日本財団 図書館


1996年10月号 Voice
有事に豹変する国
佐瀬昌盛(させまさもり)(防衛大学校教授)
「それは、どの憲法条項なのだ」
 せんだって、『(ドイツ)統一は予見可能だった――決定的な一年の舞台裏で――』という書物を読んだ。著者ヴァーノン・ウォルターズは、ブッシュ政権時代の一九八九年四月から九一年九月まで米国のボン駐在大使を務めた。そこからも分るように、著者は「ベルリンの壁」開放(八九年十一月)から統一ドイツ出現(九〇年十月)までの破天荒な時期の米国大使としての現地体験を綴っている。いちばんの読ませどころは、ゴルバチョフ政権下でのソ連のアフガニスタン撤退をヒントに、著者がモスクワによるブレジネフ・ドクトリン放棄を確信、その直後からソ連の東独放棄によるドイツ統一を予言しつづけたという点である。
 しかし、この書物が私にとり忘れられないのは、著者の誇る予見能力のゆえではない。任地国相手の「ストレイト・トーク」ぶりにこそ、私は目を見張った。同大使はもともとが剛毅な軍人であって、その直言性向はこの前歴と無関係ではないだろう。あまりに率直な言動が仇となって、着任一年もたたないのに時のべーカー国務長官との関係が冷却、辞表を叩きつけて米国の大使としては異例の短期間で任地を去る。同じブッシュ政権時代のアマコスト駐日大使も、「ミスター外圧」の渾名どおりに押しの強い人物として知られたが、直言性向ではウォルターズ大使の比ではない。
 後者の「ストレイト・トーク」ぶりはどんなものだったか。九〇年八月、サダム・フセインのイラクがクウェートを侵攻した。当時、統一作業に専念していたボンでは、米国主導の多国籍軍へのドイツ軍の参加は論外と考えられていた。一面で統一達成に没頭したいうえに、他面で自国の基本法(憲法)はドイツ軍のNATO条約「域外」への派兵を禁じているというのが、ボンの憲法解釈だった。この解釈をたび重ねて聴かされたウォルターズ大使は書いている。
 「・・・いったい、憲法のどの条項がNATO領域外へのドイツ軍派兵を禁じているのか、それを私は聴き出そうとした。連邦共和国構成諸州がこの憲法を批准したとき、ドイツはまだNATOに加盟していなかったではないか、と指摘してみた。社会民主党に対してだけではなく、(連立政権与党たる)自由民主党に対しても、憲法のどの個所でNATO領域外へのドイツ軍出動が禁じられているのか教えてほしい、と私は注文した」
 たしかに、ドイツの基本法のどこを読んでも、ドイツ軍の「領域外」出動を明示的に認める文言はない。が、さりとて明文で禁じている条項もない。あるのは憲法解釈、それも超長期在任閣僚ゆえにコール首相も一目置いていたゲンシャー外相の憲法解釈である。そこでウォルターズ大使は任地国の憲法解釈に異議を唱えたのである。こんなに歯に衣着せぬ言動の米国大使を、われわれ日本人は経験したことがない。
 それはともかく、自分の論旨に自信のあるウォルターズ大使は、ありもしない憲法条項を根拠にボンが「域外」派兵を拒否するのはこれが最後となろう、とワシントンに打電したという。その後の経過は大使の予言どおりとなった。つまり、一九九二年から深刻化したボスニア紛争を契機に、ドイツでは憲法がドイツ軍の「域外」出動を禁じているとの解釈に疑義が強まった。そしてついには憲法裁判所の判決が出され、そのつどの議会多数の賛成を条件に、ドイツ軍の「域外」出動は合憲ということになったからである。
 この話をなぜ書くか。
ワシントンからのお墨付き?
