1999/11/03 産経新聞朝刊
【正論】成城学園長 本間長世 基礎学力の重要性忘れずに 英語教育の理念しっかり
◆若者の学力低下が心配だ
日本の若者たちの学力が心配である。
今日の大学生および大学受験生の学力が目に見えて低下し続けていることについては、すでに多くの例や数字が挙げられてきている。『分数ができない大学生』と題する書物が話題となる一方で、百七十人の授業「道徳教育」で、「かげひなたなく」という語を知っている者が一人もいなかったという例も報告されている。これでは「読み書きそろばん」といわれてきた最も基礎となる学力が身につかぬまま、“高等教育”を修め、卒業して学士となって社会に出て行くことになる。
もちろん、個々の若者についてみれば、資質も優れ、意欲も大いにあり、頼もしいと思う学生がいないわけではない。また、「今の学生は昔に比べてできなくなった」という歎きは、これまでもくり返されてきたということはあるだろう。現在ベストセラーになっている大野晋教授の『日本語練習帳』の中に、「今から何千年も昔の楔形文字を解読したところ、『このごろの若者の言葉づかいが悪くて困る』とあった」という例が引かれている。しかしやはり、大野教授は、「敬語の基本」を六〇ページにわたって丁寧に説明しておられるのである。
◆現場の混乱を深めている
例外を除く一般的な学力の低下の傾向は、このままで行けば今後ますます強まって行くと覚悟しなくてはならないのではないか。人気漫画「アサッテ君」の最近の傑作に、おばあさんに「JCOって何の略?」と尋ねられた大学生が、「常識ねーなー」と答え、恐縮したおばあさんに、「いまどきの大学生にそんなこと聞くなんて」と言い捨てて立ち去るというのがあった。
常識がないことを平然と認める者は見放すとしても、基礎学力を身につけるという自己の生涯の重要な段階にある小・中・高の各学校の生徒たちが、「ゆとりある教育」のため「教育内容を厳選」した結果、学習指導要領で定められた各学年の学習内容が量質共に引き下げられた教育を受けることの影響は、じわじわと現れてくるであろう。
身につかない知識の詰めこみを押しつけるのはたしかに意味がない。受験勉強の弊害はもちろんある。しかし、だからといって、基本的知識とその活用能力を学習させることをおろそかにしてはならない。人間は生きている限り学び続けるのだということに、誰しも異論はなかろう。けれども、人間形成期にどれだけの学力を獲得したかは、大人になってからの才覚や判断に微妙な、しかし決定的な差を生み出すと思う。
教育危機が叫ばれ、教育改革が急務となって、さまざまな対応策が打ち出されてきたが、関係者たちの努力に敬意を表した上で、少なくとも結果的には、教育をいじくり回して現場の混乱を深めていると言わざるを得ないのではないか。
ひとつの、しかし重要な例は、小学校への英語教育の導入である。新しい学習指導要領では、「総合的な学習の時間」が設けられ、英語の学習はその中で行えるようにされている。しかし、総合的な学習は、当然に「横断的・総合的な学習」であるべきで、言語の学習をこの枠に入れるのには無理がある。さらに、指導要領では、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」を目指すよう明記してあるが、これは明らかに外国語学習の初歩的段階において求められるべきことではない。
その上、「国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等を行うときは」という限定がなされているので、英語を言語として学ぶこと自体を学習の目的とすると、指導要領から逸脱するのではないかという心配が生まれてくる。そもそも、学習という語を使ってよいのかどうかも確かでない。指導要領の表現は「児童が外国語に触れたり」というのであって、会話等を行って英語に触れるだけにとどめるというのが指導方針なのである。
◆基礎学力に英語力は必要
英語にせよ日本語にせよ、言語に触れるとはどういうことなのだろうか。中学校学習指導要領の英語の項を見ると、第一学年における言語活動の方針説明の冒頭に「英語を初めて学習することに配慮し」とあるので、小学校での英語教育は学習とは見なされていない。従って、英語に触れるという程度にとどめておくと解すべきなのだろうか。まことに中途半端な扱い方である。
私は、二十一世紀に活躍すべき日本人の基礎学力の中に、国際コミュニケーションの手段としての英語力が含まれるべきだと思う。ただし、義務教育の段階での英語学習を強化するというのであれば、外国語を学ぶ適性がある者だけの選択制の方が有効であるとか、学習意欲が生まれる大学生の時から始める方が能率的であるという意見に立ち向かえるだけの、英語教育の理念と方法論がしっかりしていなくてはならない。
新設される教育改革国民会議で教育のあり方が論じられる中で、基礎学力の重要性が忘れ去られないよう切に望むものである。(ほんま ながよ)
◇本間 長世(ほんま ながよ)
1929年生まれ。
東京大学教養学部卒業。米国コロンビア大学大学院博士課程修了。
東京大学助教授、教授、教養学部学部長を歴任。東京大学退官後、国際交流基金日米センター所長、成城学園長を歴任。
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