1990年3月号 諸君
イージス艦、90式戦車etc 自衛隊を蝕む「高級兵器症候群」
小川和久(おがわかずひさ)
昨年来のソ連・東欧圏の激動やマルタで宣言された“冷戦の終焉”は、いずれも二十一世紀を前にした世界が新しい秩序へと雪崩を打つ足音、とみなすことができる。米ソ両超大国の都合に引きずられた結果とはいえ、当然ながら世界の軍事環境にも顕著な変化が現われ始めている。だが、そうした国際情勢の展開にあって、相も変わらず日本だけが戦後一貫して続く戦略喪失状態から抜け出せず、二十世紀の最終コーナーを無事に曲がりおおせるか否か、瀬戸際に立たされているように思えてならない。いささか逆説めくが、いまほど日本に戦略が求められる時代はないのではないか。
いまさら、こんな話を持ち出すのはほかでもない。経済大国を自認するにしては、日本には高いレベルの国家戦略はおろか、純軍事的な防衛戦略すらまともに存在せず、そのことが日本の国益を著しく損ない、国民に無用な負担を強いる結果にさえなっているように感じられるからである。ここでは、海上自衛隊のイージス艦と陸上自衛隊の九〇式戦車を代表例として、そうした戦略不在の象徴ともいえる自衛隊の“高級兵器症候群”について考えてみたい。
あらためて説明するまでもなく、イージス艦は敵の空からの攻撃に対して味方の艦隊や商船を守るため、海上自衛隊が導入を進めている最新鋭の対空ミサイル護衛艦である。シーレーン防衛で重要性を持つ洋上防空の切り札として、ここ数年、マスコミでもたびたび取り上げられてきた。
一九八三年に登場したアメリカのタイコンデロガ級イージス巡洋艦(八八年七月にイラン航空機を撃墜したヴィンセンス、横須賀を母港とするバンカーヒルも同型艦)に代表され、海上自衛隊も八八年度と九〇年度の中期防衛力整備計画中に、タイコンデロガ級より一回り小型のイージス護衛艦を一隻ずつ導入、最終的には八隻から十隻程度まで増強が予想される。一隻の建造費は約千三百億円と、現在の新鋭対空ミサイル護衛艦(八七年一月進水の『しまかぜ』は六百九十二億八千三百万円)の約二倍と高価なため、その面でも話題となった。
しかしながら、ここでイージス艦を取り上げるのは高価な兵器だからという理由からではない。値段が高くとも、本当に国民の安全に役立つのであれば構わないという立場もあり得るのだが、イージス艦の場合、日本に戦略が存在しない結果、高い買い物をさせられたうえ、日本の国益に適っていない点が問題となるからである。
なぜそんなことになるのか。実は、いまの日本で常識とされている防衛思想は全てアメリカとの共同行動が前提となっており、そのため防衛政策にしても、どこまで日本の国益を優先しているのか真剣に議論されることが少なく、その結果としてイージス艦のような兵器が導入されたのである。したがって、イージス艦を運用するシーレーン防衛の構想にしても、防衛庁の思惑はともかくとして、第一義的に日本の独立と周辺の安全を確保する発想ではない。日本全土の実に三・二倍にも相当する広大な南東・南西航路帯を守るのは、日本の国益を擁護すること以上にアメリカの戦略にとって必要な在日米軍基地を機能させることが重視されているからだと考えてよい。
シーレーン防衛の非現実さ
本当に日本の資源輸入ルートとしてのシーレーンを防衛したいのであれば、真っ先にソ連太平洋艦隊の外洋への展開経路を締め上げるチョーク・ポイント(戦略海峡)、つまり宗谷・津軽・対馬の三海峡を制する戦略が構築されなければならないだろう。そうすることで、日本のシーレーンを脅かす危険性の大部分は外洋展開の前に除去され、日本の有事にアメリカの来援を仰ぐ前提で考えても、アメリカの利益にも適うことなのである。