 「わが国は、独立国として国際法上は集団的自衛権をもつことは当然だが、憲法上これを行使することは許されない」との政府の集団的自衛権解釈をめぐって、近時、議論が喧しい。そんなさなか、過般の日米首脳による安保「共同宣言」発出前後から、「極東有事の際、日本は憲法の範囲内で米軍支援をやってくれればいい」との趣旨が、米国政府・国務省筋によって幾度か語られた。当り前すぎる見解であると思う。かりに「憲法の範囲外のことをやってほしい」との要望があったとすれば、それこそ一大問題である。
 ところが、米国要路者のこのような声が届くと、わが国の集団的自衛権に関する現行の政府見解を擁護する人びとは、まるで鬼の首でも取ったように色めきたった。集団的自衛権行使合憲論へ転換しないと日米安保体制は崩壊すると騒ぐいわゆる解釈改憲派は、じつは米国の支持を得ていない、というわけである。米国政府はやはり物分りがいいとばかりに、まるでワシントンからこの問題でお墨付きを取りつけたかのような風情であった。
 そんなとき、私は前掲の書物を読んで考えたのである。日本国憲法にはそもそもわが国に自衛権があるともないとも、いわんや集団的自衛権があるともないとも書いてない。あるのは憲法解釈だけ。これは、ドイツ基本法にドイツ軍のNATO「領域外」出動を認める文言も、禁じる文言も見当らず、その是非は基本法解釈しだいであるのと同じ構造である。ところが、六年前のボンには、「基本法のどの条項が『領域外』出動を禁じているというのか」と迫る米国大使がいて、ドイツ政府筋、議会筋を困らせた。さいわい(?)、米国の対日関係担当筋に今日、その種の野人派はいないらしい。「日本国憲法のどの条項が集団的自衛権の行使を禁じているのか」と詮索する動きも、少なくとも公式筋には見当らない。ご同慶の至りと言うべきか。
 しかし、「憲法の範囲内での米軍支援を」とのワシントンからの声をお墨付きのように触れ回る人びとを見ていて、私はあらためてその外交感覚への疑いを強めざるを得なかった。理由は以下のとおりである。
 (一)たしかに、「憲法の範囲内での米軍支援を」との米国公式筋の声は、わが国に届いている。しかし、それは「現行の憲法解釈の範囲内での・・・」とは言っていない。ワシントンからの声に喜んでいる人びとは、両者をごっちゃにしてはいないか。
 (二)たしかに、現行の集団的自衛権行使違憲説の憲法上の根拠を詮索するような動きは、米国公式筋には見当らない。だからといって、ワシントンが日本政府見解に満足しているとか、疑問を抱いていないとか推論してよいわけではない。黙っているが内心は不満や疑問だらけという状態は、多分にあり得る。ワシントンからの声に喜んでいる人びとには、その点が分っているか。
 (三)たしかに、集団的自衛権をめぐる憲法解釈について、米国側はいっさい無言なのではない。ちらほらと発言がある。しかし、基本的にはそれは、「どういう憲法解釈を採るかは日本の問題」というものである。これも当り前すぎるほどの物言いである。だが、この種の一見言わずもがなの指摘がなされるということ自体、その裏に何か重大なメッセージを潜ませてはいまいか。ワシントンからの声に喜んでいる人びとは、それが何かを考えたか。
 (四)たしかに、「憲法の範囲内での米軍支援を」というワシントンからの声は、集団的自衛権問題で苦慮するわが国政府にとり、ある種の証文効果をもつとみなせるかもしれない。しかし、国際政治では正式に締結され批准された条約でさえもが、事情が変ると証文価値を失い得る。ワシントンからの声をありがたいお墨付き扱いするのはいいが、気がつくとそれには三文の値打ちもないといった事態は、多分にあり得る。ワシントンからの声に喜んでいる人びとには、そういう想像力が働いているか。
釘をさせば、ことは収まるのか
 以上の四点にもう少し肉付けを試みよう。四点は混然一体として取り扱われる。
