1995/10/05 読売新聞朝刊
[戦後教育は変わるのか](3)諸井虔氏に聞く 効率より個性で勝負(連載)
◆脱“日本的経営” エゴ排して改革
――日教組と文部省の「歴史的和解」をどう評価しますか。
諸井氏 まずは、よかったと思う。しかし、随分と時間がかかったという感じがする。思想的な対立や、理念的な対立があったのでしょうし、時間がたつとそれぞれに組織防衛という側面が出てしまったのではないか。
子供の教育をどうするかという視点に立てば、今回の和解も当たり前のことであって、子供をそっちのけで、自分たちの権利、権限という側面で互いにやり合ってきたこと自体がナンセンス。そんなことはさっさとやめた方がよかった。
――校内暴力や学歴社会に対して、経済人の立場から様々に発言してこられました。現在の教育の問題はどこにあるのでしょうか。
諸井氏 日教組や文部省はもちろん、PTA、そして、子供たちを最終的に採用するという立場から企業も、それぞれのセクター(分野)が教育に対して、それぞれどれだけギルティー(罪深い)かという点をきちんと認識しなければならないと思う。
それぞれのセクターが、自分のところはいいんだ、他が悪いんだということでは解決への道は遠い。文部省は日教組が悪いと言い、日教組は文部省のせいにする。あるいは、先生が悪い、親が悪い。そう言っている間は教育が抱える問題は絶対に解決しない。
例えば、われわれ企業も三つの点でギルティーだった。社員の採用に絡んで、有名校の優秀と言われる子供たちを主に取ってきたが、これがまず受験戦争の引き金になってしまった。
もう一つは、家庭から父親を取り上げてしまったんじゃないか。モーレツ社員という形で。
また、意識してやったんじゃないが、金がすべてという拝金思想というものをまん延させてしまったんじゃないかと思う。日教組も文部省も、まずそれぞれ背負っている問題点を見つめ直せばいいと思う。
――産業界が置かれている環境も変わってきていますか。
諸井氏 十年前には、受験戦争を引き起こすような偏差値偏重の採用にもそれなりの合理性があった。良質な「金太郎アメ集団」を作るのが企業にとって効率がよかったわけです。とてつもなくずばぬけた能力の人や平均点よりも下の人がまじると効率が落ちた。まず能力をそろえて、全体のレベルを上げるというのがこれまでの採用だった。
しかし、そうした日本的な経営による効率の高い大量生産というものが、東南アジアや欧米でもどんどんやれるようになって、もう日本の特徴ではなくなった。
これからは、いかに新しいものを生み出していくか、優れた特徴を持ったスペシャリストをどれだけ集めていくかが企業活動の勝負どころになると思う。
教育の現実に即して言えば、家庭ではまずしつけをしっかりして、学校、特に初等教育では基礎を教える。多くのことを教える必要はない。それから、だんだんと個性を伸ばしていって自分の好きなことはとことん出来るスペシャリストに育てていくことが必要だと思う。
――大学審議会や教育課程審議会に参加された経験を踏まえて、教育界への提言を。
諸井氏 子供のために教育の重点を変え、教育内容や時間配分を変えるという議論になると、一番最初に出てくるのは、先生たちのエゴイズムなんです。
国語の時間を削って体育の時間を増やす。あるいはその逆でも同じ。増やしてもらう側は大喜びで、減らされる方は絶対反対。ぎりぎりの議論になると自分たちの勢力分野のことしか関心がなくなる。教え方を変えることも非常にいやがる。そんなことでいい教育が出来るでしょうか。
先例墨守というか、悪口を言ってもしようがないが、とてもプリミティブなところで改革が出来ない現実がある。こうした部分を国民の世論で排除し、変えていかなければならないと思いますね。(聞き手・堀井宏悦)
◇諸井虔(もろい けん)
1928年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
日本興行銀行、秩父セメント社長、会長を経て、現在、太平洋セメント相談役。
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