チョーク・ポイントでソ連の外洋展開を阻止する戦略は、もともとアメリカが世界中の戦略海峡で実行してきたものだ。そこではチョーク・ポイントのコントロール能力を確立した後、初めてイージス艦など補完手段が整備される形だった。それが、日本の場合だけチョーク・ポイント戦略を適用することなく、いきなりシーレーンの防衛が語られ、イージス艦導入の方向に動いたのは、日本に確たる防衛戦略が存在しないためだけでなく、アメリカの戦略的思惑によるところが大きいと考えられる。
日本のイージス艦導入構想がどれほど戦略的発想に欠けた代物か、一つのOR(オペレーションズ・リサーチ)の結果を紹介しておこう。結論からいえば、実に驚くべきことに現在の海上自衛隊の四つの護衛隊群は、イージス艦を備えているにもかかわらず、想定される日本有事の状況下で全滅の可能性すらあるのだ。
一般的に考えれば、日米艦隊(アメリカの空母機動部隊二個群が来援、イージス艦はアメリカ八隻、日本四隻、同時発射可能なイージス艦の対空ミサイルは各十八基で合計二百十六基と想定)の中心から百カイリ圏には空母の戦闘機が哨戒し、対潜哨戒機や早期警戒機E2Cの監視の目もある。電子戦機EA6Bも配置されており、このバリアーだけでソ連の対艦ミサイル(二百五十六基と想定)の何割かは撃破できる。だから、そこに十二隻のイージス艦が加われば、なんとか防ぎ切ることは可能なように思われる。
しかし、これは日米艦隊の全てが一定海域に密案している場合であって、現実的な状況ではない。発見される確率を減らし、被害を局限するため日米艦隊も分散するし、ソ連側もイージス艦の対処能力を散らして各個撃破する目的で、様々な陽動作戦を展開してくるだろう。また、攻めるソ連の立場で考えれば、分散した日米艦隊に対して飽和攻撃、つまりイージス艦が同時に誘導できる対空ミサイルの最大数を超える対艦ミサイルを同時に発射してくることは常識と考えてよい。
いかにアメリカの空母機動部隊がシナリオ通り来援したとしても、戦況によっては太平洋と日本海に分散する可能性もある。たとえば、ある海域に日本の護衛隊群が一つだけ展開する状況が生まれたとき、随伴するイージス艦はわずか一隻で、対艦ミサイルへの同時対処能力は十八目標でしかない。ここにソ連が三倍の対艦ミサイルを振り向けてきたら、どうするのか。
海上自衛隊には、アメリカ艦隊のように戦闘機や電子戦機のバリアーはない。ソ連ミサイルの十八発を撃破できたとしても、残るミサイルのうち日本艦隊の短距離艦対空ミサイル、CIWS(バルカン砲システム)、電子妨害などをくぐり抜けた何発かは(確実に致命傷を与えるだろう。このように、状況によっては海上自衛隊の四つの護衛隊群が全滅する可能性は低くはないのである。
このORでは、日米共同研究(八六年十二月調印)に沿ったシナリオで条件を設定したが、それでは何隻のイージス艦を持つことによって、海上自衛隊はソ連の攻撃に対処できるようになるのだろうか。
シーレーン防衛を前提とした現在の“八八艦隊”は、対潜ヘリを三機搭載する大型護衛艦を中心に、一機ずつの対潜ヘリを載せた汎用護衛艦五隻と、対空ミサイル護衛艦二隻を組み合わせ、八隻の艦隊が八機の対潜ヘリで対潜水艦戦(ASW)を行なう考え方に基づく。公表されたイージス艦導入構想(先程のORで前提とした)では、このうち対空ミサイル護衛艦の一隻をイージス艦化するものだが、じつは海上自衛隊が本当に戦えると考えているのは、既に検討したと伝えられる“九九艦隊”導入構想である。九九艦隊は対空ミサイル護衛艦を二隻ともイージス艦に替え、汎用護衛艦も一隻増して対潜ヘリ九機を運用するもので、イージス艦は合計八隻に膨れ上がる。
しかしながら防衛庁は当初、中期防衛力整備計画で建造される二隻のイージス艦で十分、と受け取れるような説明をしてきた。それが現実には、護衛隊群に一隻ずつの合計四隻でもソ連側の攻撃に対処できないとあれば、これだけでも戦略的発想に欠けていたと批判されても仕方ないだろう。それとも、最初の二隻でいかにも安上りのように印象づけておき、あとはなし崩しに必要数を建造できると、国民を甘くみた結果だろうか。 九九艦隊の三つの問題