 日本国憲法は、残念ながら日本人が自主的に制定した憲法ではない。「押し付け憲法」という強い表現もあるが、控えめに表現してもGHQの強い指導下に制定された「マッカーサー憲法」である。この成立事情ゆえに、憲法問題が絡む案件では米国政府はわが国に対してはつねにウェットで穏健な態度を示す。集団的自衛権問題でも例外ではない。この点、自主憲法をもち、そのうえ、現実との関係で不都合が生じたと判断すれば百箇所以上もの憲法(基本法)条文書き換えをやってきたドイツに対する米国のドライな態度とは、大きく異なる。憲法が絡むと、日米間で「ストレイト・トーク」は成り立たない。将来ともにウォルターズ大使タイプの人物が駐日大使に任命される可能性は、まずないだろう。
 しかし、今後の極東、ないしアジア太平洋情勢をにらみつつ日米安保体制の前途を考えると、日米両国の国益に照らして日本が集団的自衛権行使合憲論へと憲法解釈を変更するのが望ましいと考え、かつ主張する知日派は少なくない。『フォーリン・アフェアーズ』論文(「東アジアの安全保障――米国の化石化した戦略」)で日米安保条約の平和的解体を主張したチャルマーズ・ジョンソン教授、ブルッキングス研究所のマイク・モチヅキ主任研究員、かつて国防総省で日米安保問題を担当したジム・アワー教授らの名がただちに浮ぶ。他方、私の不勉強もあるだろうが、この問題での日本政府の憲法解釈は申し分ないので、日本がそれを堅持してくれていっこうに構わないと説く声は、米国から一度も聞えてこない。
 私は米国からのあれこれの声とは関係なく、自分の判断で、日本政府の集団的自衛権行使違憲説には論理構成上の重大な欠陥があるから、従来の解釈を変更すべきだと主張してきた(『THIS IS 読売』一九九六年四月号の拙稿「集団的自衛権のべールをはぐ」、本誌一九九六年七月号の拙稿「『集団的自衛権』解釈の怪」など)。その意味で私はいわば自主変更論者だが、右のような米国内の非政府レベル専門家の動静に照らして、米政権内部でもあり得る本音は、日本側解釈の自主変更待望論だろうと考える。
 この本音は、米政権側で「ストレイト・トーク」が憚られているため、容易なことでは表面化しない。しかし、だからといって、この本音の潜在に日本側が気付かないとすれば外交的鈍感にほかならないし、その存在に気付きながら無視しつづけるのならば、外交的暴挙に近い。
 いまは米国側の本音が「ストレイト・トーク」抑制心で蔽われているが、この抑制が破れるとどうなるか。極東有事に際して、換言すると「日本が武力攻撃されていない」状態で、現行見解下ではわが国の集団的自衛権の行使に当ると分類される種類の兵站支援を米国が求めてきたとき、「米軍支援は憲法の許す範囲内で」と口約束してくれたではないかと日本が釘をさせば、ことは収まるだろうか。収まるまい。なぜなら、ひとつには「米軍支援は現行の憲法解釈の範囲内で」といった約束なぞ、交わされていないからである。
 もっと深刻なのは、「米軍支援は憲法の許す範囲内で結構と言ったではないか」と釘をさしてみても、米国政府に対してはともかく、議会と世論に対しては牽制効果を持ち得ないことである。いや、対議会、対世論との関係では、火に油を注ぐ逆効果ともなりかねない。米国の議会と世論が日本の「口答え」に激昂して、同盟国日本の非協力姿勢に非を鳴らすとき、米国政府が自国世論と日本国政府のどちらの肩をもつかはあまりにも明らかだ。過去三十年近い日米間の非安保・経済摩擦の帰趨を見れば、米国政府が自国世論に抗しきれないことは分りきっている。いわんや安保関係においてをや。それが分らなければ、外交的馬鹿である。
 日常(=平時)的にはいかに分別ある言辞がワシントンから届いていても、日本国憲法が、いわんや日本の憲法解釈が米国を縛ることなぞできない。外交安保面での日米関係を律し、したがって米国をも縛るのは、サンフランシスコ平和条約と現行の日米安保条約――および後者に基づき結ばれた協定類――である。極東有事で日米間が緊張すると、米国の議会や社会はこの両条約をひもとき、それぞれ次の条項を見出すだろう。
 「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する」(平和条約第五条(C))
