性というより、むしろ欠陥性の小ささのほうなのである。この見地からすれば、現行の憲法解釈はどのように評価されるべきだろうか。
 年来指摘してきたことなのでいまさらそれを繰り返すのも気が重いが、現行の政府解釈には重大な欠陥がある。今回出された前掲の統一見解の第一段落は従来の政府見解を繰り返したものなので、それをあらためて眺めれば分かるが、集団的自衛権を「国際法上は保有、だが憲法上行使は許されない」という解釈では「憲法上保有か不保有か」がまったく吟味されていない。憲法解釈の根っこに置かれるべき事柄の確認がない。いってみれば、一階を据えないで二階をつくった欠陥建築のようなものだ。これでは憲法解釈たる要件を満たしていない欠陥解釈というほかない。ただ、どうしてこういう解釈になってしまったかについては十分な理由がある。
国際条約で幾度も「保有」を謳っている
 集団的自衛権を個別的自衛権ともども国家の「固有の権利」とする国連憲章が制定されたほぼ一年後に日本国憲法が誕生し、そこには自衛権への明文的言及がいっさいなかった。ところが一九五一年締結のサンフランシスコ平和条約と旧日米安保条約で日本の集団的自衛権保有が明文化された。一九五六年の日ソ共同宣言(両国で批准されたので条約的効力をもつ)でもわが国の集団的自衛権保有が明文的に確認され、つづいて日本は国連に加盟した(国連憲章の受け入れ)。一九六一年になると、現行の日米安保条約で日本自身が集団的自衛権の保有を確認した。これが、「国際法上保有」の法理であり、根拠である。
 ところが一九七〇年代に入ると、自衛隊違憲、日米安保反対を叫びつづける社会党をなだめるため、自民党政権は集団的自衛権行使違憲論を導入した。それは旧と現行の安保条約締結時――一九五一年と一九六〇年――には政府が唱えなかった見解なのだが、対社会党対策としては効きめがあった。政府がこの解釈を唱えると、社会党はそのつど、安保論戦の矛を収めたからである。すると、時の経過とともに歴代政府もこの見解に安住するようになった。憲法解釈の根源的要件であるはずの、「わが国は憲法上、集団的自衛権を有するか、有しないか」の吟味は回避されたまま今日に至った。なぜ、その吟味が回避されたか。
 一九四六年制定の日本国憲法の下で、かりに当初から「憲法上、集団的自衛権不保有」という憲法解釈が確立されていたとするなら、それ以後の幾多の国際条約でわが国の集団的自衛権保有を謳えるわけがなかった。そんなことをしたら国際的詐欺行為だからである。国際条約で幾度も「保有」を謳ったという事実は、往時のわが国で集団的自衛権の憲法上保有が否定されていなかったことの何よりの証拠である。だから、いまさら保有を否定するわけにはいかない。他方、社会党をはじめとする反安保勢力をなだめるにはそれなりの工夫がいる。日米安保条約で集団的自衛権保有を謳っていても、冷戦下ではさいわい(?)、米国が日本にその行使を強く期待することはなかった。そういう状況だったから、集団的自衛権の「憲法上保有か、不保有か」では口を閉ざし、「憲法上行使不可」で凌ぐという手法が成り立ったのである。はっきりいうと、この手法は一種の誤魔化しに近かった。
 しかし、時代も環境も変わった。新しい安保環境の下、米国はある程度までの日本の集団的自衛権行使を重視するようになった。日本も、「我が国の平和および安全に重要な影響を与える」周辺事態のことを考えると、まだ自国が直接攻撃されていない段階でも集団的自衛権を行使することの是非を検討する必要に迫られることになった。その前提となるのは「集団的自衛権行使合憲」論であり、そのまた前提となるのが「憲法上、集団的自衛権保有」の確認なのである。もはや、かつての誤魔化し的な手法は通用しなくなっているのである。
 小泉内閣が前掲のような「統一見解」を出したことは、誤魔化し時代からの離脱の模索が始まりだしたことを教える。私はこれを歓迎する。と同時に、私は事態をさほど楽観しているわけではない。というのも、咋今、集団的自衛権行使容認を説く声は珍しくもなんともなくなったものの、その容認ないし是認に至る道筋についてはまだまだ意見が大きく割れているからである。これを方法論をめぐる対立と呼ぼう。その一つは、集団的自衛権の行使を是認するため憲法解釈を変更すべきだというものであり、もう一つは、憲法改正によってこの解釈を確立すべきだというのである。そのそれぞれに言い分と問題とがある。