戦力面だけみれば、確かに二隻のイージス艦を備えた九九艦隊は強力な洋上防空能力を持ち、さきほどのORの心配など吹き飛ばすに十分だろう。だが、決定的な問題を三つも残しており、合格点には程遠い答案というほかない。
第一の問題は予算で、九九艦隊になれば予備艦二隻を加えたイージス艦の勢力は十隻規模になるだろう。価格を千三百億円内外と考えても、関連予算まで含めて二兆円以上の出費を覚悟する必要がある。
第二の問題は、ソ連の対艦ミサイルは通常弾頭のみではない、という点。使用が想定されるソ連の長射程対艦ミサイルはいずれも非核両用弾頭で、核弾頭が使われればイージス艦の対空バリアーなど、ただの一発で粉砕されることも考えられるのである。
第三の問題は、“陸上からの幅広い防空支援”が得られないという点。これは、OTH(超水平線)レーダーで発見した飛翔体を空中早期警戒管制機AWACSやE2Cで確認し、目標がソ連の爆撃機や巡航ミサイルなら、航空自衛隊の戦闘機と地対空ミサイルによって日本列島周辺で撃墜してしまおうという構想で、イージス艦の運用にとって不可欠の条件とされている。こうした航空支援が機能すれば、洋上の艦艇を襲うソ連の対艦ミサイルは大幅に減少し、恐らくは護衛隊群に一隻のイージス艦でも十分、アメリカの空母機動部隊がいる状況なら、日米の損害ゼロという予測すら成り立つかもしれない。
しかし現状では、この陸上からの防空支援は期待できそうにない。第一、航空自衛隊の戦闘機と対空ミサイルは開戦と同時に殺到するソ連軍への応戦に忙殺され、艦隊を狙う爆撃機や巡航ミサイルに対処する余力がなく、第二に、航空自衛隊のレーダーサイト、対空ミサイル陣地、戦闘機基地の抗堪性は極めて低いため、ソ連の第一撃で使用不能になる可能性が大きいからである。
ところが、現在のシーレーンの防衛を前提とした議論の当否はともかく、洋上防空についてはイージス艦以上に費用対効果に優れたプランが幾通りも考えられるのである。ここでは、護衛隊群に一隻ずつプラス予備艦の五隻のイージス艦に対応する一兆円の予算規模で考えるが、予算面だけでなく、核兵器への対処能力や陸上からの支援の問題でもイージス艦の問題点を補って余りある。その点からもイージス艦導入構想は批判されてしかるベきだろう。
たとえば、P3・AEW(P3C対潜哨戒機の早期警戒機型)に射程百五十キロのフェニックス空対空ミサイルを十二発搭載し、艦隊の外周を哨戒させる構想はどうか。一機二百億円ほどだから一兆円なら五十機導入でき、フェニックス・ミサイルを六百発積めるから、単純計算ではイージス艦四隻の同時対処能力の八倍以上にも達する。しかも、はるか艦隊の外側でミサイルに対処するから、核弾頭にもイージス艦より抗堪性がある。
イギリス海軍のように、コンテナ船に飛行甲板と航空管制設備を取りつけ、そこに垂直・短距離離着陸戦闘機シーハリアーを十機程度搭載する簡易空母構想も考えられるだろう。コンテナ船、シーハリアー、随伴タンカーの価格と改造費で、一セット六、七百億円。一兆円の予算なら実に十六も簡易空母群が実現する。搭載されるシーハリアーは百六十機。一機あたりサイドワインダー空対空ミサイル二発を積むから、イージス艦のミサイルの射程の五倍も外側、七百五十キロの戦闘行動半径内に三百二十発の空対空ミサイルを配備でき、核弾頭への抗堪性も高い。
さらにP3・AEWには早期警戒機能があり、簡易空母の場合も一部の船にE2C専用の飛行甲板を設けられるから、陸上からの支援をあてにせず早期警戒機を運用できる利点もある。そして、これらのアイデアの強みは、何よりも汎用性だろう。P3・AEWは早期警戒機として、シーハリアーは三海峡防衛などにおける攻撃機として、洋上防空にとどまらない戦力として使えるからである。
むろん、こうした技術的問題以前にチョーク・ポイント戦略が確立される必要があることは説明するまでもない。とにかく、以上のような問題すらイージス艦導入に際して議論が公にならなかったのだから、これはもう戦略不在以外の何物でもなかろう。