 「日本国及びアメリカ合衆国は、・・・両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、・・・よつて、次のとおり協定する」(日米安保条約前文)
 当り前のことだが、日米両国は両条約をそれぞれの憲法に則って締桔した。前者で米国を含む連合国が日本に主権国としての個別的・集団的自衛権を認め、日本は前者を根拠に「自発的に」後者を締結し、両国がそれぞれに個別的・集団的自衛権の保有を認め合った。この過程を米国側から見れば、憲法に則り「自発的に」結んだ安保条約で集団的自衛権をも「有している」と日本が確認したのだから、日本において集団的自衛権行使も合憲なのだと判断するほかない。ところが日本側からは、「国際法上は集団的自衛権を保有するが、憲法上、その行使は許されない」との奇妙な説明が戻ってくる。しかも、「それでは憲法上、集団的自衛権を保有するのか否か」という決定的に重要なポイントはバイパスしたままで。(この点については先掲拙稿「集団的自衛権のべールをはぐ」をぜひとも参照されたい)
 後年、この点に関して「憲法で行使が禁じられている権利でも、国際的に保有を確認しておいて損はない」から国際条約類では集団的自衛権の保有を謳い込んだといった趣旨の説明が政府によって行われた。こんな小ざかしい説明まで米国世論の知るところとなれば、「日本は嘘つきと騙しのテクニックの国」とのイメージが米国に定着するであろう。
世界が唖然とする憲法解釈
 私は、集団的自衛権問題でかりに対米説明する場合、現在の政府解釈は考えられ得る最悪の代物ではないか、と判断している。まず、集団的自衛権という概念が今日では国際法秩序の確固たる一部である事実を、日本政府―だけ―が理解していないことが判明する(この点については、本誌七月号所収の前掲拙稿を参照のこと)。ついで、憲法とサンフランシスコ平和条約および現行日米安保条約の関係が問題となり、わが国の国家的信用が損われる。後者の点を理解するためには次の二つのケースを検討してみるのがよい。
 その二つとは、現行解釈とは違って、(イ)「憲法上、集団的自衛権を保有する。ゆえに理論上、それを行使できる。しかし信念上、それを行使しない」、(ロ)「憲法上、集団的自衛権を保有しない。ゆえにそれを行使できない。行使できない権利を保有すると国際条約類に謳い込んだのは、迂闊だった」と述べることである。
 実際には日本政府が(イ)、(ロ)いずれの陳述も行うわけはないが、現行解釈での対外説明は最悪だということを理解するために、もう少し頭の体操を続けよう。
 (イ)を主張する場合、「変な信念の持ち主だ」との評価は頂戴するだろうが、トリックを弄する国との評判は免れることができる。(ロ)の場合、日本政府の能力、わけても法的判断能力は疑われるだろうし、そのことのツケは支払わされるだろう。だが、それに耐えれば、「能力は低いが、迂闊さを認めたとは正直だ。ただ、その正直の上には馬鹿がつく」といった程度の評価は期待できるだろう。
 集団的自衛権を「行使しない」、あるいは「持たないから行使できない」と主張する、このような極端な二つのケースを検討して分るのは、「日本は信用のできない国だ」という致命傷的評価をせめて免れることができる点である。裏を返すと、現行解釈で対外説明を試みるのが最悪であるゆえんは、「トリック国家」イメージの下、国家的信用が損われることにある。
 わが国の内部では、集団的自衛権に関する従来からの憲法解釈を基本的に変更することは、政府の憲法解釈の権威を著しく失墜させるし、憲法を頂点とする法秩序の維持という観点から見ても問題があるとの有力な意見がある。とりわけそれは内閣法制局の主張である。(本誌七月号拙稿、一三二ページ)