現行の欠陥解釈を黙認するな
 まず改憲による解釈確立論についてみれば、憲法という根幹的法規の重みを考えると解釈変更に走るべきでないという主張が大義名分である。政権の都合で憲法解釈が変更されるようなことは憲法軽視につながりかねないから、この主張はもっともである。改憲による解釈確立を主張しているのは自民党幹事長・山崎拓、防衛庁長官・中谷元、民主党代表・鳩山由紀夫らであるが、このうちもっとも徹底しているのは山崎拓である。山崎は、日米防衛協力のあり方が日本の安全に大きな影響を及ぼす以上、「憲法上、集団的自衛権の行使を認め、後方地域支援に限らず、正面でも米国と共同行動をとることを可能にすべきだ」との考えであるから、そこまで踏み込もうと思えば解釈変更ではとても無理、改憲以外にないということになる。また山崎は集団的自衛権との関連でだけではなく、もっと広義の改憲論者であるから、集団的自衛権問題だけで解釈変更が実現してしまうと、肝心の憲法改正に向けてのモメンタムが失われることを懸念している。
 他方、解釈変更派としては元首相・中曽根康弘(改憲論者でもある)、亀井静香、野中広務らがいる。じつをいうと元首相・宮澤喜一も隠れ解釈変更派であり、首相・小泉純一郎もどちらかといえば解釈変更派である。こちらは改憲派と違ってタカ、ハトによるいわば呉越同舟状態だが、それというのも、「護憲派」の宮澤や野中には、解釈変更で制限的に集団的自衛権行使を容認しないとかえって改憲論に火を付けてしまうとの心配が働いているからである。逆に解釈変更派中のタカは改憲志向ももっている。この場合、集団的自衛権問題については解釈変更をやり、さらに改憲でその趣旨をより明確化するといういわば二度手間を重ねることになる。
 解釈変更というやり方はなんとなくずるい方法であると見られがちであり、改憲のほうは「堂々」(山崎拓)としているかの印象を生む。しかし、ことはそれほど単純ではない。なぜしかく単純でないかは、集団的自衛権に関する現行の政府解釈そのものを眺めてみれば分かる。先述したように、それは欠陥品なのである。その点を問題にしないで改憲によって集団的自衛権の行使是認を、と唱えるだけでは、その提唱者にかりにそんな気持ちが働いていなくとも、形式論理上は現行の欠陥解釈を黙認することになる。
 改憲経由派の山崎拓や中谷元が現行の政府解釈を妥当なものとみなしているとは考えにくい。「わが国が憲法上、集団的自衛権を有しているか否かを議論することはあまり意味がない。なぜなら憲法上、その行使が許されないことは明白なのだから」といった趣旨の内閣法制局見解が「論理を厳密に詰めたものだ」といえるかと問われると、山崎や中谷はよもや「そういえる」とは答えないであろう。彼らは、軽々に憲法解釈を変更することが憲法の重みを損なうと考えているまでなのだ。しかし、憲法解釈としての最重要要件を満たしていない解釈の欠陥性をそのまま放置することは、軽々に憲法解釈を変更することに劣らず、憲法をないがしろにする行為なのである。この見地からすると、「解釈変更」という用語自体が適切ではなく、正しくは「解釈是正」なのだといわなければならない。
 「解釈変更」による集団的自衛権の行使容認という道を嫌う改憲経由派の人びとにこの「解釈是正」の作業をやれとは、私はいわない。ただ、彼らは最低限、現行解釈の欠陥確認、ないし破棄言明だけはやらなければならない。さもなくば、繰り返すが彼らは形式論理上、現行の欠陥解釈の黙認者になってしまうからである。
 時あたかも、山崎拓は衆議院代表質問で、周辺事態に限定して集団的自衛権行使を容認する国会決議を考えてはどうかと、いわば第三の道を提唱した。その実現にも幾多の障害が予想される。ただ、山崎がそういう提唱を行なったこと自体、彼が現行の政府解釈を相対視しはじめたことを暗示している。私はそれを評価する。(敬称略)
佐瀬 昌盛(させ まさもり)
1934年生まれ。
東京大学大学院修了。
成蹊大学助教授、防衛大学校教授、現在、拓殖大教授・海外事情研究所長、防衛大名誉教授。
 
 
 
 
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