といっても、防衛庁はともかく、こんな初歩的なことをアメリカ側が知らなかったとは思えない。アメリカはなぜ、効果的なチョーク・ポイント戦略の採用を日本側に提案しなかったのか、不思議でならない。実をいえば、その理由は二つ考えられる。
第一は、在日米軍基地の機能を有事にも維持するため、自らシーレーンの防衛を必要としている、という点である。
余り知られていないことだが、在日米軍基地には米軍が地球の半分(ハワイの西側からアフリカ最南端のケープタウンまでの範囲)で戦うための機能が、第一線兵力のほか、燃料、弾薬から情報機能まで置かれている。これほど出撃・兵站・情報の機能が集中した在日米軍基地である。有事においても間断なく兵力と補給物資を運び込むためにシーレーンの安全を確保し、基地機能を維持できるシフトを調えることで初めて、アメリカは軍事的にソ連を圧倒して覇権を確立することができたと考えてよい。そのためには、日本へのシーレーンの確保は避けられない命題だったのである。
第二は、チョーク・ポイント戦略の二面性を熟知していることによる。
日米同盟が良好に推移している限り、日本のチョーク・ポイント戦略はソ連太平洋艦隊の外洋展開を阻止する方向に機能する。しかし、同盟関係に亀裂が生じたり、米ソ間にあって日本が中立的立場を貫こうとした場合には、アメリカ海軍のソ連沿岸への接近を拒む関門にも変わり得る。そんな米ソ戦の勝敗を左右するほどの危険な両刃の剣を、日本に持たせるわけにいかなかったのである。
要するに、アメリカは海上自衛隊を自立した海軍力に成長させることなく、創設時の思惑通り潜水艦狩りを主任務とする補助艦隊にとどめておき、有事における在日米軍基地の機能維持のためにシーレーンを防衛させることを、戦略の根底に据えているのである。そして、米ソ間にあって日本が戦略的イニシアチブを握ることがないよう、チョーク・ポイント戦略については頬かむりしておく。そうした対日戦略をも含めたところで、アメリカは“日本のための資源輸入ルートの確保”という大義名分のもとシーレーン防衛を提案した、ということではなかったか。
したがって日本が防衛戦略を考える場合、そのように何事も日米共同で行動するという前提からして、今後は疑問を抱きつつ検討する必要があるのではないかと思う。そうした独立国家の原点ともいえる部分で詰めた議論が行なわれなかったことで、防衛問題に限らず、日本の政策はいつもアメリカの都合によって振り回されてきたのではなかったか。いうまでもなく同盟関係は力関係だから、原点を押えていない日本の防衛政策はアメリカにとって都合のよい形に動かされ、防衛予算にしてもアメリカの国益に即した形で膨張してきたとはいえないだろうか。
その意味からすれば、日本が原点を明確にすること、すなわち国家の防衛について戦略を明確にすることは、際限ない防衛予算の肥大化に対しても確たる歯止めになり得るものと考える。そして、今後の日本はそうした独立国家の原点を踏まえたうえで、経済摩擦にせよリビジョニストの対日批判にせよ、アメリカとまっとうに交渉していく必要があるのではないか。
このように眺めるとき、イージス艦が日本の防衛を内側からむしばむトロイの木馬に変わりかねない危険性に、慄然とさせられるのである。
移動に不便な重量級戦車
いま一つ、トロイの木馬の話をしなければならない。一九九〇年度から陸上自衛隊が装備を始める九〇式戦車である。まずは、開発陣が“世界最高レベル”と胸を張るそのプロフィールを紹介しておこう。
砲の先端までの全長九・七メートル、幅三・四メートル、全備重量五十二トン、最大速度七十キロで主砲は口径一二〇ミリの滑腔砲。FCS(射撃統制装置)にYAGレーザー測遠機、誘導照準装置、熱線映像装置などを組み込んだハイテク装備の塊で、主砲の命中精度と破壊力、複合装甲の防護力、千五百馬力エンジンの機動力のどれをとっても、世界の現有戦車最高の性能なのだという。