 一見、それはもっともである。だが、この主張が妥当するためにはまず、政府の憲法解釈に構造的欠陥なきことが条件となる。同時に、国内的に権威のある憲法解釈は国際的信用を博するものでもなければならない。なぜなら、集団的自衛権とはすぐれて国際法上の概念であるからだ。残念ながら私は、今日の政府見解が説明されればされるほど、世界の国際法専門家を唖然たらしめるだろうと思わざるを得ない。第一には、繰り返すが法理論として構成上の欠陥があるがゆえ、第二には、政府見解は法理論として詰められたと言い条、その実はごねる社会党に対する宥和策として、つまり国際的信用ではなく対内的配慮――国会対策――を旨として固まったものであるがゆえ、である。
 第二の点に疑いを抱く向きもあろうから、宮澤喜一元首相の最近の言葉を引いておこう。「集団的自衛権(の行使)は違憲だという答弁は、社会党が言うから防衛線を固く敷いてきた」(『産経新聞』九六・四・一九、カッコ内は佐瀬)。「防衛庁が何かやり始めると、すぐ予算委員会で社会党に、『極東の範囲とは』とか、『有事の際の準備をしているのではないか』などと聞かれて、『集団的自衛権(の行使)は違憲だ』という答弁にかくれて・・・」(『月刊・自由民主』九六年五月号、同上)。このように、もっぱら国内の野党対策の見地から固まった政府見解が国際的理解を見出せるはずはなく、日本の国際的信用を高めるに役立つはずはないのである。
 世上、朝鮮半島、台湾海峡、はたまた将来の南シナ海で有事出来のあかつきに、わが国が集団的自衛権行使不可説を根拠に米国支援を断わると、日米安保関係は崩壊すると懸念する声がある。私もそうなる危険性は小さくないと判断する。だから私はその種の論者の憲法解釈変更必要論、つまりは集団的自衛権行使合憲論に同調するが、同調の理由は日米安保体制の崩壊を恐れるからという一点にあるのではない。先述したように、米国の意向とは関係なく、現行の政府見解には構造的、論理的欠陥が甚だしいから、その憲法解釈は変更されるべきである。そしてもうひとつ、現行の政府見解を対外的に触れまわることは、日本の国家的信用を損う。ゆえにそういう解釈は自主的に変更すべきなのである。
 ここで国家的信用という場合、最も重要なのが米国における日本の信用であることは論を俟たない。しかし、米国の信用を博しさえすれば、それで済むというわけではない。集団的自衛権問題でワシントンとのあいだに信頼関係が固まるのはいいが、それはわが国の他の近隣諸国との関係にどう波及するのか、しないのか。
「有事に豹変する国」
 ここで、『日本経済新聞』の論客・伊奈久喜氏に登場してもらわねばならない。同氏は『外交フォーラム』緊急増刊の『日本の安全保障』(九六年六月刊)で、「極東有事あるいは有事への過渡的状況である危機の段階にも至らぬ現時点では、(集団的自衛権についての憲法)解釈の変更は必要はない」とする理由の一つを、次のように述べているからである。いわく、「第三に、日本国憲法、集団的自衛権の現行解釈が近隣諸国に安心感を与えている事実である。平時にこれを変更した場合にどんな対外的影響があるか。北朝鮮に誤ったシグナルを送り、予想外の反応を招く可能性もある。中国や韓国の反応にも留意する必要がある」。
 言うまでもなく、現行解釈変更に反対する論者が近隣諸国に予想されるネガティヴな反応を反対理由のひとつに挙げている例は、一部マスコミ以外にもいくつもある。もっとも、その多くは何がどうあろうと解釈を変えてはならないという硬直的な議論である。伊奈氏はそれとは違う。同氏は「現時点での解釈変更は不必要」論者だからだ。原理主義者でなく、いわば柔軟対応論者なのだ。だが、だからこそ、その所説は私にとり重大なのである。
 私は同氏の執筆物の熱心な読者であり、一般的には同氏の見識と所論に敬意を抱く。だが、右に引用した点についてははっきりと異論がある。まず、従来の政府見解が近隣諸国に安心感を与えてきたのはたぶん事実だろう。だが、それはいかなる安心感であったか。透徹した法理構成への称賛と信用を伴う安心感なのだろうか。それとも、「国際的に通用しない変な解釈だが、自分で保有する権利の行使を禁じるというのだから、当方にとり不都合はない。やりたいようにやらせておけ」といった類いの、いわば冷笑的、軽蔑的安心感ではないのか。答えはじつは後者だと、伊奈氏自身が出している。なぜなら、同氏は自らが柔軟対応論者であると明示することによって、現行解釈を相対化しているからである。
