2000/09/16 産経新聞朝刊
【正論】作家 三浦朱門 「学力低下」をどうみるか
◆教育学会の沈黙はなぜ?
新しい教育課程によると、日本の生徒の学力が低下することが、問題になっている。先日の産経新聞によると、文部省は来年度に、その実体を調べるために、学力テストを行うという。その少し後の社説でも、昭和四十一年以来、日教組の反対によって、学力テストが行えなかったことも述べて、学力テストの必要性を論じていた。私もテスト実施は大賛成である。
それというのも、日本の教育問題について、色々のことが言われているが、その実体となるデータの類(たぐい)はほとんど存在しない。学力に加えて、国家観、道徳観、社会や家庭、などの問題についての子供の意識調査も必要であろう。
この種の調査は継続的に行わないかぎり、時代による傾向など判るはずもない。そういった基礎データなしに、改革を論じようと、改革案に反対をしようと、机上の空論になる。
教育問題になると、文部省と日教組の対立、いや、実は両者はなれあいなのだ、といったことが言われるが、中立的立場をとりうる日本の教育学会が、日本の学校教育の実体について、ほとんど何も発言していないことも問題にすべきである。
私は東京都の教育委員をしている時に、委員の間では、一クラスの生徒数が少ないほうがよい、といった意見が圧倒的だったが、一クラス最適人数は、授業科目によって相違があるだろう。音楽の器楽の演奏を教育するなら、個人レッスンが好ましいだろうし、体育でサッカーをするなら、一クラス二十二人は必要だ、といった発言をしたことが二、三度あった。東京都は教育研究所なるものを持っているにもかかわらず、その答えが返ってきたことはなかった。
◆教育の実体把握が先決
だから教育について発言する人は関係者なら自分の限定された体験、そうでない人は理念や専門外の知見からする意見に基づいて発言するより仕方がなかった。教育学会の従来の怠慢を思うと、文部省で行うテストは、原則として教育学関係者を除外したほうが望ましいのではないかと思う。
イリノイ州にはシカゴという大都市があり、シカゴ大学は日本でもよく知られたデューイをはじめとする先進的な教育学者がでて、日本にも大きな影響を与えたが、この州の公立学校は、各学年における各科目の成績を州の成績と共に、偏差値で公表する義務がある。同時に父兄の人種構成、経済状況をパーセントで公表する。
これは差別につながらないか、と質問したところ、教育について改革を考えるなら、まず現状を把握しなければならない、という答えであった。日本の現状ではまず実行不可能な調査であろう。
日本で学力テストを行うなら、継続的に行うだけでなく、このような学校間格差、地域格差をも含めて実体を継続的に調べ、学力差のできた理由も公表する必要がある。そして義務教育である以上、父兄は自分の子弟、子女の教育を託す学校を選択する自由も認めてもよかろう。
前回の教育課程審議会の結果、必修科目内容の低下は、学力低下につながるという意見が多い。この審議会に関係した者として、弁明する必要があろう。
◆できる生徒退屈させるな
果たして以前の高い内容を必修として学習した子供たちは、高い学力をもっていたのだろうか。戦前の大学卒業者でも、文科系なら代数は二次方程式になると、もうお手上げといった人がかなりいたのではないだろうか。外国文学専攻で卒業論文はすべて翻訳ですませた人のことも耳にした。しかし、彼らの中にも社会人として、また日本の知性の代表としての責務を、立派にはたしてきた人も多い。
同年代の九十五パーセントが高校に行き、ほぼ半分の人が高等教育機関に学ぶ時代である。大学というものを、昔の知的エリートのための教育機関、という先入観を捨てなければならない。今日かなりの大学は、旧制の公立中学でいえば二、三年生の学力者を受け入れなければならないのだ。
共通最低学力は低くとも、人によって、その上に高度の学力をつけることを可能にする。それが近来評判の悪いユトリではないか。たとえば中学の数学三年間の課程を半年でマスターする子には、進んだ学習を可能にすればよい。
音楽や美術の才能のある人は、学科は最低でもよいから余った時間を自分の才能を伸ばすことに使う。音楽に優れた人で、理系の科目や社会・人文関係の科目に興味を持つ子は、彼らにはその興味を満たす機会を与えたらよい。
従来のように落ちこぼれを救うためと称して、能力のある生徒を退屈させることをやめて、必要最低限の共通学力の上に、個性的な学力をつける時代ではないだろうか。今や教育の平準化という悪平等をやめ、教育の実体を調査した上で、個々の生徒が質と分野の広がりにおいて、格差の大きな学習が可能な学校教育を、考える時代であろう。(みうら しゅもん)
◇三浦 朱門(みうら しゅもん)
1926年生まれ。
東京大学卒業。
作家、元文化庁長官。
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