確かにカタログ・データでみるかぎり、開発陣のいう「欧米やソ連の新鋭戦車に比べて遜色なし」という九〇式の評価は、誇張抜きに正当なもののように思える。ちなみに“世界の一流品”の評価を受けている戦車は、M1A1(アメリカ、一二〇ミリ滑腔砲、五十七トン、千五百馬力)、レオパルトII(西ドイツ、一二〇ミリ滑腔砲、五十五トン、千五百馬力〉、チャレンジャー(イギリス、一二〇ミリ砲、六十二トン、千二百馬力)、T80(ソ連、一二五ミリ滑腔砲、四十二トン、九百八十五馬力)、といった顔ぶれである。
しかし、九〇式戦車については当の陸上自衛隊の内部でさえ、七〇年代の開発当初から疑問視する声が絶えたことがない。
「第一、九〇式は図体が大きすぎて狭い日本の地形では使えない。移動する段階からして障害が多すぎます」
というのは、陸上自衛隊の運用に携わる一佐だ。開発陣の自己評価とは裏腹に、そんな声が肝心のユーザーから聞こえるのは、いったいどうしたことだろう。
事実、現在の主力戦車七四式(幅三・二メートル、三十八トン、大型観光バスの横幅二・五メートルと比べてもらいたい)にしてからが、そのまま積める貨車がほとんどなく列車輸送時には仕方なくキャタピラを外している。五十トンを超える九〇式では、車体と砲塔を切り離さなければ貨車に積めないという。道路輸送にしても、戦場までキャタピラを傷めずに運ぶための必需品タンク・トランスポーター(戦車輸送用大型トレーラー)が一部の輸送部隊以外にはなく、民間フェリーなどを利用するとき船倉の床を補強するための戦車用パレットも準備されていない。
これでは仏作って魂入れず、九〇式は戦場到着前に撃破されたも同然ではないか。
むろん、防衛庁サイドからは「九〇式は北海道の第一線に配備するのだから心配ない」という反論も聞こえてくる。しかし、これは素人の足元をみた詭弁でしかなかろう。
防衛庁がいうように、確かに日本列島の地理的条件と周辺諸国の軍事的環境を眺めたとき、北海道に国土防衛の重点を置く北方重視の軍事戦略は、一定の合理性を備えてはいる。仮りにソ連と安全保障条約を結んで同盟関係にあったとしても、現状においては周辺諸国のうちでソ連の軍事的脅威度が最も高く、侵攻を受ける可能性が考えられるのは北海道だからである。
だが、戦車を運用する立場の陸上自衛隊の高級幹部たちは、九〇式の北海道重点配備論に対しても困惑の表情を隠さない。彼らは、イスラエルのイスラエリ・タル少将に代表される意見を熟知しており、一回り以上小柄な七四式のサイズでさえ、戦車本来の機動打撃力としての運用が可能なのは北海道に限られ、道路が狭く山岳地形の多い本州以西では自在に運用できないと、配備当初から問題視していたからである。
七〇年代後半、陸上自衛隊の高級幹部とOBを交え、研究雑誌『幹部学校記事』(現・陸戦研究)を舞台に“戦車無用論”が闘わされたのは関係者間で記憶に生々しい。世界的な戦車戦のオーソリティーとして東側陣営からも尊敬を集めているタル少将でさえ、北海道のような地形では攻撃ヘリとミサイルを主体にした対戦車戦闘を構想し、ソ連戦車を戦車で迎え撃つような非効率的な戦法はとらない、と明言しているのである。
したがって、陸上自衛隊の専門家と議論を突き詰めていくと、「現在の七四式戦車のうちBタイプと呼ばれる改良型を機能向上させたほうが効果的」といった意見、あるいは、「西ドイツ製のレオパルトIIを輸入して北海道に配備し、本州以西は七四式の改良型で守ろう」という意見が示されたりする。
しかしながら、七四式の改良型の理屈はわかるとして、同じ重量級戦車なのに、なぜ九〇式ではなくレオパルトIIなのか。ここで初めて、陸上自衛隊側から費用対効果という言葉を聞くことができた。