 「平時に」日本が解釈を変更し、集団的自衛権行使合憲論を採ると、近隣諸国にどんな反応が生れるだろうか。疑いもなく警戒論が台頭し、場合によっては対日懸念が公然と表明されよう。だが、その警戒論、対日懸念の内実と性格はどんなものだろうか。
 かりに日本が戦前同様に海外で武力行使し、その軍事的進出には歯止めがなくなるといった類いの議論が台頭するとすれば、それは見当違いも甚だしい。日本が現行憲法で戦争を放棄し、交戦権を否認していることに変りはないのであって、変るのは、従来から合憲とされてきた自衛権行使のなかに新たに集団的自衛権が含まれることだけなのだ。しかも、わが国の集団的自衛権の理解は、近隣諸国が国際法に照らして理解しているところを超えるはずがない。それ以外のことが近隣諸国で懸念されるのなら、それが根拠なき旨を説明し、論証すべきなのである。
 かつて湾岸戦争後にペルシャ湾へわが国の掃海艇部隊が派遣されることになったとき、予想されたとおり当初はいくつかの近隣諸国から対日懸念の声が出た。だが、その後に国際平和協力法の制定を得て自衛隊が国連平和維持活動に協力する目的でカンボジア、モザンビーク、ゴラン高原へと相つぎ派遣されるにつれて、外国からの対日懸念の声は消滅した。対日懸念は一時的性格のもので、雨降って地固まったのである。集団的自衛権に関する憲法解釈転換にともなう外国からの対日懸念の表明も、当方に邪心がない以上、同様の経過を辿り、一時的性格のものであることが判明しよう。外からの一時的性格の反応をも恐れるあまり、旧態にしがみつくのが日本にとり良いのか悪いのか、自衛隊をもってする国際平和協力の実績が、すでに答えを出している。
 だが、伊奈氏に呈したい最大の異論は別のところにある。集団的自衛権について伊奈氏は、「極東有事あるいは有事への過渡的状況である危機の段階にも至らぬ現時点では、解釈の変更は必要はない」と言う。裏を返すと、有事あるいは危機の段階では解釈は変更されてよい――もしくは、変更が必要だ――ということである。これは伊奈氏が、(イ)現行解釈を法理的に正確かつ不易とは見ていない、(ロ)現行解釈では有事や危機には対応できない、と考えている(ゆえに同氏がリアリストである)ことを示唆して興味深いが、それはさて措き、私見では、有事や危機の切迫を理由にそそくさと憲法にかかわる解釈を変更するようなことは、法治国家が絶対に慎むべき所業なのである。ぎりぎりのところまで真の行動規範を隠しておき、最後の瞬間に火事場泥棒的にそれへと乗り換えるような日本は、一時的には安全を手に入れるかもしれないが、長期的には国家的信用を完全に失う。
 伊奈氏は有事や危機の段階でも集団的自衛権行使合憲論への「一八〇度の変更」を考えておらず、「現行解釈から生じる制約の緩和」、いってみれば《小さな解釈変更》で行くべきだと論じている。だが、事前に真の行動規範を明かさない隠蔽作戦という意味では、緊急事態での「大きな解釈変更」だろうと「小さな解釈変更」だろうと五十歩百歩である。問題は、日本が真の行動規範をぎりぎりまで隠蔽しておくべきか、それとも平時からそれを対外的に開示していくべきかなのだ。日本が「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と思うならば、いずれが正答であるかは決っている。
 伊奈氏は日本が有事または危機の段階で《小さな解釈変更》に踏み切る際、「近隣諸国の疑心暗鬼を招かぬこと」が重要だとしている。その限りではそのとおり。しかし伊奈氏に訊ねたい。そういう際に近隣諸国が抱くかもしれないのは、「疑心暗鬼」だけだろうか。それさえ防げばよいのだろうか。「疑心暗鬼」とは別の、いやな日本イメージが、つまり、追いつめられるまでは本心を明かさない国というイメージが外国に根を下ろさないか。平時に本音の、しかも国際法上も非難されるいわれのない行動規範を新たに対外開示して、雨降って地固まる道を選ぶのと、有事に君子豹変――小豹変?――して、外国に「有事豹変癖の国」イメージを植え付けるのと、伊奈氏はどちらを良しとするのだろうか。