陸上自衛隊内部の九〇式批判の声は、要するに一両十二億円もしてバカ高い九〇式を定数通り一千両以上装備すれば、それだけで一兆二千億円以上の出費となり、関連予算を含めてイージス艦に匹敵する巨額を必要とするが、それだけの費用を払うほどの効果を期待できない、というもの。同じ北海道にだけ重量級戦車を配備するのであれば、たとえば一両約四億円で輸入できるレオパルトIIなら、九〇式に比べて信頼性に定評があり、日本独自の改良を施せば輸入兵器の弱点を克服できる、ともいう。
同時に、重量級戦車はもはや時代遅れ、という指摘もある。
九〇式をはじめ列国の戦車が軒並み重量化したのは、火力、装甲防護力、機動力という“戦車の三要素”を全て向上させた結果である。なかでも日本が開発にあたって五十トンのラインに固執したのは一二〇ミリという大口径の戦車砲から秒速千六百メートル以上の高速徹甲弾を撃ち出すうえで反動に耐えられ、しかも大口径砲用の弾薬を一定数積める車体が必要だったからである。ところが、列国の戦車の研究開発は小口径の戦車砲から高速徹甲弾を発射する方向に推移しつつあり、重量級戦車にこだわる必要が薄れ始めているというのだ。
しかしながら、こうした陸上自衛隊内部の九〇式批判にしても、さらに高度な戦略的発想から費用対効果に言及されたとはいい難く、イージス艦の場合のP3・AEWや簡易空母といった代替案の域を出ないものであろう。九〇式戦車の開発も、日本における陸上戦闘の基本条件が戦略的に検討された結果、とはいえないのではないか。
精神主義の悪弊
ここではむしろ、さきほどのタル少将ではないが、まず最初に「戦車に対する方法には戦車しかないのか」と疑問を抱くべきではないのか。そして、上陸したソ連戦車を撃滅する以前に、ソ連軍を上陸させないために洋上で撃破する戦略戦術が優先されるべきだし、何にも増してソ連に戦争する気を起こさせないよう、チョーク・ポイント戦略のような国家防衛の原点について検討が行なわれなければならないだろう。九〇式戦車のために予定される巨額の予算は、その部分に振り向けられるべき性格のものなのである。
そのように、戦略を基礎から積みあげるステップを踏んだうえでソ連戦車に対する戦略戦術は練られるべきであろう。そこにおいても戦車を制するのに戦車をもってする旧習を墨守するのではなく、アメリカ騎兵隊の馬がジープを経てヘリコプターに変化していったように、戦車を一両も持たない機甲科(戦車職種)が生れるような発想の転換がなされてもよいだろう。
また、同じ戦車を持つにしても、ソ連の新型戦車FST1型(2型という情報もある)のように、NATOの大平原で電撃戦を展開するための遠戦能力を犠牲にした無砲塔型のデザインのうえに、国内で防衛的に使ううえでは比類のない能力を付与して専守防衛型の戦車を開発するようなことも、行なわれてよいのではないか。
そして、九〇式戦車の調達を中止して生れた予算的余裕のなかで、画期的な対戦車戦闘の戦略戦術と兵器を考えるのである。あるいは、仮りにレオパルトIIを一千両導入すると四千億円だから、九〇式一千両との差額八千億円の中から、もっと有効な防衛の手だてを生みだしていくのである。その間の対戦車戦闘能力の低下が気になるのであれば、それこそ過渡期の選択肢として直ちに七四式戦車の大幅改良に取りかかればよいと思う。
航空自衛隊のFSX(次期支援戦闘機)導入のときにも議論されたことだが、戦車の国産化をしなければ技術的伝統が消え、後継技術者が育たないと懸念するむきには、こう答えておこう。戦車抜きで新たな対戦車戦闘の戦略戦術を考えると同時に、新型戦車の開発も引き続き行なえばよい、と。ただし、その新型戦車は対戦車戦闘の研究を深める目的で開発するのだから量産はせず、アメリカが行なっているようなプリプロダクションの段階でとどめる。こうすれば生産台数は二十両から五十両に限定されるが、これなら技術的継承も可能である。戦車に代わる対戦車戦闘の技術が開発されることで防衛産業への影響も懸念するには及ばない。