「ストレイト・トーク」を始めよう
 私は、一時的摩擦を覚悟してでも、必要とあらば集団的自衛権解釈変更問題で近隣諸国を相手とする平時の「ストレイト・トーク」を厭うべきでないと考える。本稿で多用した「ストレイト・トーク」には出典がある。言い知れぬ感動をもって読んだ高坂正堯氏の遺稿『21世紀の国際政治と安全保障の基本問題』がそれだ。伊奈氏の前掲論文も載っている同じ特集号で高坂氏は「言葉のない日本」を歎いて「日米同盟の運営のために、言い抜け、詭弁の類が積み重なって、ストレイト・トークがおよそ不可能に近い状況だ」と書き、「常識的に言えば日米は共同防衛を行なっているのだが、日本には集団的自衛権はあっても行使はできないという類の議論はその最たるものである」と断じた。
 集団的自衛権問題では、国内でも対外的にも「ストレイト・トーク」がなかった。それが必要だと主張すると、最近ではさかしら顔に「神学論争は不毛」と批判する声に出くわす。そして、これまで個別、集団のいずれの自衛権に分類されるのかはっきりしないまま手がつけられていなかった灰色領域を白黒に仕分けして、白色のできるところから手当てしていくのこそが現実主義だと説かれる。ならば、やってみるがいい。現実は限りなく複雑なのだから、一つ一つ仕分けしていっても、どこまでも灰色が残る。その全部を白か黒かに仕分けすることなぞ無益だ。畑いっぱいのエンドウ豆を収穫して、莢(さや)から出しながら豆粒の数をひとつずつ数えて収穫総量を測ろうとするような、詮ない行為である。
 しかも、一見現実主義と見えるこの手法であっても、根本の憲法解釈に論理構成上の欠陥があるので、安全保障上の要請と合わせようとすると、個別的自衛権の範囲を無理にも拡げなければならない。最初のボタンの大きな掛け違えを放置したため、いまとなっては一つの穴に二つも三つもボタンをねじ込もうとするような、無理な行為なのだ。必要なのは、ボタンの掛け違えを認め、集団的自衛権をめぐる「ストレイト・トーク」を始めることである。不毛なのは「ストレイト・トーク」のほうではなく、畑いっぱいのエンドウ豆を一粒ずつ数えてみたり、三つのボタンを一つの穴にねじ込めば済むと考える目先主義のほうなのである。
 「ストレイト・トーク」の着地点は、私見ではこうである。「わが国は独立国として、国際法上も憲法上も集団的自衛権を保有する。しかし、憲法の趣旨に照らして、集団的自衛権の行使は、抽象的に言うと必要最小限度の範囲に限られる」
 集団的自衛権行使合憲論に転換するのは、理論的には伊奈氏の言う「一八〇度の転換」だが、右の着地点に照らせば実態的には同氏のいう「制約の緩和」とほとんど変らない。今日、極東有事の際に米国から要請があっても――「集団的自衛権行使は違憲」を理由に―断わらざるを得ないが、さりとてそれを断わると日米安保体制が崩壊すると懸念されている類いの対米軍後方支援項目がある。だが、わが国にとり悩みのこれら支援項目は、私の判断では右の範囲内に収まる。しかもそれは、一つのボタン穴に二個、三個のボタンをねじ込むにも似た拡張的な個別的自衛権解釈の下で許されようとしている対米軍後方支援の範囲を、いくばくも出るものではない。現実には両者の差は紙一重と言うべきだろう。だからこそ本稿では、昨今はやりの灰色領域の白黒仕分け必要論に則り微細部分を論じるようなことをしないのである。
 集団的自衛権行使合憲論に転換しても、驚天動地は生じない。そのことを平時において国内的に論じ、かつ取りきめ、対外的にやはり平時において開示すべきなのである。
佐瀬 昌盛(させ まさもり)
1934年生まれ。
東京大学大学院修了。
成蹊大学助教授、防衛大学校教授、現在、拓殖大教授・海外事情研究所長、防衛大名誉教授。
 
 
 
 
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