実をいえば、こんな理屈は防衛庁や陸上自衛隊の幹部にはとっくにわかっている。それでも“列国なみの重量級戦車”にこだわるのは、もっとメンタルな理由からである。いわく、「上陸した敵に威圧感を与えることができる」、「味方の歩兵部隊が安心感を抱く」、「国民の精神的支柱になる」等々。そして、もっと本音をいえば、「強力な戦車抜きの陸軍では格好がつかない」ということに帰結するのである。これこそ、科学的思考の重要性を叩き込まれたはずの防衛大学校出身世代が、最も避けるべき精神主義の悪弊であろう。
ここではまず、軍事常識的に首をかしげざるを得ないような重量級戦車の開発に、なぜ同盟国のアメリカは反対しないのかと、独立国家同士の国益の側面から疑問を抱くべきではないか。限られた予算が高価な九〇式戦車に食われることになれば、最もチョーク・ポイント戦略に近い発想を持つ陸上自衛隊の構想が戦略海峡の防備強化に向かえなくなることを、アメリカが密かに期待している可能性について、どうして疑わないのか。悪しき精神主義が、国防に必要な科学的視野を曇らせた結果としか思えない。
仮りに、どれほど画期的技術の結晶であろうと、こうした精神主義が払拭されないかぎり、九〇式戦車もまた内側から自衛隊をむしばむトロイの木馬になることは避けようがないだろう。
しかしながら、イージス艦と九〇式戦車に象徴される問題点のうち、とりわけ深刻さを感じさせるのは日本の防衛力の構造的倒錯の問題であろう。
シーレーン防衛の構想一つをみても、アメリカとの同盟関係を前提に、米ソ戦の様相におけるアメリカの同盟国・日本、という論理があたかも自明の理のごとく貫徹している。そこにおいては、海上自衛隊は第一義的に何から何を守るのか、そのためにどうするのが効果的かについて、これまで根本的な議論が行なわれたようには思えない。
国益に適わない防衛力
本来、国家の防衛とは自国だけでも一定の防衛力を備える道、つまり完結した防衛力の整備を探ることが根底にあり、その不足部分を補う意味において初めて、適切な同盟関係が求められるべきものではないのか。それが、根底に据えられるべき完結した防衛力の整備を怠り、最初から日米同盟の関係において国家の防衛を語ってきたのだから、国力に勝るアメリカの国益を優先する形になるのは当然すぎる帰結であろう。この部分において、日本の防衛力は構造的に倒錯した状態にある。こうした基本的議論を抜きにイージス艦や九〇式戦車を導入し、日米共同作戦を検討したところで、日本の国益に適った防衛力の整備が進むはずがあるまい。
二十一世紀への新しい潮流にあって、軍事力をリーダーシップ確立の大黒柱と頼んできたアメリカでさえ国防予算削減に踏み切り、M1戦車の調達を中止した。MXミサイルの配備にもストップがかかる方向が示されている。そのように軍事にかかわる戦略もまた、国家の生存を模索する道筋で融通無碍に検討が加えられるべきものであろう。
日本が無事に二十一世紀を迎えられるかどうかは、実は経済摩擦の解消によって測ることのできるテーマではない。ポスト冷戦時代の“平和の配当”論議にしても、軍事を含む国際政治の局面において、どこまで世界に通用する戦略を構築し、同時に信頼を獲得できるかで説得力と交渉力が問われる、といってよい。西側の一員という国家的立脚点についても、まず最初に政治的に問われなければならず、その中心にくるものはいうまでもなく軍事問題である。悪しき精神主義によって、戦略的思考の欠落を高価な兵器の導入で糊塗しようとしたり、国家の防衛問題を兵器導入の決定者・開発者といった官僚機構の面子や責任問題に矮小化してはなるまい。
イージス艦と九〇式戦車に象徴される自衛隊の“高級兵器症候群”は、日本には高い次元の国家戦略はおろか、運用戦略としての防衛構想すら存在しないことで生じた疾病、といって構わないだろう。
◇小川和久(おがわ かずひさ)
1945年生まれ。陸上自衛隊航空学校を経て同志社大学神学部中退。
週刊誌記者を経て軍事アナリストとして独立。現在、危機管理総合研究所長。
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